外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。なお、はてなダイアリーからはてなブログに機械的に移行しただけなので、現在レイアウトがかなり乱れてます。なんとか徐々に直していきたいとは思ってるのですが・・

ひきこもりと抵抗Ⅲ:収縮への意志

前回の続き。初回はこちら

「何ものも意志しないことへの意志」

ドイツ観念論の哲学者F・W・シェリングには『諸世界時代』と呼ばれる草稿群が存在しているのだが、その記述は極めて混乱して錯綜していた。そのため様々な解釈の余地が生じてしまい、一部の者たち(たとえばジジェクなど)からは強く注目され、独自な解釈が色々と提出されるようになっている。自分もここでその記述を強引かつ恣意的に解釈していってみたい。シェリングによれば、生の「絶対的自由」とは「何ものも意志(欲動、意欲)しない」状態を享受することだったのだが、こうした状態の維持や実現を意志自体が明確に意志するようになると、たちまち深刻なジレンマに陥ってしまうことになる。『諸世界時代』の草稿群は、そのようにしてジレンマに陥ってしまった意志の、その後の様々な運命を辿ったものだと見なすことができるだろう。そもそも、意志が何ものも意志しない状態の実現自体を意志すると、どうしてジレンマに陥ることになるのだろうか。それは意志というものが、元来「何か」特定のものを意志(意欲)することしかできないものだったからである。ところが、何も意志しないままでいられる状態とは、特定の限定されたあり方ではなく、まさに何ものにも限定されない、文字通りの意味で無限定な(ト・アペイロンな)あり方のことなのだった。或る特定の限定された存在者やあり方を求め続けるしかない意志が、何ものにも限定されないこうしたあり方を意志することなど、到底不可能だろう。

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ひきこもりと抵抗Ⅱ:生きられた現象学的還元

前回の続き。

現象学的還元と決意

さて、メルロ・ポンティは「現象学的還元」について次のように述べていた。


ここで言われている「私がそのなかで生きている一切の自然的断定」とは、人びとが現実社会の中を生き続けるために設定せざるを得なかった、様々な暗黙の想定のことである。前回のエントリーで論じたように、ひきこもり経験者の多くは、明示されるルールと区別された暗黙のルールや、明文化された公式的な方針とは別の、その場を密かに支配している隠されたしきたりや慣習などの、様々な「自然的断定」を前にして常に躓いてきたのだった。特に、明示的ルールと暗黙のルール、公式の方針と隠微なしきたりとの間を何らかの仕方で使い分けるのを可能にさせている、いわゆるダブルスタンダードという存在こそ、ひきこもり体質のある者にとっては一番謎で納得がいかない、現実社会の「自然的断定」だったのだが。

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ひきこもりと抵抗Ⅰ:ケアと攪乱

社会に対する抵抗かケアの対象か

「ひきこもり」という現象が注目され、それが深刻な社会問題として取り扱われるようになってから20年以上経った。注目された当初は、ちょうど反グローバル運動が盛り上がっていた頃だったこともあってか、一部のラジカル左派がひきこもりもまた、ネオリベ化した不正に満ち社会に対する「抵抗」のあり方の一つだと無責任に言い放っていた。そうした言い草を聞いて自分は心底腹を立てたものだった。苦しんでいるひきこもり当事者の前で、果たしてそんないい加減なことを言うことができるのかと。

とはいえ最近では、その種の言い草の無効性が左派・リベラル界隈でも広く共有されるようになったからだろうか、あるいは注目された当初は(いわゆる「終わらない思春期」として)若者特有の問題だったのだが、中高年層のひきこもりの、その長期化がもたらした悲惨な実態がようやく明らかになってきたからだろうか、ひきこもりで苦しむ(苦しんだ)者たちをもっぱら丁重なケアの対象として見なす言説が主流になったような気がする。たとえば、ネオリベ化した社会に対するラジカル左派的な批判的視点を明確に持ちつつ、ひきこもり当事者の支援に尽力してきた村澤和多里も次のように述べていた。

言われていることは痛い程わかる。ひきこもりが長期化した者ほど、社会との接点が見出せなかったり周囲の目が気になって仕方なくなるため、あるいは親との関係もこじれたまま固定されてしまうため、基本的な自己肯定感*1が大きく損なわれてしまうからだ。自己肯定感が損なわれた者には確かに安心できる場所が必要なのだが、そうした場所は、単にくつろげたりあるがままでいられるような、あるいは何もしなくてもよかったり油断して呆けたままでいられるようなところではまだ不十分である。まさに、当の「あなたが来るのを待っていたよ」と心から「祝福」し「歓待」してくれるような場所でなければならない。ひきこもっていた者たちは、いわばこの社会の中では、(どこか遠いところで)「祝福」され「歓待」されるというかたちでしかもはや他人と接点を持つことができなくなってしまった、「異邦人」の位置に追いやられていたのだから。

*1:「自己肯定感」や「自尊心」という言い方に対しては、一部のケア関係者が、それらの表現は「自分自身」で、つまり自助努力で高めていくことができるという錯覚を与えてしまい、人びとを益々ネオリベ的価値観のうちに閉じ込めていくことになるから、その使用は避けるべきだと主張しているが、今はこの問題には立ち入らない。

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メモⅢ

行動経済学進化心理学の覇権?

最近、行動経済学進化心理学が学問上の覇権を取りつつあるように見える。そう見える原因に関しては、すでに次のようなことが言われていた。曰く、昔と比べて現代社会は様々な格差や不平等が是正されたため、その分、人間の生物学的次元に元々存在していた個人の生得的な能力差が表面に現われるようになり、そうした能力差がより強く社会の中に反映されるようになったからだと。また、昔は人間の行動は文化的コードによってがんじがらめにされていたのだが、現在は文化の脱コード化が進み、人々は面倒臭いしきたりや礼儀から解放されてフランクにふるまえるようになったため、その分、人間の生物学的本性がそのまま社会の中に反映されるようになったからだと。

確かにいずれの捉え方ももっともだと思う。とはいえこれらの捉え方は、人間の生物学的本性を捉える自然科学的知の実効性を無条件に前提としたままであったため、フーコー的観点からは不十分だとの誹りを受けてしまうのではないか。フーコー的観点からすれば何らかの知が社会的実効性を持つのは、実はそこに権力の作用が働いていたからであり、特に人間を生物学的次元に還元する自然科学的知の実効性の増大は、生(物)権力による統治の促進と無関係である筈などないからだ。

また自然の次元と社会の次元を整然と区別し、両者の二元性を前提としたままだった点も気にかかる。ラトゥール的観点からすれば、自然の次元と社会の次元との間の画然とした区別を一旦所与の前提として受け入れたうえで、後から他方の次元を一方の次元に強引に還元しようとするふるまいこそ、最早その限界が明らかになった、古色蒼然とした近代特有の身振りそのものでしかないからだ。ラトゥールにとってはそうした身振りは、自然でも社会でもない、準オブジェたちの媒介を無際限に増殖させながら、その媒介の過程をまるごとなかったかのように否認したことによって初めて可能になる、一種の砂上の楼閣のようなものでしかなかったのだ。そのため彼は、近代特有の身振りを可能にしている、準オブジェによる媒介の無際限化とその過程の否認というあり方を正面から学問の対象にしようとして、新たに対称性人類学というものを提唱したのだが、まさに現在の行動経済学進化心理学の覇権という現象こそ、この対称性人類学の分析対象としていくべきだろう。自然の次元と社会の次元との間の画然とした区別が前提とされたまま、行動経済学進化心理学が新たに力を持ったことによって、現在後者の次元が新たなかたちで前者の次元へと還元され始めたわけだが、こうした趨勢をもたらした、準オブジェの媒介とその過程の否認のあり方とはいったいどのようなものだろうか。やはりそこには、(理論の次元というよりも)まさに準オブジェたちの実際の媒介の過程で「統治」と「功利」というものが強く結びつき始めた、統治功利主義という特有の統治形態が深く関わっていたのではないだろうか。

メモⅡ

ラトゥールの思想と統治功利主義

ラトゥールの思想(ANT理論や存在様態論)からすれば、リベラリズム行動経済学進化心理学との間の関係を考える際に、市民的公共性による統御と、アーキテクチャやナッジを駆使する統治功利主義との間の対立を設定してしまうのは、あまりも抽象的というか観念論的でしかないことになるだろう。市民的公共性によって統治功利主義の暴走を統御する、逆に市民公共性が統治功利主義の暴走に屈服する、あるいは、市民的公共性による統御と効率的統治との間の区別が不分明になる――これらの見方はいずれも、市民的公共性という社会の次元と、アーキテクチャやナッジによる効率的統治という科学技術の次元とを明確に区別できる、あるいはその区別を維持しなければならないという極めて近代的な発想を前提としたままであるからだ。ラトゥールからすれば、市民的公共性による統御か/行動経済学進化心理学などの自然科学的知や、アーキテクチャやナッジなどの科学技術に基づいた効率的統治か、などという問題設定は、狭隘な近代的な発想を前提としない限りリアリティを持ち得ない、一種の疑似問題に過ぎないのではないだろうか。

それゆえ、ラトゥールの思想を用いながら、市民的公共性か統治功利主義かという問題設定を内側からいわば唯物論的に掘り崩していく必要性が出てくるだろう。そして市民的公共性のように、統治の効率性に外側から制限や制約をかける原理ではなく、内側からそれに抵抗していくような別の原理を打ち立てていくべきなのではないか。その原理は、非人間的なものに取り囲まれ、それに依存せざるを得ないような人間的主体の、或る種の〈有限性〉になると思われる。とはいえそれは、行動経済学が強調してやまない(除去不可能な私たちの認知バイアスをもたらす)「限定合理性」のような、簡単に効率的な統治に絡め取られてしまうような有限性であってはならないだろう。かと言って左派の加速主義が期待するような、科学技術との一体化によって生じる、非人間的なものへの大胆で過剰な「生成変化」とも大きく異なるものになる筈だ。統治功利主義に抵抗できる主体の有限性とは、むしろ、人間的主体とそれが息づく周囲世界が共に緩やかに〈腐蝕〉し(ハラウェイ)、〈荒廃〉し(モートン)、〈分解〉していく(藤原辰史)過程になるのではないか(この過程の果てにやってくるのは、かの〈停止〉や〈静止〉ということになるのだろうが)。もちろん、そうした過程の積極的な肯定・受容は、おもにグローバルな気候変動に人間が対応していくための試みとして模索されてきたのだが、しかし同時に、効率的統治への応接の仕方としても改めて受けとめ直していくことができるかもしれない。とは言っても、気候変動の問題こそが統治功利主義の実践によって解決されるという新たな展望が出てくるならば(そうした展望が出てくる可能性はかなり高い)、また状況は大きく変わってしまうだろうから、再び一から考え直さなければならなくなるのだが。

メモⅠ

「抵抗」や「革命」について考えるときにどういう考え方をしてはいけないのか

模倣の絶え間ない反復による内破、攪乱(構築主義の戦略)。リセットによってゼロ地点に戻り、一からやり直すこと(「始まり」の反復としての「一からのやり直し」というものを特権化する、アレント的な存在論の戦略)。資本主義にとっての外部性の空間(歴史汎通的な相互扶助の領域など)を想定し、その空間の全面的な回復を夢想すること(疎外論)。資本主義は自らの内部に別の(オルタナティヴな)あり方(IT技術の発達が可能にする社会的協働の強化、拡大など)を潜在的に分泌していくと想定したうえで、その潜在的なあり方の全面開花(全面的な顕在化)によって、資本主義自体が別のものへと変貌してしまうのを期待すること(生産力中心主義)。――以上のような発想とはまさに別の仕方で「抵抗」や「革命」のあり方を構想していく必要があるのでは?

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潜在性の2つの側面

別様性と任意性

顕在化した出来事には、その縁暈として常に潜在性がつきまとう。そうした潜在性には次の2つの側面が存在していた。一つは、たまたまそのように顕在化したのは偶然に過ぎず、もっと別のあり方で顕在化しても構わなかったという別様性である。またもう一つは、そのあり方が顕在化したこと自体に深い意味や根拠はなく、本来顕在化してもしなくてもどっちでも構わなかったという任意性だ。

ベンヤミンは、潜在性のうちの前者の別様性の側面を特に重視し、顕在化しなかったあり方を歴史の中の挫折した試みや犠牲者の存在と重ねたうえで、挫折した試みや犠牲者が全て顕在化、つまり復活することを求めていた。それこそが、潜在的なものが全て顕在化して、潜在性と顕在性との区別自体が克服されるという意味での「救済」だ。

一方アガンベンは、潜在性のうちの後者の任意性の側面を特に重視する。彼が批判の対象としていた主権権力は、自らの中心に、「営みの不在」というものを据えていた。それは、顕在化しようと思えばできるのに敢えて顕在化しないままに留まっている状態のことであり、主権権力はこの状態を保つことによって、力を持っているものの特有の余裕を(威光や権威として)これ見よがしに見せつけ、人々をひれ伏させて営みの世界(世俗秩序)の中で営み=労苦、労働を続けるように強いるのだった(そこでは、死をもたらすと脅す権力と生き続けるよう促す権力との間の、フーコーが重視した区別が相対化されてしまうことになるのだが)。

こうした主権権力の戦略に対しアガンベンは、パウロの「ローマ人への手紙」の中で示された、「まるで~でないかのように」という対抗戦略をぶつけていく。この対抗戦略は、営みの世界の只中で、まるで営みなどしてないかのように、その営みの拘束力や効果など自分は何の興味も関心もないかのようにふるまうことを通して、人々を営みの世界に縛りつける主権権力の効力を脱臼させようと努めるものだ(「まるで~でないかのように」というこの不活性化戦略は、「あたかも~であるかのように」という虚構化戦略とは厳密に区別される)。

主権権力を機能させてきた、顕在化できるのに敢えて顕在化しないままに留まる「営みの不在」と、パウロ的な対抗戦略によって遂行される、すでに営みの世界の中に顕在化しながらも、その営みをどうでもよいものとすることによって、顕在化しない(潜在性を保った)ままの状態と等しくなる「営みの不活性化」――アガンベンが選択したパウロ的な戦略は、この二つのあり方の区別自体が徐々に無効化(無差別化)=消滅していくことをこそ目指していた。この不活性化戦略の積み重ねによって、営みの不在とその不活性化との間の区別が完全に消え去ってしまったときこそ、まさにかの「ユートピア」到来のときだったのであり*1、そこでは主権権力が完全に脱臼されてしまい、結果として地上からそれが廃絶されることになるだろう。もちろんそこでは、営みの世界に包摂された者と、営みの世界から排除された者との間の区別なども最早どうでもよくなる。当然、一切の(疑似的なものも含めた)超越的で宗教的な権威なども最早成立しようもない。そして、このユートピアが到来したあかつきには、顕在性と潜在性との間の区別自体も無効化して、汚辱に塗れた世俗世界がただそれだけで(顕在化=存在しようがしなかろうがどっちでも構わないものとして)純粋に肯定=祝福されるようになるだろう。

顕在化する動きか、潜在化する動きか

なお念のためつけ加えておけば、自分は以上のようなベンヤミンの見方にもアガンベンの見方にも決して全面的に賛成しているわけではない。いずれの見方も、顕在性と潜在性との対立のうちの一方の項にウェイトを置き、そのウェイトが置かれた項こそが、人間や世界の本来のあり方であると想定したままだったからだ。それでは顕在性と潜在性との対立の乗り越え方も、実は不十分なものに留まらざるをえないのではないか。

まずベンヤミンの場合では、顕在性の方にウェイトが置かれ、実際に顕在化したものの周囲に別様性として留まっている潜在的なものは、本来は顕在化した方がよいのだと考えられていたのだった。しかし潜在的なものが全て顕在化するのは(現在の地上世界の秩序・法則の下では)不可能だったから、実際に顕在化したものと、潜在的なままに留まらざるを得ない(そうなるよう強いられる)ものとの間に緊張関係が生じ、それはいつまでも払拭することができないことになる。そのためベンヤミンは、この緊張関係を、すでに顕在化したもののあり方を批判する際の批判原理として据えていったのだった。そこでは明らかに、潜在的なものが持つ、これから顕在化しようとする動きが一番根底に置かれていたことになる。

一方アガンベンの場合では、潜在性の方にウェイトが置かれ、力の顕在化の「抑止」によって人々をひれ伏せさせ、営みの世界に縛りつけるような主権権力の統治に対抗するために、非統治者側の営むことの「留保」、つまり営みの世界からの撤退がことさらに重視されていたのだった。非統治者側のそうした一見消極的に見えるふるまいを、主権権力の統治に対して積極的にぶつけ返していくことが、パウロ的な不活性化実践なのだった。統治者側の「抑止」や被統治者側の「留保」というものは、すでに顕在化した世界の只中で新たに生じた潜在化の動きであると言えるだろう。顕在化しても潜在的なままでもどっちでも構わないという任意性は、これらの新たな潜在化の動きによって先取り的に実現(予示)されると想定されていたわけだ。潜在化の運動が全面化していけば、やがてはその任意性が地上全体を覆い尽くし、地上世界それ自体も、あってもなくてもどっちでもよい任意のものと化すことになるのだろう。

けれども、以上のように、潜在的なものがこれから顕在化しようとする動きや、すでに顕在化した世界の只中で新たに生じた潜在化の動きというものにいつまでも頼ったままでは、決して顕在性と潜在性との間の区別自体を撤廃することはできないのではないか。それでは両者の区別や、両者の間を移行する運動がいつまでも残り続けてしまうからだ。この限界を突破して、完全に顕在性と潜在性との区別が無差別化した状態を実現するためには、顕在化したものと潜在的なものとの間の緊張関係や、留保や撤退というかたちで新たに潜在化する動きに依拠するのではなく、端的な運動の停止に依拠すればよいのではないかと思う。そこで今後のエントリーでは、この運動停止というものについて、より詳しく言えば、機能不全化による作動停止というものについて改めて取り上げていきたい。

補記

メイヤスーは『有限性の後で』で、「偶然性」(何かが起こったりあったりすることの必然的な根拠が存在しないこと)と「別様性」(別のことが起こったり別のあり方をしても構わなかったこと)とを等置したうえで、その偶然性を絶対化して「偶然性の必然性」というものを導出していた。そして、さらに「任意性」(何かが起こったりあったりしてもしなくてもどっちでもよい、どうでもよいこと)を絶対化されたその偶然性のうちに包摂してしまい、任意性というものをあくまで偶然性のバージョンの1つとして扱おうとしていたのだが、こうした操作には問題があるだろう。別様性と偶然性と等置するのはまだしも、別様性のうちに任意性を解消させてしまうことはできないのではないか。別様性という原理と任意性という原理とは、本エントリーが論じていたように、あくまで別々のものとして堅持されるべきものだと思う。より踏み込んで言えば、別様性の原理を優先させる立場と任意性を優先させる立場とは、場合によっては鋭く対立しさえするだろう。

*1:不活性化戦略を実践している間は、キリストが再臨した後の千年王国の時代に相当し、また主権権力による営みの不在と、パウロ的な対抗戦略による営みの不活性化との間の区別自体が克服されてしまったときとは、キリストとともに森羅万象が天国に上昇することによって救済が完了した時点に相当するだろう。