外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

2冊の人新世本

2冊の人新世本、篠原雅武『「人間以後」の哲学:人新世を生きる』、斎藤幸平『人新世の「資本論」』読了。同じ人新世について論じているにもかかわらず、両者が見ているところはまったく違っていた。また人新世と人類社会との間の関係の把握の仕方も大きく異なっていた。この2人の著者は、昨年の冒頭に雑誌で対談したときにうまく(というか殆ど)会話がかみ合わなかったのだが*1、確かにそれもむべなるかなと正直言って思わざるを得なかった。

2人が見ている世界の違い

簡単に言えば、篠原は、人新世の時代に新たに広がり始めた、人間がもう生きられなくなった世界の方をもっぱら見ていて、反対に斎藤は、人間がまだ生きられる世界の方に最初から焦点を絞っていたのだった。より詳しく言うと、篠原は、人新世の時代になると、人間が生きることができる世界は、人間が生きることができなくなった世界の上にかろうじて築かれるものでしかなくなり、従って、人間がまだ生きることができる生活世界は、もう人間が生きることができなくなった荒廃した世界によって常に浸食、攪乱されるようになると見ている。そうした人間の生活世界は当然脆くて心もとなくなり、そこで営まれる生活も人間主体のあり方も大きく変容せざるを得なくなる。篠原は、そうした生活や主体の変容をもっぱら記述しようと努めていた。

一方斎藤は、人新世の時代になってたとえ人間が生きることができない世界が広がり始めたとしても、いや逆に広がり始めたからこそ、まだ人間が生きることができる世界を全力で守っていかなければならないというスタンスを取る。そこでポイントとなるのは、資本主義体制の暴走の度が増してついに臨界点に達したという認識だ。元々資本主義という体制は、どんどん暴走しながら人間が生きにくい世界を地球上に生み出してきたのだが、その暴走が高じて気候変動をもたらし、遂に地球を実際に人間が生きることができない世界にし始めてしまった。こうした人新世の状況下では、資本主義に反対して、人間が生きにくい世界の是正に努めてきた社会運動は、さらに新たに、人間がまだ生きられる世界を守るという新たな使命まで引き受けざるを得なくなる。斎藤は、資本主義に反対してきた社会運動がこの新たな使命を引き受けることになった事実を強調しながら、だからこそ今まで以上に資本主義に反対する運動を推し進めるしかないのだ、と力を込めるのだった。

*1:篠原雅武+斎藤幸平「討議:ポスト資本主義と人新世」、『現代思想』2020年1月号「特集=現代思想の総展望2020」所収

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(再掲)メモⅧ:現実、現実感、関係性

前回のエントリーに対する補足。

前回のエントリーで示した「理想の時代」、「虚構の時代」、「妄想の時代」、「仮定の時代」のそれぞれの時代における、「現実」と「現実感」(=リアリティ)、そして「関係性」との間の相互の関係について暫定的に少し整理してみた。その結果は以下の通り。

理想の時代と夢の時代

現実、現実感=リアリティ、関係性は互いに不可分というか表裏一体。リアリティは現実世界の根底というか、奥深い根源に潜在していて、現実世界に対する、つまり他者や社会や自然に対する関係性をより強め、より密にし、より強めていけば、やがてその現実世界の奥底に存在しているはずの世界の本質に到達し、そこで本当のリアリティに触れることができるとされた。そしてそうした状態こそが、人間の生き方や社会のあり方の「理想」として立てられていた。

しかし、現実世界の根源への到達が難しいことが実感され始めると、そもそも自分たちは現実世界の根底に存在するはずの本当のリアリティから不当に「疎外」されているのではないか、という危機感が強まった。そのため、その疎外をどう克服すればよいのかが色々と模索されたのだった。疎外の克服の仕方としては様々なものが考えられ、また実際に色々と試みられたのだが、その両極に位置していた選択肢は次の2つのものになるだろう。まさにそれらこそが、過渡期である「夢の時代」の感性をよく体現していた。まず、リアリティが欠落した現実世界から「ドロップアウト」して、野生に満ちた世界に移り住もうとすること。つまり自然回帰。そこでは現実世界の根底に存在していたリアリティが、人間が触れられるかたちで表にも現れたままになっているはずだと考えられていた。またもう一つは、リアリティが欠落した現実世界そのものを暴力的に解体してしまうこと。暴力による解体によって、現実世界の奥底に存在していたはずの本当のリアリティが、疎外されることなく世界の表面にも露出するようになると想定されていたのである。そうなって初めて、私たちは本当のリアリティに常に触れ続けられるようになると期待されたのだった。

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メモⅦ :Qアノンとオウム真理教

アメリカの連邦議会になだれ込んだQアノン信奉者や白人至上主義者たちの生態を解説した↓の記事が面白かった。

natgeo.nikkeibp.co.jp

その中でも特に気になったのが次の指摘。

「まず、彼らのやったことがどんなに激しい暴力であったとしても、ふざけた格好をしているだけで、その政治的立場に賛同する人々に『あいつらは本気じゃないさ』と言わせる効果があります。被害者にしてみたらたまったものじゃありません」とレイビン氏は言う。

「『ふざけていただけだよ、な?』で済ませようとするんです。プラウド・ボーイズ(トランプ大統領を支持する白人至上主義者のグループ)が『自分たちはただの飲み友達だよ』というように。そんなわけがないでしょう」

「ふざけた格好をしている」

連邦議会になだれ込んだ者たちは、様々な歴史的シンボルや宗教的シンボルをパッチワークした、はた目から見ればまさに「ふざけた」ようにしか見えない、キッチュ感満載の格好をしていた。特にここで注目したいのは、当人たちもそうしたことを強く自覚していて、自分たちは「ふざけた格好」をしていると明確に認識していた点だ。最近、同じように陰謀論に駆動されていたという点に注目して、Qアノンとオウム真理教を重ね合わせる議論がよくなされているが、しかしこの点で両者には大きな違いがあったのではないか。

オウム真理教の信者の格好やパフーマンスは、張りぼて感丸出しで、まさに「ふざけた」格好をしていたのだが、しかし当人たちはその事実に対しては無自覚で無頓着なままだった。そのため識者たちは大きな衝撃を受け、はた目からは「ふざけた格好」をしているように見えるけども、当人たちはいたって真剣だったという、このギャップの特有の構造や由来を解明しようと努め始めたのである。

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なぐり書き

発達障碍当事者として、

1)当事者運動と種々のアソシエーション運動との間の微妙な関係
2)哲学とデザイン(という発想)との間の座りが悪いままの関係
3)ケアリングと資本主義との間の一見対立しているようで実はそうではなくなりつつある関係*1

には多大の興味関心を抱いてはいるのだが、仕事が忙しくてメンタルもやられているので、これらの関係に対する認識がまったく深まっていかないまま。ホントやってられないワ・・

*1:現在の資本主義体制は、社会的再生産を担う各種ケア労働を(ジェンダー化や人種化を通じて)周縁化、低賃金労働化していて、その意味で「形式的包摂」していると言えるのだが、将来的には、ケア労働の中で培われてきた特有の倫理や生の技法のうちに新たな利潤の源泉を見出し、それを増殖させるよう促すようになる、つまりそうした意味で新たに「実質的包摂」するようになるかもしれない。実際にはどうなるのか、まだよくわからないままなのだが。

メモⅥ

ポスト構造主義の隘路?

68年の思想としてのポスト構造主義は、元々は倫理的なものと美的なものとの間の対立を、欲望や快楽というものに依拠することによって乗り越えようとするものだった。しかし現在では、ポスト構造主義は単なる社会/言語構築主義へと矮小化されたうえで、もっぱら倫理的なものを擁護するものでしかないと見なされるようになってしまった。そのためか、美的な次元での表現の自由をあくまで堅持したい者たちや、倫理的な次元に押し込めることはできない人間の生物学的な側面を重視したい者たちからは特に敵意を持たれるようになり、「ポモ」などと蔑称で呼ばれるまでになっている始末である。

また、こうしたたぐいの矮小化にはどうしても耐えることができなかった、一部のポスト構造主義支持者たちが、現在次のような点をやたら強調するようになっている。すなわち、欲望や快楽に依拠することは、倫理的な次元には収めることができない人間の過剰な/かつ残余である部分に依拠することに等しいから、決してポスト構造主義は(一部のリベラルに見られるように)声高に倫理的な裁断をするようなリゴリスティックなものなのではないと。しかしこうした強調をする者たちは、もっぱら倫理的な次元に対して美的な次元を単に対置させることしかできていなかったから、結局は、倫理的なものと美的なものとの間の既存の対立を(表現の自由を重視する者たちと、倫理的な配慮や規制を重視する者たちとの間の対立に加担するという最悪のかたちで)ただ反復強化させていただけだと思う。

正直言って、これは明らかに理論的な後退なのではないか。そしてこの理論的な後退が指し示していたのは、倫理的なものと美的なものとの間の対立は、そもそも欲望や快楽などによっては乗り越えることなどできないという、冷酷な事実だったのだろう。それゆえ、この対立を新たに乗り越えることを可能にさせるような、欲望や快楽以外の「何か」を改めて探さなければならないことになる。あるいは、倫理的なものと美的なものとの間の対立を乗り越えるという、この問題設定自体をそもそも再検討しなければならなくなるのかもしれない。

メモⅤ

「生きる」以降を「生きる」こと

以上の千坂の主張には半分反対で半分賛成である。

「人間以降」においては、もはや人間的生は生(物)権力によって捕縛されて生を存続させられる〈生物学的生〉であることはできず、(まるで遠い惑星のような)「人間とは無縁となった地球」に放り出されて、そこで何とか棲息せざるを得なくなる〈地質学的生〉に変貌せざるを得なくなるのだから、まさに「生きる」ことが、すなわち文字通りに生存を確保することが、つまりサバイバルすることが喫緊の課題となるだろう*1。つまり「人間以降」においては、(人間とは無縁となった地球の上で何とか棲息する仕方を見つけて生存を確保するという意味で)「生きる」ことを真正面から問わざるを得なくなるのだ。

しかし、そうした地質学的な生はもはや人間的な生と言えるだろうか? 従来の人間性というものにこだわりのある者たちは、自分たちのうちの新たに開かれた地質学的な次元を受け入れていくためには、従来の人間性に相当したものを意識的に解体、滅却していくか、あるいはたとえその残滓や残骸でも構わないから、何とかして何らかの人間性らしきものを保持しようと努め始めるだろう。実はこの対照的な態度は、同じふるまいのことの両面に過ぎない。そのふるまいとは、非人間的なもの、あるいは超人間的なものを前にしたときに、人間としての自らの限界を意識しながら、そうしたものと人間との関係を何とか考えていくことである。それは一言で言えば、「思弁」というふるまいのことだ。「人間とは無縁となった地球」に放り出された「人間以降」の人間的生について考えることは、必然的に思弁的にならざるを得ないのだ。

そしてその思弁性の端的な特徴が、千坂の言う「『生きる』以降」について考えていくということである。「人間とは無縁となった地球」にとっては人間的生など存在しても存在しなくてもどちらでも構わないものに過ぎないのだから、その事実に対応するために(地質学的存在と化した)人間の側も、存在しても存在しなくても、あるいは生きていようが死んでいようがどちらでも構わない(「任意性」という)境地を模索し、実現していく必要が出てくる。そうした努力こそが、千坂の言う「『生きる』以降」を問うということの内実を形成することになるのではないか。

以上確認したような地質学性と思弁性とは、さしあたりは分離したままであり、両者の関係は不分明なままだ。それでは両者の関係はどのように解明していけばよいのだろうか?――その仕方はまだよくわからないが、たとえば、ドゥルーズガタリ千のプラトー』を、地質学性と思弁性との間の絡み合いを記述したものとして改めて読み直していくことなどもできるかもしれない。

いずれにせよ「人新世」というものが新たに問題になるようになった時代では、かろうじて何とか生き続ける、生き残るということが喫緊の課題となり、しかもこの課題を果たすためには、その存在において自己の存在そのものが常に最大の関心事となるというような、従来の人間の基本的で存在論的な条件を一から再検討せざるを得なくなるのは確かなことだと思う。

*1:そこでは既存のシステムの「持続可能性」(サステナビリティ)よりも、生物種としてのギリギリの「存続可能性」(ハビタビリティ)の方が優先されることになるはずだ。

メモⅣ

関係の不在としての敵対性と、展開の不在としての凝固化

関係やコミュニケーションとは、関係やコミュケーションの原理的な不在や不可能性を弥縫する(=隠蔽できないものを無理やり隠蔽するために周縁化、例外化させる)仕方でしかないならば*1、同じく展開や運動とは、展開や運動の根源的な不可能性、不完全性を弥縫する仕方でしかないと言えるだろう。

また、関係やコミュニケーションの原理的な不可能性が敵対性(拮抗性)と呼ばれるならば*2、展開や運動の根源的な不在、不完全性の方は、凝固化(鈍麻化、硬直化)や停止(不動化)と呼ばれて然るべきだ。この凝固化や停止こそ、コミュニケーションの不可能性、関係の不在としての敵対性を可能にしている当のものだったからだ。

そしてこれが重要な点なのだが、凝固化や停止は敵対性を可能しているからこそ、それらは、決して敵対性というあり方に尽きたり、そこに還元されてしまうようなものではない。むしろ敵対性を一方的に強調する挙措の方こそ、凝固性や停止特有の存在様態をないものにして弥縫する仕方ですらあったと言えるのではないか。

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