外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

知識人と群衆、あるいは左派亜インテリ

菅原潤『弁証法とイロニー』(講談社選書メチエ、2013年)読了。自分がひっかかっている左派亜インテリの問題と、30年代における、知識人(芸術家)と群衆(大衆)との間の異同をめぐる思索、問題設定が直結してることがよくわかった。この本の著者によれば、ヘルダーリンとシュレーゲルの影響を強く受けた若き保田與重郎は、知識人=芸術家が愚劣な群衆を見下し、それを乗り越えようとして、却ってその群衆に復讐されるかたちで没落してしまうという点に一貫して固執していたそうだ。その没落こそ、逆説的な仕方で芸術家の崇高さ=勝利を証すのだが、しかし同時に、没落はしょせん愚劣かつ矮小で目も当てらない状態しかもたらさないから、軽蔑していた群衆と自らが実は同一の存在だったという事実が突きつけられてしまうことでもある。保田が使う「内なる大衆」という表現の意味は今一つ曖昧なところもあるのだが、著者である菅原は、それはどうも、自らの存在との同一性が明かされた後者の群衆のあり方を指しているのではないかと推測していた。

イロニーと弁証法が求めるもの

そして保田の言う〈イロニー〉とは多分、――これはこちらの勝手な解釈なのだが――知識人としての己れをそこから区別しようとする前者の群衆と、自らがそこへと没落していく後者のそれとの間に開かれた宙吊り空間を意識的に保持して、その空間の中にあくまで居続けながら、より強靭でしたたかな知識人としてのアイデンティティを形成しようとする試みのことなのではないだろうか(もちろん後年の保田は、あらかじめ失われ、一度も享受したことのない血統としての「日本」というものを賛美することによって、この宙吊り状態をさらに強靭なものにしようとしたため、逆に足を掬われてしまったのだが・・)。それに対して、この保田的イロニーと対比されていた、田辺元の交互転換としての〈絶対弁証法〉とは、知識人と群衆との間に存在した対立をむしろ激化させ、それを留保なき断絶にまで高めることによって、断絶を前にして対立する両項そのものがなすすべもなく没落してしまうのを敢えて促すものである(そこでは、知識人が没落して愚かな群衆のうちに吸収されてしまうだけではなく、当の群衆そのものも、安定した基盤としての同一性を失って消失してしまう)。没落の結果、かつての知識人に相当した者は、もはや階級的には何ものにも依拠しないがゆえに根なし草でしかなくなる一方で、逆にそうであるがゆえにこそ、(田辺自身の言を用いれば)「対象なき純粋な作用」の状態を実現して、自由闊達の境地に遊ぶことができるようになる。

保田的な〈イロニー〉とは、図式化して言えば、知識人と群衆との間の断絶と、その同一性を媒介することの不可能性を前にして佇み続け、しかも断言や決定を控える、まさに皮肉なもの言いを続けることによって、その佇み状態を批評原理にまで高めようとする試みだと言えるだろう。それに対して田辺的な〈弁証法〉とは、その媒介不可能性が逆に絶対の媒介と化すことを求め(媒介性それ自体の反転)、もはや知識人と群衆との間の対立には囚われないような、別の境地を実現させようとするものだと言える。ところで弁証法というものは、一般に、常に理念の実現を求めて前進・変転していくようなものである。だが田辺の弁証法の場合は、特に晩期の懺悔道の段階になると、死者と生者との間の断絶と同一性との間の媒介不可能性の前に、ただ単に佇むだけになっているような気がする。これでは、自らの途方に暮れた動きの取れなさを、前言撤回的な皮肉な表現の継続によって、何とかそれを現実に介入できる柔軟な批評原理にしようとする、〈イロニー〉というものとの区別が不分明になってしまうのではないだろうか*1

左派亜インテリにおける、知識人と群衆との間の同一性

さて60年代末の学生運動が、70年代以降の日本社会のうちに新たに解き放った、左派亜インテリの存在が明らかにしているのは、いったいどんなことだろうか。それは、愚直かつ傲慢にも、自らがサバルタンとしての群衆を表象代行しようと試みたこと自体が、実は、自分自身がそうした群衆の一人でしかなかったことのしるしであるという事実ではないだろうか。それゆえそこでは、サバルタン的な群衆が改めて二重化されるようになるのではないか。言葉を持たないサバルタン的群衆を表象代行しようとすること自体が、実は自らがそうした群衆の一人でしかなかったことの証左であるならば、この後者の方の群衆性は、前者以上に徹底的に言葉や表象を奪われたままであることになるからだ。そして、その後者のそれこそが、疾しい良心に基づいた表象代行の試みや、無辜の群衆に少しでも近づくための絶えざる自己反省や自己否定という、誠実だが空回りしがちな行為を発動させてしまった当のものだったのではないか(何を言ってるのかよくわからないかも知れないが)。というのは、疾しい良心に足を掬われてしまう程度の知識人性というのは、知識人のあり方としては実はとても中途半端なものだったのであり、それは、自らもまた(長崎浩的に言えば、「68年の大衆叛乱」の尻馬に乗っただけの)ありふれた群衆の一人でしかなかったという事実を如実に突きつけるからだ(現代日本では、エドワード・サイードの「第3世界の批判的知識人」という知識人観が、このあたりのことを見え難くさせている役割を果たしているような気がしないでもないが)*2

30年代の保田のイロニー性をめぐる議論では、知識人が群衆性から上昇しようとして却って没落し、その没落した状態において群衆との同一性が曖昧なかたちで徴づけられたのだったが、ポスト68年の亜インテリの場合では、疾しい良心に足を掬われて、どこにも存在しない群衆表象と一体化しようとしてエアポケット空間に嵌り、その空間の中で凝固することこそが、まさに一種の群衆性(知識人としても群衆としても中途半端な状態)を、当人の意思に反して体現してしまうことになるのだろう*3。この両者の知識人性と群衆性との間の関係の違いや、そのダイナミズムのあり方の違いは大変重要だと思われる。

左派亜インテリの表象代行主義

ポスト68年の知識人のあり方を体現している左派亜インテリの場合、倫理的な表象代行主義の姿勢が新たに混入してくるから、知識人と群衆との間の関係は、以上見たようなものとはかなり趣が異なってくる*4。表象代行主義とは、前衛党による指導とも、上からの啓蒙とも異なるものであり、それはサバルタン状態に置かれた群衆の代わりに、その利害や隠された思いを知識人として代言していこうとする姿勢のことだ。こうした姿勢は、一見特に問題がないように見えるのだが、実際は常に倒錯や傲慢さがつきまとい、しかもそれらを意識して改めようとすればする程、逆におかしなことになるというジレンマまで生じることになる。知識人が代言しようとする群衆は、もちろん元からある程度言葉が奪われていたのだが、しかし、まさにその利害や思いを知識人が代言しようとしたことによって、逆にサバルタン化されてしまう面がどうしても出てくる。ここには明らかに倒錯が存在するのであり、またそうであるからこそ、この代行行為によるサバルタン化には、常に過剰な理念化や余計な理想化が伴うのだった。その理念化作用によって〈群衆〉が(ポスト)近代化の未来の果てに投影されれば、それはたくましい〈大衆〉に変貌し、また逆に失われた前近代的過去に投影されれば、それはなつかしい〈民衆〉へと理想化されるのだろう。

なお、吉本隆明の〈大衆の原像〉という一種の操作概念は、こうした操作において必然的に分泌されてしまう、実際の群衆のあり方と理念化されたそれのとの間の落差自体を、いわば意識的に批評の方法原理としようとしたものだと解釈できる。原像としての〈大衆〉は、元から実体ではなく単に操作的なものでしかなかったからこそ、そこには色々な表象を後から任意に補填することができた。それゆえ、あるときにはアグレシップな〈大衆〉に、また他のときにはなつかしい〈民衆〉になることができ、本質的に捉えどころのないものだったのだろう。

とにかく、いずれにせよ左派亜インテリの場合、この表象代行主義という姿勢が終始躓きの石になるのだった。勝手に群衆をサバルタン化して理念化したり、またそのようにしてもたらされた群衆表象に対して、その立場を一方的に代行・代言しようとした傲慢さにたとえ自らで気づいたとしても、今度はその傲慢さを、いわゆる「疾しい良心」に駆られて自己批判しようとすれば、またおかしなことになってしまうからだ。自己批判しながら、自らが勝手に理念化した、実は存在しないその群衆像にどこまでも近づいていこうと試み始めるのだ。これでは同じように空回りしてしまうのは当然だろう。もちろん、こうした愚かさを払拭するには、こちら側が一方的に表象代行しようとした群衆像に相当する人々を、現実世界のどこかに実際に発見して、実際にに存在する彼/彼女たちにどこまでも近づき寄り添おうと試みていけばよいのだが*5。さらにそれだけではなく、ディオゲネス主義的(キュニコス派的)な一種のパルーシア行為を実践して、単にその群衆像に近づき寄り添おうとするだけではなく、絶えまない自己変革によって、自分自身が当の群衆になっていく/それを体現していくよう試みていくことができればなおさらよい。しかし、近づこうとする群衆に相当した存在を実際に見出すことができたり、あるいは、自らがそれに変貌しようとする努力を現実に始めることができた者たちは、ほんのごく一部に限られるのだった。こうした者たちは、中途半端な知識人もどきの存在から一人前の〈活動家〉、〈アクティヴィスト〉に成長することができたという点で、実は大変恵まれていたと言える*6。ところがそうすることができずに、不在の群衆を表象代行し、寄り添い、自らがそれへと変貌していくという(過剰に)倫理的な課題を前にして、全く動きが取れなくなってしまった者たちが別に存在していたのであり、まさにこうした連中こそが、行き場をなくして〈左派亜インテリ〉と化すのだった*7

左派亜インテリにおける動と不動

菅原潤『弁証法とイロニー』によれば、対立するものの媒介不可能性を前にして動きが取れない状態を何とかするために、口先だけであらゆる決定を宙吊りにして、柔軟であるかのようなふりをした保田的〈イロニー〉と、その媒介不可能性をさらに徹底化させて、対立する両項の没落を促し、逆にそのことを通して自由闊達の境地の得ようとした田辺的〈弁証法〉とは、大衆と知識人との関係をめぐる問題系の中では、両者の区別が不分明になっていくということだった。まさにこの不分明さを通して、30年代の知識人たちが置かれていた窮状と、ポスト68年の左派亜インテリが置かれている状態とが交錯すると同時に、両者の違いが際立たせられるのではないだろうか。

保田的〈イロニー〉とは、言わば、本当は動けないのに動いているふりをしているものだったのだが、それに対して田辺的〈弁証法〉とは、全ての固定化された項を没落させて、不安的な動揺状態を極大化させていくという意味で、最大限にものごとを動かそうとして、結果として、却って動いているようには見えない状態をもたらすものだったと解釈できる。なぜなら田辺が目指した、媒介の絶対化としての交互反転状態とは、明らかに、何かを目指すことと、その何かが実現されることとの間の区別が不分明になる状態のことだったと言えるのだから。――以上のような、動けないのに動いているふりをするイロニーと、最大限にものごとを動かそうとして、結果として動いているようには見えない状態をもたらす弁証法との間の区別自体が不分明になってしまう状態とは、いったいどんなものなのだろうか。

菅原自身は明確には述べていないのだが、30年代の知識人が頭を悩まさせていた問題とは、知識人と群衆との間の差異が崩壊して、知識人がその同一性の中に閉じ込められて動ごきが取れなくなってしまった中で、改めてどう動いていけばよいのか、あるいは動くことができる空間をどこに確保すればよいのか、というものだったと思われる。この場合の知識人と群衆との差異の崩壊とは、端的に、権力による〈転向〉の強要によるものだと言っても構わないだろう。また、その結果成立する同一性とは、当然、成立したばかりの戦前の大衆社会のことを指していた筈だ。それこそが、集合化された身体の力や可能性を称揚する〈ファシズム〉の思想に対して、強い魅了やリアリティを与える当のものだったのだが。そして、知識人が求めていた動くこととは、まさに社会を変革するための〈運動〉、政治活動のことだったのであり、さらにはそうした活動の中で自らの存在も絶えず「改造」され、そのようにして、社会も自分自身も絶えず前進、進歩していくことであった。知識人と群衆との間のファシズム的な同一性を強要されて、そうした運動性を大っぴらには最早追求できなくなったのだがら、後は、その同一性をいったん受け入れたうえでどうするかと、考えていくしかなくなるのは当然だろう。そんな中で、動きが取れない同一性の中で敢えて、無理してでも動こうともがいたのが保田的〈イロニー〉だったのであり、逆にその同一性を、動くためのチャンスとして何とか見なそうと試みたのが田辺的〈弁証法〉だったと言えるのではないか。知識人と群衆との間のファシズム的同一性の中においてでも、あるいはそうした中でこそ可能になる「改造」は、当時の表現ではしばしば「刷新」と呼ばれていた。保田的イロニーと田辺的弁証法との区別が不分明になって、知識人たちが求めていた動き=運動性というものが結局は明確な像を結ばなかったのは、まさにその「刷新」というものの実現が困難だったことを示しているのだろう。

同じようにポスト68年の亜インテリたちも、動きが取れない状態に追い込まれていたのだが、しかしその様相は、30年代の知識人たちが苦しんでいた状態のそれとはかなり異なっている。30年代の知識人は、自らと群衆との差異を確保しようとして、却ってその同一性を突きつけられてしまったのが、ポスト68年の亜インテリたちは、表象代行行為によって、むしろ自らと群衆との同一性を実現しようとしたら、逆に当の群衆を見失ってしまうのだった。その結果もたらされたのは、知識人と群衆との間のファシズム的同一性による圧殺などではなく、同一化しようとした群衆それ自体が消失した、虚空での凝固状態である。この状態は、田辺的弁証法が目指した、対立する両項が共に没落したことによって得られる自由闊達の境地を、いわば(一切の変化や力動性を欠いたという意味で)非‐弁証法になし崩し的に実現してしまったものだと言えるだろう。また、動くことができないその状態を否認し続けるために、表象代行の対象である不在の群衆をあくまで追い求めたり、あるいは、そうした群衆を無自覚かつ鈍感なまま、無視・抑圧している一般人を一方的に糾弾したりするのは、動けないのに動けるふりをした保田的イロニーの、いわば反転された戯画だと見なすことができる。イロニーというものは、自らが何かに強く制約されていることを否認するために、前言撤回や断言留保を繰り返すことによって、かろうじて自由の空間を確保しようとするものなのだが、それに対してここで起きていたのは、逆に、自己を倫理的に正当化してくれるような制約の不在を、あくまで否認し続けることである(イロニーの反転状態としてのヒステリー?)。確かにここでも、同じように弁証法とイロニーとの間の区別が不分明になっているのだが、しかしそう見えるのは、すでに弁証法やイロニーそのものが成立していなかったからだろう。

以上のような〈圧殺〉と〈凝固〉という、二つの動きの取れない状態は、〈決断〉というものと関連づけながら対比すれば、おおよそ次のようになるだろう。元来2〜30年代の左派知識人たちは、知識人と群衆という区別をあくまで前提とした上で、〈決断〉によって「プロレタリア」としての群衆に身を捧げ、彼/彼女たちを(前衛として)指導しようと目論んでいた。とこが、知識人と群衆との間のファシズム的な同一性が強制提示されたために、その〈決断〉そのものが外側から抑止されることになってしまった。それに対して70年代の左派知識人たちは、改めて知識人と(「生活民」としての)群衆との間の同一性を確立するために、〈決断〉によって、その群衆にこちらからどこまでも近づいていこうとしたのだが、当の群衆が消失してしまい、〈決断〉が宙吊りにされて、内側から蝕まれていく一方になるのだった。

ところで著者の菅原は、イロニーと弁証法との区別が不分明になる境地とは、徹底的に非マルクス主義的なものだったと述べていた。確かに30年代ではそうだったのかも知れないが、しかし70年代では、左派亜インテリが置かれた同じような状態は、まさにマルクス主義の(西田左派、戦後主体性論争を経由した日本的な受容の)帰結を体現したものだったと言えるのではないだろうか*8。そして亜インテリが体現している状態の中では、ことの最初からイロニーや弁証法それ自身がすでに失効していたのだった。だがそうは言っても、相変わらず「動くこと」(運動して社会に働きかけ自己を変革していくこと)と「動けないこと」(無力で孤立したまま何もできないこと/何もやることがないこと)との間の対立は重大な問題だったのであり、30年代の知識人たち同じように、この動と不動との間の対立をどう克服すればよいのか、という点がのっぴきならない課題だったと言える。ところが30年代の場合とは反対に、この対立は、動かないことを消去して動く/動ける状態を全面化することによって克服されるようなものなのではなく、まったく反対に、動けないことを、その根源に遡ることを通して、確固とした〈動かないこと=不動性〉に変容させていくことによって克服されることになるのではないだろうか。より具体的に言うと、疾しい良心に駆られながら、どこにも存在しないサバルタン的な群衆に勝手に近づき寄り添おうとする行為の不毛性にいったん気づいたならば、ありがちなニーチェ的な批判を受け入れて、その疾しい良心そのものを捨て去ってしまうようなことをしたりせずに(←ここ重要!)、むしろまったく逆に、その疾しい良心に足を掬われてしまった要因にまで遡り、その要因共々、疾しい良心それ自体を自らで体現しようと努めていくことを通して、動くことと動かないこととの間の対立は克服されることになるのではないだろうか。つまり、言葉を奪われた/まだ言葉を持たない群衆に一方的に寄り添い近づこうとする、疾しい良心の動きそれ自体を受肉させていくというか、それを純粋に発現させようとすることによって。ここでは、どこにも存在しない群衆を代理し、それに近づこうと一方的に努めることが〈動く=運動する〉ことに相当していて、また、そうしようとしてエアポケット空間に嵌って行き場を失ってしまうことが、〈動きが取れないこと〉に相当している。そして、その〈動きが取れない〉状態の中で、どこにも存在しない群衆に近づこうという動きそれ自体を受肉させていくことが、さらに、動くことと動けないこととの間の対立を克服した、確固とした〈不動性〉を求めることに相当することになる*9

この、〈動こうとして動きが取れない状態の中で、意識的に動かないことを求めていく〉というあり方は、いったい何と名づけたらよいのだろうか。確かにそこでは、動けないことを動いているふりをすることによって正当化しようとする〈イロニー〉と、徹底的に動こうとして、動と不動の区別自体を無効化しようとした〈弁証法〉との間の区別それ自体が、もはや無効にされてしまったと言える。運動しようとして宙吊り状態にさせられてしまった中で、今度は改めて不動性を求めようとするこうしたあり方を明らかにしていくためには、後期田辺の〈懺悔道〉や、ベンヤミンの〈静止状態の弁証法〉、そして(田辺自身がそのマラルメ論の中で全面対決した)ブランショエクリチュールの〈彷徨〉とこのあり方との間の異同を確定していく必要があるだろう。また禅や武道の達人の、丹田に気が漲ってグランディングした状態をモデルとしながら、西田的な「行為的直観」というものを、運動状態を安定化させて柔軟なものにする〈動の中の静=不動〉として捉え返していった、西谷啓治上田閑照大橋良介と連なる西田右派的な発想とも区別していくのも重要だ*10

デカダンス疲労感、変態/クソムシ

ところで『弁証法とイロニー』の著者は、イロニーと弁証法との間の区別が不分明になった境地を、ボードレール萩原朔太郎経由の〈デカダンス〉というものに重ね合わせていた。上述のポスト68年の亜インテリ特有の境地を、それとの対比で捉えるならば、時代的には、チャンドラー・村上春樹的な、いつも「やれやれ」とごちている疲労感、徒労感というものにでもなるのだろうか(もちろん村上のそれには、連赤事件に対するショックや、内ゲバの応酬に対するウンザリ感も――明示的に言及されていたわけではないが――強く伴っているわけなのだが)。

また、そのデカダンスという後ろ向きな態度を内側から克服するためにこそ、朔太郎や保田は「日本回帰」という厄介極まりないものを目指してしまったのだが、70年代的な疲労感、徒労感を内側から克服する際に目指されるものとはいったい何になるのだろうか? まさにそれが〈不動性〉というものに相当するのだろうか? しかしもしそうなら、これでは反動的で危険極まりないことになる。朔太郎や保田の言う日本回帰というものは、一見デカダンスと対立してそれを否定するもののように見えながら、実は却ってそれを温存し強化させるものでしかなかったからだ。だからこそ胡散臭いものなのだが、それと同じように〈不動性〉というものも、一見後ろ向きな疲労感や徒労感を否定するように見えながら、実はそうした生の様態をただ正当化し強化するものでしかないのなら、やはり反動的だとという誹りを受けるのは免れ得ないだろう。というわけなので、疲労感や徒労感と不動性との異同ということもまた重要な探究課題となってくる。

さて、ボードレール、朔太郎、そして知識人と群衆との異同の問題と来れば、最近アニメ化された、漫画『惡の華』(押見修造、講談社、2010〜)の問題設定を無視することができなくなる。この作品は、ボードレールに心酔して、周囲の愚劣な人間から自分を区別したくてたまらない中2病真っ盛りの男性主人公が、ファム・ファタルである残酷なヒロインに色々といたぶられる様を描いたものなのだが、秀逸なのは、中2病やセカイ系の揺籠でもある、空虚さが極まってもたらされた地方都市特有の閉塞感に、その場所の文学的記憶を重ね合わせているという点である。舞台は群馬の桐生市なのだが、その近辺を生きた朔太郎や安吾の足跡や記憶が、一見非歴史的に見える地方都市特有の空虚さ、閉塞感に実は歴史の重みを与え、見かけ上は対立するように見える文学的教養と、地方都市特有の空虚さとを一つに結びつけていくと示唆してやまないのだった。

また物語の展開が、ボードレールの詩集『悪の華』の一種の創造的な誤読に基づいているというのも大変興味深い。詩集『悪の華』の方法原理というのは、一言で言えば、ルソー的な近代的〈告白〉をわざと前近代的な〈懺悔〉へと後退させて、いったん確立された近代的自我を悔悟や罪悪感によってことさらにいたぶり、そうすることによって肥大化させられた悔悟や罪悪感が美へと昇華(錬金術的に変容)する瞬間を期待し続けるというものだった。それを受けて漫画『惡の華』の場合では、本来自己反省や自己確認のための道具であった近代的な〈日記〉というものを、他者に対する服従や隷属を確認するための前近代的な〈誓約書〉に強引に変質させようとする様が描かれている。主人公は、密かに気になっている女子の体操着を盗むような矮小な変態行為を日記に書き記し、それをヒロインに対して逐一報告することが求められるのだが、そうすれば当然、彼は火のような恥辱や屈辱に悶え苦しむことになる。けれどもあるとき、ヒロインから強要されたそうしたことを自らで積極的にやろうと決意するのだった。なぜなら、変態行為に走る自らの存在の矮小さに対する恥辱感や屈辱感が強烈なものになっていけば、それがいつか反転して、逆に崇高性を帯びたものになるかも知れないからだ。そうすれば自らの存在も、己れの矮小さを極めるというかたちで逆に崇高なものに変化するだろう。主人公とヒロインはこうした反転を期待して、自分たちの存在が、「クソムシ」と呼ばれる周りの愚劣な人々から明確に区別されることを求め続けたのだった。

そしてその際、〈変態/クソムシ〉という対立図式が提示されるのだが、これこそはかの〈知識人(芸術家)/群衆〉という対立の現在の姿というか、そのなれの果てであると言うことができるのではないだろうか。つまり漫画『惡の華』は、この対立図式を掲げることによって、ボードレール以来の美的モダニズムが拘泥してきた、知識人と群衆との対立という問題系に対してまで創造的誤読を施したということになる。この〈変態/クソムシ〉という対立図式の特徴は、一言で言えば、(またドイツ観念論風の抽象的な言い方をして恐縮だが)対立する両項の区別を追求することが、すぐにその同一性を追求することに反転し、しかも両項の同一性を証することが、そのまま両校の区別を確保することにつながるということになるだろう。より詳しく言うと、周りの退屈で中途半端な人間たちを「クソムシ」と感じて軽蔑することが、自らが「変態」であることの証なのだが、このことを自覚した者はさらに変態になるよう、意識的に堕落するよう努めていくようになる。ところがこの変態性というのは、人間だったら誰しも多かれ少なかれ持っている下劣さ(ゲスであることやクズであること)のことでしかないから、周りの人間たちと自分の違いは、その下劣さを意識的に追求して極めようとしているか否かのそれでしかないということになる。つまり変態さの追求というのは、周りのクソムシ共も共有している、下劣さをより体現しようと試みようとすることでしかなかったのだ。これでは当然、変態とクソムシとの間の差異の追求が、ただちに両者の同一性を確認することになってしまう*11。そのため、このジレンマを認めたうえであくまで変態とクソムシとの間の差異を確保しようとすると、今度は、変態は通常のクソムシ共よりもそのクソムシ性(=愚劣さや凡庸さ)をより強く体現したものだと居直るしかなくなる。つまり、変態と通常のクソムシ共とが区別されるのは、変態の方がクソムシ性をより体現して、通常のクソムシ以下の存在であるからだということになる。言い換えれば、愚劣な「クソムシの海」(『惡の華』に出てきた表現)から自らを区別しようとして、却ってそのクソムシの海の底に深く沈んでいく存在であるからだということなる。けれども、ただクソムシの海の底に沈んでいくことに身を任せるだけでは、決して自らとクソムシ共の違いをこちらから確保し、意識的に可視化させていくことはできない。それではいったいどうすればよいのだろうか?――漫画&アニメ『惡の華』はまだ作品として完結していないので、この問いはここで開いたままにしおくことにする*12

*1:弁証法とイロニー』の著者自身も、懺悔道の時期の「『絶対媒介』という考え方が弁証法的なのか、それともイローニッシュなものか」問題になると述べていた(196頁)。ただしその際、死者と生者との関係の重要性には特に触れてはいなかったのだが。

*2:己れを群衆から必死になって区別しようとした30年代のインテリたちの多くの出自は、確かにアッパー・ミドルのブルジョワだったのだろう。それに対して、大学に入ることよって新たにインテリに上昇できるだろうと期待しながら、すでに大衆化した大学に入学し、しかも大衆化した(=「マスプロ化」した)その大学の現実に幻滅して、いわゆる「大学解体」や「自己否定」にいそしんだり、さらには無辜の群衆(「生活民」)に近づこうと努めた70年代のインテリたちの多くの出自は、アッパー・ミドルのプチブルではなく、むしろロウアー・ミドルのルンプロだったと思われる。ここで言われている群衆性の正体とは、このルンプロ性だと言い切ってしまっても構わないだろう。そもそも、プワーホワイトのような、没落しつつロウアー・ミドルの反動性や、あるいは、それ以上階級上昇が見込めないプチプル特有の倦怠感や空虚感は今までよく注目されてきたのだが、大学大衆化に伴うプチプルへの階級上昇不可能性を隠ぺいするかたちで、疾しさに駆られて、いわば仮構された下層へと下降しようとして動きが取れなくなってしまった新しいルンプロたちのこうしたあり方は、従来ほとんど注目されてこなかったのではないか。なお長崎浩は、その新著『革命の哲学』(作品社、2012)で、60年代末の学生叛乱の中で「決起した彼ら[=学生]は、労働者階級「プロレタリアート」でなかったのはもとより、主観的行動主義の主体でありかつ大衆の『貧しい主体性』であるほかない」(179頁)と述べていたが、ここで言われている「貧しい主体性」が、その新しいルンプロのあり方に相当するだろう。

*3:ここでは詳論することはできないが、この知識人としても群衆としても中途半端な状態こそが、よく右側の者たちから「プロ市民」と揶揄されたりする、自分たちが「普通の市民」であることをことさらに強調して、己れの素人性やナイーブ性にすぐに居直ってしまう、現在の市民運動の主な担い手たちのメンタリティの〈前史〉というか〈原史〉だったと言える。

*4:「ポスト68年の左派亜インテリ」と言っても何のことかわからないと思うので、それについては次のエントリーで大雑把な説明というか注釈をつけるつもり。まぁ自分の人生は、すべて「するつもり」のまま、結局何もしないまま終わってしまっているのですが・・

*5:そのようにして見出され、さらに自分たち自身も、「日常性」の中の絶えざる「自己反省」「自己変革」によってそれへと変貌するよう努めるべきだとされた群衆は、70年代には特に「生活民」と呼ばれていた。参照:安藤丈将「『生活民』としての学びのために」(『現代思想』2011年12月号、「特集=危機の大学」所収)

*6:しかし、だからと言って何も問題がないわけではない。知識人として、こちらから勝手にに群衆に近づこうとしたり、あるいは、こちらで一方的に群衆に変貌しようとした姿勢そのものに含まれている傲慢さが、そのまま温存されてしまうからだ。けれども、か弱き他者に寄り添い、支援しようとする側に存在したこの種の傲慢さを改めて俎上に乗せるためには、支援される〈当事者〉の側の視点や語りが重視されるようになるときまで待たねばならなかった。そうしたものが重視されるようになって初めて、実は支援する側は、支援される側との間に存在した権力関係や、その上にあぐらをかいた傲慢な姿勢に遮られて、支援される側のニーズや、思いを殆ど理解していなかったという事実が明らかにされるようになったからだ。けれども、たとえその事実が明らかにされたとしても、関心の焦点が、単に支援される当事者側のニーズや思いを支援する側がよりよく理解するにはどうすればよいのか、という点にしかなかったならば、傲慢さというものが本質的に織り込まれた、非対称な支援する‐されるという関係そのものをどう再編していくべきか、という点は決して問題とされることはないだろう。実際にこの問題を現在正面から取り上げているのは、〈当事者〉の語りや視点に、同時に、支援する‐されるという関係性そのものを再審し再編しようとする機能まで持たせようとしている、上山和樹氏くらいしか存在しないと思われる。私見では、〈当事(者)性〉にそうした機能まで持たせることができるようになったのは、時代状況が大きく変わって、暗黙の慣習を背景に退いた「地平」として「解釈」したり、その慣習に絡みついた権力関係を隠された「文脈」として「読解」してきた、従来の「文芸批評」の力が失われてしまい、新たに、背景に退いたものや隠されたものを、任意で恣意的な「設定」として暴き、人工的で不自然な「環境」として晒していくような、より直截な分析方法の方が実効性を持つようになったからだと思われる(こうした点は、藤田直哉氏も強く意識しているようだが)。その結果まさに当事者の語りや視点こそが、それ自体で新たな批評性を持つことができる、最強の暴きや晒しとしての役割を果たし始めるようになったのだった(とはいえそうであるがゆえに、逆に当事者性は、すぐに物神化されてしまう危険性も持ち始めたのだが)。なお、この当事者の〈当事(者)性〉と、亜インテリの〈エアポケット性〉との間の関係は大変重大な問題なのだが、残念ながらそれについては今は取り上げることはできない。

*7:このあたりの経緯に関しては、次回のエントリーでもっと詳しく述べるつもり。

*8:(長い註で恐縮デス)このポスト68年の左派亜インテリが置かれている特有の境地の起源に関しては、大雑把に〈決断〉から〈居直り〉へという流れを何となく考えている(それについてのきわめて不十分な最初のスケッチがこちらのエントリー)。20年代、蜂起が革命へと自然成長すると見なしたローザ・ルクセンブルクに対して、ジョルジ・ルカーチは、蜂起が革命になるためには、〈決断〉による知識人の介入が必要だと反論した。そしてその〈決断〉は、歴史の目的を認識し、自らの使命を知る〈覚醒〉によって可能になるのだった。つまりルカーチは、〈決断〉を〈覚醒〉によって基礎づけたわけである。しかしそうした〈覚醒〉は結局いつまでも訪れることはなく、だからこそヴァルター・ベンヤミンは、あまたの運動が挫折し失敗して、その残骸だけが積み重なっていく現実をいったん受け入れたうえで、いつぞや積み重なったその残骸が、それ自体で革命を可能にするようなものに変貌する――配置換えする――のを待ち続けるしかないと考えたのだった。そのためベンヤミンは、革命を可能にする〈決断〉を、好機の到来に対する待機によって基礎づけたことになる。

それに対して日本の西田左派の面々は(特に梯明秀など)、〈決断〉を〈覚醒〉ではなく、京都学派的な、存在の形而上学的な深い次元に対する〈自覚〉によって基礎づけようと試みたと言える。しかしその場合でも、実際に〈決断〉をもたらすのは困難だった。なぜなら京都学派的な自覚というものは、悟って納得することと、闇雲に世界に働きかけることとの間の区別が不分明になったり(西田的「行為的直観」)、あるいは、何かを目指すことと、その何かが実現することとの間の区別が曖昧になる(田辺的「絶対媒介」)境地をただもたらすことしかしなかったからだ(一種の「魔境」状態の創出)。そのため戦後になると、たとえば梅本克己は、主体性論争の中で色々考えあぐんだあげく、結局は〈自覚〉と〈決断〉との間に広がる無限の懸隔を単に確認することしかできなかったし、さらに同じく主体性論争をくぐり抜けた黒田寛一になると、実践の無の場所の〈自覚〉が、いつか実際に革命をもたらす〈決断〉にまで到りつくよう、主体の実存的に「覚悟」された状態を維持する党の存在や、その規律をひたすら物神化していく始末だった(こんな言い方をすると、その筋の人たちから強く怒られてしまうかも知れないが)。そして60年代の末の全共闘運動になると、盛り上がった叛乱の只中で「自己否定」なるものに勤しみさえすれば、おのずとそれが全面的な革命につながっていく筈だと、多くの者が勝手に過大に期待する破目になってしまった。この叛乱の只中での自己否定というものは、明らかに(いかにも革共同的な)実存的覚悟の維持というものの代わりに、〈自覚〉と〈決断〉との間を架橋するものとして新たに導入されたものだと言えるだろう。それは結果として、〈自覚〉と〈決断〉との間にすでに開かれていた無限の懸隔を、さらに別のものに変貌させてしまったのではないか。今問題にしている、70年代の左派亜インテリの表象代行主義の空転は、まさにそうして生まれた、新たなエアポケット空間に足を掬われてしまったことによってもたらされたものだと思われる。

さて70年代は並行して、日常生活を運動の拠点にして、その生活のあり方自体をよりよいものにしていこうとするライフスタイル・ポリティックスが浸透し、さらに80年代以降になると、自己アイデンティティを自由に組み替えていこうとするアイデンティティ・ポリティックスが導入されるようになった。こうした自己否定よりも自己肯定の色合いが強い運動の場合には、一見、悲壮でこわばった覚悟や決意など経由せずに、生活をよりよくし、アイデンティティを組み替えるための〈決断〉がより容易に下せるようになったように見えるのだが、しかしそこでなされた〈決断〉は、もはやそれとは似て非なるものである、〈居直り〉というものでしかなかったのではないか。単なる〈居直り〉に変質してしまったからこそ、容易に行えるようになったと思われるのだが、しかし逆にそうだったからこそ、いったん運動を始めたら、その後はたちまち何をやってよいかわからなくなって、そこで時が止まってしまうことにもなる。このように〈決断〉をただの〈居直り〉に横滑りさせ、いったん〈居直った〉者をその中に閉じ込めて時を止めてしまうものこそ、実は今まで見てきたような、〈決断〉を先送りさせ宙吊りにさせる、エアポケット空間の存在だったのではないだろうか。ポスト68年の左派亜インテリとは、このエアポケット空間の中での、時間停止状態を体現する者のことだと言えるのであり、私見では、彼/彼女たちがその凝固した時間停止状態の中に孕まれる潜勢力を、新たに解き放たない限り、日本社会の社会運動というか左翼運動に、(自らの何らかのマイノリティ性に依拠する仕方以外で)豊かな文化的な厚みやニュアンスを与えていくことは二度とできないように思えてならないのだが、どうだろうか。

*9:これまたここでは詳論することはできないが、この疾しい良心それ自体の体現としての〈不動性〉は、かつての全共闘運動が直面した、歴史の過去の負債を払い、未来のユートピア社会の実現のために自己を犠牲にしようとする青白き倫理主義と、今ここで完全燃焼して燃え尽きようとする、祝祭的享楽(蕩尽)主義との間の対立をどう乗り越えるかという問題に応答しようとするものでもある。この問題は、註(5)で触れた安藤論文の言い回しを使えば、「自己反省」と「自己解放」の間の対立をうまく乗り越え、両者を接合できる「自己変革」のあり方とは何か、と言い換えていくこともできる。いずれにせよこの対立を乗り越えたあり方は、もはや単なる〈倫理〉や「自己反省」とも、また〈享楽〉や「自己解放」とも言うことはできない、それらとはまったく別の第3のあり方をするようになるだろう。そして、この対立をうまく乗り越えられずに今日まで来てしまったからこそ、現在の日本の市民運動は、祝祭的盛り上がりの中で「普通の市民」としての自らの倫理的無垢性に居直るという、単に倫理性と祝祭性とを性急に短絡させただけの、欺瞞的な挙措を機械的に反復することしかできないのではないだろうか。

*10:ちなみに、元々廣松渉の近代の超克論に従いながら、京都学派を批判するために西田幾多郎を読み始めた小林敏明は、どうもミイラ取りがミイラになってしまったようで、最新刊(『西田哲学を開く』岩波現代文庫、2013年)ではこうした見方をただ追認するだけになってしまっている。やはり、禅や武道をモデルとしたものの見方の磁力は大変強力なものなのだろうか。

*11:もちろんこの同一性は、より基本的には、自らは特別の存在だと思って自分を周りから区別しようとする、中二病的で青臭い挙措自体によって確証されることになる。中二病的青臭さこそが、自らが周りと同じような凡庸な存在でしかないことの一番の証であるからだ。だが逆にそうだからこそ、「真の変態」になるための下劣さの追求がエスカレートしていくことになる。下劣さの体現によって、中二病的青臭さを払拭できるのではないかと期待せざるを得なくなるからだ。ここには、青臭さと下劣さとの関係とはどのようなものかという興味深い問題が存在するのだが、今はそれについては詳しく触れることはできない。この問題について考えるためには、故村崎百郎あたりを改めて検討する必要があるのだろうが。

*12:今まで、30年代の知識人たちが逢着した問題と、その40年後の70年代の亜インテリたちが陥ったアポリアとを比較しながら論じてきたのだが、それに倣って、さらに、40年後の2010年代のネットの上の知識人というか言論人が日々悩まされている問題にも言及していくつもりだった。現在ネット上では、それなりの言論人がどんなに立派でもっともなことを主張したとしても、たちまち理不尽な突っ込みや攻撃を山のように受けて、ただ文句や愚痴を垂れ流し続けるだけの者と同レベルのところに引き摺り下されてしまう。そうした状態でもなお発言を続けるためには、いわば汚れ芸人のようになって、人間関係のトラブルなどの舞台裏のショボい事情や、あるいは、文壇バーなどでクダを巻いているときのような、世迷事を連発する人格のダメな部分をも積極的に表に晒していくようにするしかない。その晒し方の誠実さと徹底性によって、慢性的な炎上状態にもかろうじて耐えられるようになるからだ(アンチの方の声が大きいときにも、熱心な信者の声が絶やされなくなることによって)。こんなシンドい対応を強いられる現在のネット言論人たちは、まさにかつての知識人たちと同じように、知識人と群衆との間の異同の問題、さらには、その両者の関係をどうするのかという問題まで突きつけられているのではなかろうか。そして、まさに『惡の華』に出てきた〈変態/クソムシ〉という対立図式こそ、この種の現代的な知識人と群衆との間の関係の、適切なアレゴリーになっているのではないかと気づき、その点について詳しく論じていこうと思ったのだが、残念ながら力尽きてしまった・・。