潜在性の2つの側面
別様性と任意性
顕在化した出来事には、その縁暈として常に潜在性がつきまとう。そうした潜在性には次の2つの側面が存在していた。一つは、たまたまそのように顕在化したのは偶然に過ぎず、もっと別のあり方で顕在化しても構わなかったという別様性である。またもう一つは、そのあり方が顕在化したこと自体に深い意味や根拠はなく、本来顕在化してもしなくてもどっちでも構わなかったという任意性だ。
ベンヤミンは、潜在性のうちの前者の別様性の側面を特に重視し、顕在化しなかったあり方を歴史の中の挫折した試みや犠牲者の存在と重ねたうえで、挫折した試みや犠牲者が全て顕在化、つまり復活することを求めていた。それこそが、潜在的なものが全て顕在化して、潜在性と顕在性との区別自体が克服されるという意味での「救済」だ。
一方アガンベンは、潜在性のうちの後者の任意性の側面を特に重視する。彼が批判の対象としていた主権権力は、自らの中心に、「営みの不在」というものを据えていた。それは、顕在化しようと思えばできるのに敢えて顕在化しないままに留まっている状態のことであり、主権権力はこの状態を保つことによって、力を持っているものの特有の余裕を(威光や権威として)これ見よがしに見せつけ、人々をひれ伏させて営みの世界(世俗秩序)の中で営み=労苦、労働を続けるように強いるのだった(そこでは、死をもたらすと脅す権力と生き続けるよう促す権力との間の、フーコーが重視した区別が相対化されてしまうことになるのだが)。
こうした主権権力の戦略に対しアガンベンは、パウロの「ローマ人への手紙」の中で示された、「まるで~でないかのように」という対抗戦略をぶつけていく。この対抗戦略は、営みの世界の只中で、まるで営みなどしてないかのように、その営みの拘束力や効果など自分は何の興味も関心もないかのようにふるまうことを通して、人々を営みの世界に縛りつける主権権力の効力を脱臼させようと努めるものだ(「まるで~でないかのように」というこの不活性化戦略は、「あたかも~であるかのように」という虚構化戦略とは厳密に区別される)。
主権権力を機能させてきた、顕在化できるのに敢えて顕在化しないままに留まる「営みの不在」と、パウロ的な対抗戦略によって遂行される、すでに営みの世界の中に顕在化しながらも、その営みをどうでもよいものとすることによって、顕在化しない(潜在性を保った)ままの状態と等しくなる「営みの不活性化」――アガンベンが選択したパウロ的な戦略は、この二つのあり方の区別自体が徐々に無効化(無差別化)=消滅していくことをこそ目指していた。この不活性化戦略の積み重ねによって、営みの不在とその不活性化との間の区別が完全に消え去ってしまったときこそ、まさにかの「ユートピア」到来のときだったのであり*1、そこでは主権権力が完全に脱臼されてしまい、結果として地上からそれが廃絶されることになるだろう。もちろんそこでは、営みの世界に包摂された者と、営みの世界から排除された者との間の区別なども最早どうでもよくなる。当然、一切の(疑似的なものも含めた)超越的で宗教的な権威なども最早成立しようもない。そして、このユートピアが到来したあかつきには、顕在性と潜在性との間の区別自体も無効化して、汚辱に塗れた世俗世界がただそれだけで(顕在化=存在しようがしなかろうがどっちでも構わないものとして)純粋に肯定=祝福されるようになるだろう。
顕在化する動きか、潜在化する動きか
なお念のためつけ加えておけば、自分は以上のようなベンヤミンの見方にもアガンベンの見方にも決して全面的に賛成しているわけではない。いずれの見方も、顕在性と潜在性との対立のうちの一方の項にウェイトを置き、そのウェイトが置かれた項こそが、人間や世界の本来のあり方であると想定したままだったからだ。それでは顕在性と潜在性との対立の乗り越え方も、実は不十分なものに留まらざるをえないのではないか。
まずベンヤミンの場合では、顕在性の方にウェイトが置かれ、実際に顕在化したものの周囲に別様性として留まっている潜在的なものは、本来は顕在化した方がよいのだと考えられていたのだった。しかし潜在的なものが全て顕在化するのは(現在の地上世界の秩序・法則の下では)不可能だったから、実際に顕在化したものと、潜在的なままに留まらざるを得ない(そうなるよう強いられる)ものとの間に緊張関係が生じ、それはいつまでも払拭することができないことになる。そのためベンヤミンは、この緊張関係を、すでに顕在化したもののあり方を批判する際の批判原理として据えていったのだった。そこでは明らかに、潜在的なものが持つ、これから顕在化しようとする動きが一番根底に置かれていたことになる。
一方アガンベンの場合では、潜在性の方にウェイトが置かれ、力の顕在化の「抑止」によって人々をひれ伏せさせ、営みの世界に縛りつけるような主権権力の統治に対抗するために、非統治者側の営むことの「留保」、つまり営みの世界からの撤退がことさらに重視されていたのだった。非統治者側のそうした一見消極的に見えるふるまいを、主権権力の統治に対して積極的にぶつけ返していくことが、パウロ的な不活性化実践なのだった。統治者側の「抑止」や被統治者側の「留保」というものは、すでに顕在化した世界の只中で新たに生じた潜在化の動きであると言えるだろう。顕在化しても潜在的なままでもどっちでも構わないという任意性は、これらの新たな潜在化の動きによって先取り的に実現(予示)されると想定されていたわけだ。潜在化の運動が全面化していけば、やがてはその任意性が地上全体を覆い尽くし、地上世界それ自体も、あってもなくてもどっちでもよい任意のものと化すことになるのだろう。
けれども、以上のように、潜在的なものがこれから顕在化しようとする動きや、すでに顕在化した世界の只中で新たに生じた潜在化の動きというものにいつまでも頼ったままでは、決して顕在性と潜在性との間の区別自体を撤廃することはできないのではないか。それでは両者の区別や、両者の間を移行する運動がいつまでも残り続けてしまうからだ。この限界を突破して、完全に顕在性と潜在性との区別が無差別化した状態を実現するためには、顕在化したものと潜在的なものとの間の緊張関係や、留保や撤退というかたちで新たに潜在化する動きに依拠するのではなく、端的な運動の停止に依拠すればよいのではないかと思う。そこで今後のエントリーでは、この運動停止というものについて、より詳しく言えば、機能不全化による作動停止というものについて改めて取り上げていきたい。
補記
メイヤスーは『有限性の後で』で、「偶然性」(何かが起こったりあったりすることの必然的な根拠が存在しないこと)と「別様性」(別のことが起こったり別のあり方をしても構わなかったこと)とを等置したうえで、その偶然性を絶対化して「偶然性の必然性」というものを導出していた。そして、さらに「任意性」(何かが起こったりあったりしてもしなくてもどっちでもよい、どうでもよいこと)を絶対化されたその偶然性のうちに包摂してしまい、任意性というものをあくまで偶然性のバージョンの1つとして扱おうとしていたのだが、こうした操作には問題があるだろう。別様性と偶然性と等置するのはまだしも、別様性のうちに任意性を解消させてしまうことはできないのではないか。別様性という原理と任意性という原理とは、本エントリーが論じていたように、あくまで別々のものとして堅持されるべきものだと思う。より踏み込んで言えば、別様性の原理を優先させる立場と任意性を優先させる立場とは、場合によっては鋭く対立しさえするだろう。