外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

交換様式Dと周辺地域、そして反復強迫:柄谷行人『力と交換様式』へのコメント(前)

柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店、2022年)読了。以下は気になった点についてのコメント。

Ⅰ『世界史の構造』からの変更点

まず『世界史の構造』(岩波書店、2010年)から明らかに立場を変更したと思われる点について。

〇上部構造/下部構造図式の再導入

『世界史の構造』では、生産様式から交換様式に視点を移せば、もはや上部構造と下部構造を区別する必要はなくなると述べられていたにもかかわらず、『力と交換様式』ではその区別が再び導入されていた。交換関係そのものと、そこから立ち昇る、当該の交換関係を維持・強化するようにと人々を呪縛する観念的・霊的力とを識別する必要が新たに生じたからだ。しかし、各交換様式からどのように人々を呪縛する観念的な力が立ち昇ってくるのか、その機序については最後までよくわからなかった。また交換様式Dに関しては、それ特有の交換様式と、呪縛する力とが同時に到来する以上、わざわざその両者を区別する必要があったのかとも思われた。

〇人間と自然の関係と、人間と人間の関係との間の優劣関係の曖昧化

『世界史の構造』では、人間と自然の関係は、交換関係という、人間と人間の関係に基づいてそのあり方が規定されると想定されていた。つまり、明らかに前者の関係の方が優位に立つと考えられていたのだが、『力と交換様式』では、M・ヘスの「交通」概念を導入したことによって、この優劣関係を曖昧にしてしまった。人間と人間の間の「交換」関係は、あくまで人間と様々な存在者との間で生じる広義の交通の中の一例に過ぎなかったと、改めて位置づけ直されたからだ。

またその際、アニミズムというものの捉え方が混乱していた点も気になった。柄谷は、アニミズムとは、人間と人間との間で生じる交換関係を、自然にも「投影」することによって初めて成立するものだと見なしていた。そして交換様式Cの普及によって、それは後に改めて廃れていったのだという。しかし実際は逆だったのではないか。かつては人間と自然との区別なく、万物にアニマが存在すると想定されていたのだから*1、むしろアニミズム的な交通関係の方が当たり前のものだったはずだ。ところが交換様式Cの普及によって、アニマの存在が想定される対象が人間だけに限られるようになってしまったため、多分そのときに初めて「投影」というあり方が誕生したのだろう。アニミズムという認識枠組が、人間にしか存在しないとされたアニマを、他の存在者へとあとから投影したものとしか見えなくなったのは、実際にはそのときからであるはずだ。どうやらここでは、投影という派生的なあり方を初源に置くという、遠近法的な倒錯が生じていたのだと思われる *2

Ⅱ 柄谷にとってのE・ブロッホ

次に、懸案だった、柄谷にとってE・ブロッホが持つ意味の問題について。柄谷にとってのブロッホの重要性について、以前自分は次のように呟いた。


この呟きから始まった一連の妄言は、結果として半分まとを射っていて、半分まとをはずしていたと言える。まずまとを射っていたのは、やはり柄谷は、中断され押し留められた未来を、メシアの到来を待望する革命的メシアニズムの観点から追想、想起(Eingedenken)しようとしたブロッホの思索をこそ重視していたという点である。

一方まとをはずしたのは、こうした追想は、明らかに死者の復活や救済への要請からなされたものだったにもかかわらず(中断され押し留められた未来とは、端的には非業の死を遂げた者の未来のことである)、彼はこの文脈では一切死者の存在には触れていなかった点だ。死者の存在は、あくまで交換様式Aにおける贈与交換の相手としてしか位置づけられていなかった。つまり、決して交換様式Dを惹起させるような特権的な存在として見なされていたわけではなかったのだ。だがその代わりに、無機的な状態への回帰という意味でのフロイト的な死が、交換様式Dを到来させる原遊動性の記憶と同一視されるというかたちで特権化されていた。死者の存在ではなく、フロイト的な意味での死を重視した彼のこの選択に関しては、後でまた立ち戻ってみたい。

Ⅲ 低次元での回復と高次元での回復

さらに次は、やはりよくわからなかった点について。

〇アルカイックなものの高次元での回復

交換様式Dの到来を、交換様式Aの高次元での回復と見なすことによって、二つの交換様式の間の区別を曖昧にしてしまったことや、わざわざ交換様式Aを二分割したことの利得や妥当性が、どうしてもピンとこなかった。ここが『世界史の構造』以降の柄谷理論の一番肝心な点であったにもかかわらず(『力と交換様式』のいくつかの書評を見ても、この点に躓いたものは特にはなかったのだが……)。

共産主義の到来を、アルカイックなものの高次元での回復と見なす発想は、もともとマルクスがL・H・モルガンの古代社会論から学んだものであり、またそこには、大人になることとは子どもの素直さの高次元での再現であるという、マルクス自身の次のようなルソー的な人生観も強く影響していたのだろう。


背景にあったこうした事情は一応理解できるのだが、しかし、柄谷が上述のような理論構制を敢えて選んだことの意義や妥当性がやはりよくわからないのだ。彼によれば、交換様式Aが二重化される根拠は、この交換様式が優勢な状態にあった定住民の氏族社会には、定住以前の遊動民の記憶痕跡が存在していたという点に求められる。この記憶痕跡があったからこそ、氏族社会で成立する互酬的関係は、もっぱら負い目や罪悪感(負債)によって人々を拘束するような抑圧的なものにはならずに、かつての遊動民が実現していたような、個の独立性、自律性がそこでも相変わらず維持され続けることになる。そしてその遊動民の間で実現していた、互酬性と個の独立性との間のこうした稀有で奇跡的な両立状態こそが、独立した個同士が対等な立場で協力関係を結んでいく、相互扶助的なアソシエーションの原型として設定されることになるのだった*3

まず交換様式Aの低次元での回復は、この交換様式が交換様式B(国家権力)と結託することから生じる。そのことによって、遊動民の記憶に基づいていた個の自律や独立の側面がそぎ落とされてしまい、互酬関係がもっぱら抑圧的なものに転化して、ただ交換様式Bを強化・補完するのとしてのみ回帰するようになるのだ。一方交換様式Aの高次元での回復は、この交換様式が、交換様式Cの蔓延や交換様式Bの肥大化に対する抵抗の拠点として用いられることから生じる。交換様式Aが抵抗の拠点と化すと、互酬関係の根底に存在していた遊動民の記憶が惹起され、その記憶が、自由で対等な立場での協力・連帯関係(=交換様式D)を実現せよという、倫理的要請のかたちで唐突に到来するようになるわけだ。

確かに以上のような理屈は、抽象的な図式としてはスッキリとしているから一見説得力があるように見える。しかし実際に学問的、実証的な裏づけがあるのかどうかはまったく不明なままだ。そもそも、定住民の氏族社会のなかに遊動民の自由の記憶が残っていて、その記憶こそが氏族社会をある程度自由なものにしていたというのは、本当だったのだろうか。また資本の横暴や国家の専制に対して、アルカイックな互酬関係をオルタナティヴな可能性として対置させると、どういった経緯でそこから唐突に交換様式Dなるものが到来してくるのだろうか。さらにその交換様式は、どうして単に(相互負債の関係に拘束された)互いに平等な協力関係だけではなく、同時に(一切の負債関係が発生せずに)それぞれの個が独立したままでいられるような、自由で開かれた関係までをも実現せよと要求できるのだろうか。

〇交換以前の状態への回帰と原遊動民

こうした点についてはまったく何も説明されないままだったのだが、とはいえ最後の、どうして遊動民の記憶が、独立して自律した個同士の開かれた関係の実現を要求するのかという点に関しては、ある程度その理由を推測することができる。先に指摘したように柄谷は、交換様式Dを生起させる原遊動性の記憶と、無機的な状態への回帰というフロイト的な意味での死とをなぜか同一視していたのだった。この理由もまた説明されないままだったのだが、しかし同時に彼は、狩猟採集する遊動民の間ではまだ交換という関係が成立せず、いわば「交換以前」の状態にとどまっていたとも述べていた。この指摘は重要である。なぜなら彼の中では、フロイト的な死の欲動がそこへと回帰するよう求めていた無機的な状態と、原遊動性の正体であった、交換が始まる以前の状態とが明らかに同一のものと見なされていたことになるからだ。無機的な状態への回帰=交換以前の状態への回帰。しかも柄谷はさらに、普通は自我に負い目や罪悪感を与えるものだと考えられていた超自我の審級に関しても、むしろそれは自我の自律性や独立性を支援していくものだと捉えていたのだった。超自我が発動して初めて、特定の共同体への依存が断ち切られる(去勢される)ようになるのだから。確かにフロイト理論の中では、無機的な状態へ回帰しようとする死の欲動と、超自我とは何らかのかたちで関係していて、超自我の発動には常に死の欲動の惹起が伴ってはいた。しかし、両者の関係はかなり複雑なもので一筋縄でいくようなものではなかった。ところが彼はその複雑さを無視して、大胆にもいっきに死の欲動の惹起と超自我の発動とを等号で結んでしまったのだろう。

こうして、〈無機的な状態への回帰=交換以前の状態への回帰=自我の自律性や独立性の確立を支援する超自我の発動〉という、極度に単純化された図式が形成されることになる。当然この図式の妥当性もまた不明なままなのだが、しかし、無機的な状態としての死への回帰や、交換が始まる前の状態への回帰を求めることは、確かに、人々が何かを共有することによって生じるようないかなる共同性や、互酬性や相互扶助性のようなあらゆる相互性への依存を断ち切るよう促すことにはなるだろう。従って、原遊動性の記憶から到来するとされた交換様式Dは、人々に何らかの自由をもたらすものになるとは言えるかもしれない。しかしそこで実現される自由とは、活動の不在という意味での死の状態や、交換以前の状態へと回帰せよという要請に従うことで初めて生じるものだったのだから、自律して独立した個の自由とはかなり異なるものになると思われるのだが(意志を放擲して得られる境地のようなもの?)、果たして実際にはどうなのだろうか。

Ⅳ アウグスティヌスの問題提起と古代末期

続いて、ないものねだり的な批判をいくつか詳しく。

自分は、交換様式Dの到来の仕方に関して前に次のように呟いた。


ここで述べられたメシア到来への待望と世俗的な努力との間の関係についても、柄谷はアウグスティヌスの『神の国』の議論を引きながら少し言及していたのだった。アウグスティヌスは、神の国の到来は人間の意志や努力によって実現されるものではないと強調しつつも、他方では、そのために何もしなくてもよいわけではなく、一定の努力や配慮は必要だと主張していた。同時に、両者の間の適切な配分や折り合いこそが重要だとも問題提起していた。柄谷は、アウグスティヌスのこうした問題提起こそが、人間の願望や意志によってもたらされるわけではない交換様式Dの到来に対する、人間の側からの働きかけ方を考える際の手がかりになるはずだと指摘していた。確かにそうかもしれない。しかし彼は、このアウグスティヌスの問題提起がその後どのように受け取られ、どう発展させられたかに関しては一切触れてはいなかった。ただ西ローマ帝国崩壊後、この問題設定がゲルマン社会に取り残されたと一言述べただけである。

しかし実際には、東ローマ帝国地域(とその後の正教世界)ではただ取り残されただけにとどまらず、それは独自な展開を遂げ、特に、神からの恩寵と人との協働によって可能になる「テオーシス」(人間神化)をめぐる議論として深められていったのだった*4。一方西ヨーロッパでは、このアウグスティヌス的モチーフは、神の計画による決定と人間の自由意志との間の二律背反に行き着いて躓いてしまい、もはやそれ以上の展開は生じなかった。もちろんM・ウェーバーが明らかにしたように、この躓きへの対応というかたちで、もっぱら人間の意志と努力に基づいて蓄積に勤しもうとする資本主義の精神が生成してきたわけなのだが。そうは言っても、やはり近代の西ヨーロッパでは、柄谷が交換様式Dの到来の仕方を取り上げて問題にしたような、不正なあり方を根本的に改めるよう求める倫理的な要請の突然の到来や、それへの対処の仕方をめぐる思考が深められていったとは言い難い。

それでは、柄谷はどうして東ローマ帝国地域でのその後の展開を無視してしまったのだろうか。その理由は、実は彼が西ヨーロッパ中心の歴史観を選択していたという事実に求められる。とはいえこの選択は、多分に仕方がないものなのだった。『力と交換様式』では、彼は意識的にマルクス・エンゲルスが形成した唯物史観の問題設定に忠実に従がおうとしていたからだ。元々唯物史観というものは、なぜ西ヨーロッパでだけ産業資本主義が(特にイギリスで)勃興して(またドイツで)さらに発展することができたのか、という問題を解明することだけを目的として形成されたものである。柄谷は、この唯物史観が、もっぱら生産様式に定位することによって形成された点を批判しながら、改めてそれを交換様式の観点から構成し直そうとしたわけだ。そのため、当然この史観が取り上げた地域にしか着目しないままになり、またそこで示されていた時代区分も機械的に踏襲することになった。こうした事情があったためか、東ローマ帝国は、多様性や発展とは無縁な「アジア的専制国家」の一種に過ぎないと見なされるに到り、簡単に切り捨てられることになってしまった。また、アウグスティヌスが属していた古代末期という時代区分も取り上げられることがなかったため、この時代に生じていたはずの宗教的心性(霊性)の緩やかな変容も*5、完全に彼の視界の外にとどめ置かれ続けていた。

交換様式Dの到来の仕方について考察する際には、やはり以上のようなことの代償は大きかったのではないだろうか。まさに東ローマ帝国地域でこそ、倫理的な要請の唐突な到来と、それに対応する人間の側の努力との間の折り合いという、アウグスティヌス的モチーフが――しかも同時に、神の決定と人間の意志の自由との間の対立を解決不可能なものにしてしまった、アウグスティヌスの議論の立て方自体をある程度批判しながら――さらに展開、深化させられていったのだから。

Ⅴ 西ヨーロッパ中心史観と近代の超克

さらに言えば、柄谷の上述の西ヨーロッパ中心史観には、実は単に唯物史観の問題設定に忠実に従っただけにはとどまらない、あるバイアスが存在していた。どうもそこには、未開性、後進性こそが逆に(歴史の発展段階を「跳び越えて」)先進性、先端性を生むという逆説に注目してそれを特権化してやまなかった、いわゆる「近代の超克」的な発想が紛れ込んでいたようだ。このバイアスが特に見られるのは、柄谷がK・ウイットフォーゲルの「亜周辺」概念を導入したときである。なぜイギリスやドイツでのみ産業資本主義が勃興して発展したのかという、唯物史観が解明しようとした問題に対して、柄谷はそうした地域の辺境性、未開性というものに特に注目する。強大な帝国(交換様式Bが支配する世界。西欧の場合はローマ帝国)からそれなりに離れていた、イギリスやドイツのような亜周辺地域では、帝国のすぐ傍らに存在した「周辺」地域とは異なって、その帝国による政治的・文化的支配に全面的に屈服することはなかった。帝国の中心からある程度距離があったため、その制度や慣習を部分的に選択して取り入れながら、相対的に独立を保つことができたからだ。亜周辺地域のこうした相対的な独立状態を踏まえながら、なぜ資本主義は勃興して発展することができたのかという問題に対して、柄谷は、亜周辺地域の未開性、後進性というものを持ち出してくる。まず彼によれば、亜周辺地域には巨大帝国の交換様式Bの支配が充分には及ばなかったため、その間隙をぬうかたちで交換様式Cが全面化し、その結果資本主義が発達していくことができたのだった。しかも交換様式Bの支配が不十分だったために、同時にそこにはアルカイックな交換様式Aもまた残存していた。この残存性こそが、亜周辺地域特有の未開性、後進性と見なされたのである。そしてこの未開性、後進性に依拠してこそ、交換様式Cの全面化に対抗するための、交換様式Aの高次元での回帰=交換様式Dの到来が、資本主義による世俗化を前提とした、非宗教的なかたちで可能になると柄谷は考えたのだった(=国家権力を指向しない社会主義運動や協同組合運動の隆盛)*6

以上のような、未開性(交換様式Aの残存)を奇貨というか梃子として先進性(交換様式Cの全般化や交換様式Dの到来)が実現されるという論理は、もともとはウィットフォーゲルの亜周辺概念のうちには存在していなかったと思われる。それでは、いったいどこから持ち込まれたのだろうか。当然それは、日本の京都学派、特にその近代の超克をめぐる議論からだろう。戦前の京都学派は、西欧や中国に対する日本の優越性を示すために、辺境にあって一見遅れているように見えた日本が一挙に西欧近代を超克できることを論証する必要に迫られるに到り、この歴史の発展段階の跳び越えの論理に強く依拠するようになった。また戦後の京都都学派も、脱亜と入欧の間、あるいは中国に対する優越感と劣等感との間で揺れ動きながら、日本文化の独自性や例外性を確認するために、引き続きこの論理を採用したのだった。特に戦後の京都学派が展開した議論は、菅原潤によれば、柄谷の亜周辺概念解釈と共通点が多かったという(菅原潤『京都学派』講談社現代新書、2018年、参照)。

たとえば戦後の京都学派の一人であった梅棹忠夫は、ユーラシア大陸の両端にある日本とイギリスという二つの島国でどうして例外的に商業が発達することができたのかを説明するために、「第一地域」と「第二地域」という領域区分を導入したのだが(文明の生態史観)、この区分は、柄谷の亜周辺解釈と酷似していた。梅棹は、ユーラシア大陸を、巨大な帝国が交代する「第二地域」に、また日本とイギリスという両端にある島国を、巨大帝国による支配を充分に受けないままでいられた「第一地域」にそれぞれ配したのだが、巨大な帝国から文化だけは導入するが、それ以外では独自な発展をすることができた後者の第一地域は、柄谷が捉えた亜周辺地域の特徴をほぼそのまま備えていた。さらに菅原によれば、以上のような梅棹の生態史観を改めて唯物史観と結びつけたのが上山春平であり、特にこの上山の議論と柄谷の議論の間には共通点が多かったという*7

もしそうであるならば、なぜ柄谷は、往年の京都学派のロジックをわざわざ導入したのだろうか。そこにはどのような隠された意図というか、無意識の欲望が存在していたのだろうか。これはもう勝手に想定するしかないのだが、どうも彼は、西ヨーロッパである程度定着することができた社会主義運動や協同組合運動のうちに、未開性によって先進性を実現するという近代の超克の論理の、一種の成功例を見て取っていたようだ。そしてそのように見て取ることは、西ヨーロッパと同じく巨大帝国の亜周辺に位置するとされた日本列島でも、これから交換様式Dの到来に依拠したその種の運動が勃興するだろうという期待と確実に裏腹になっていたのだと思われる*8。というより、日本列島での革命=交換様式Dの突然の到来の可能性を担保するためにこそ、日本列島の地理的な辺境性と近代の超克の論理を関連づけた、戦後の京都学派の認識を(密かに)踏襲しようとしていたのだろう*9

そして、この期待を裏づけ正当化するものとして機能していたのが、彼独自の柳田国男論である。柄谷は、柳田が語った幻の民・山人のうちに定住以前の原遊動民の記憶を読み取り、さらに、柳田が追求し続けた日本列島の固有信仰(祖先崇拝)こそが、そこから交換様式Dの到来が初めて可能になるような、定住以前の原遊動性の痕跡が強く残った、アルカイックな交換様式Aの世界であると見なしていた。ユニークというか、かなり強引なこのような柳田解釈のうちに、未開性こそが先進性を可能にするという近代の超克の論理の存在や、また、そうした先進性が可能になる地域として、ユーラシア大陸の両端を特権化した梅棹忠夫の生態史観の影響を見て取ることができるのではないだろうか。

Ⅵ 近代の超克の失敗例

さて近代の超克の論理の成功例が取り上げられた以上、当然その逆の失敗例も想定されていたはずである。では柄谷にとっての近代の超克の論理の失敗例は何になるのだろうか。『世界史の構造』や『力と交換様式』に記述に従えば、当然それはナショナリズムファシズムに相当するだろう。これらの運動は、社会の中に残存していたアルカイックな交換様式Aと、国家権力の交換様式Bとを結託させることによって、資本主義体制による交換様式Cの暴走に対して何とか強固な防波堤を造ろうとしていた。しかし、その結果もたらされたのは、交換様式Aの全面的な棄損と交換様式Bの肥大でしかなかったのであり、しかもなお悪いことに、肥大した交換様式Bと暴走する交換様式Cを改めて結託させることにまで行き着いてしまった(軍需産業の振興などを通して)。この状態に到りつくと、残存していた交換様式Aによって(交換様式Dを召喚させることを通して)国家権力の肥大や資本の暴走に抵抗しようとする可能性は、もはやまったくなくなってしまう。それゆえ柄谷の立場からすれば、最悪な事態しかもたらすことしかしない、交換様式Aと交換様式Bの結託は何としても避けなければならないことなのだった。

この結託の具体的な中身は、おおよそ次の通りである。アルカイックな共同体の未開性(=民族の古い記憶)を利用して国家権力による支配をかつてないほど盤石なものにする(=臣民としての国民の創出)と同時に、その共同性の中に存在していた相互扶助の関係を仮想化(幻想化)することによって、人びとの間の団結をもかつてないほど強固なものにしていく(国民という同朋意識の成立)。さらに、支配が及ぶ範囲も従来よりも広げられるようになる(国民国家におけるマイノリティの同化吸収)。つまり、ここでもまた未開性、後進性に基づいて(かつてない状態を実現する意味での)先端性、先進性を達成するという、近代の超克の論理が適用されていたのだった。しかし柄谷にとっては、ここではアルカイックな共同体の中に残存していた原遊動性の痕跡が、国家権力によって完全に踏みにじられることになるから、当然その論理の適用の失敗例でしかなかったわけだ。

そして、近代の超克(歴史段階の「飛び越え」)の論理の失敗例はさらにもう一つ存在していた。――それがロシア革命である。

柄谷は、その初期の仕事から一貫してロシア革命に対しては冷淡だったのだが、『力と交換様式』では、そもそもレーニンが行った10月革命自体がマルクスを裏切ったものでしかなかったと主張して、その意義をはっきりと全面否定するに到った。マルクスを重視したにもかかわらずロシア革命を否定するという立場は、多分彼の世代では少数派だったと思われるのだが、しかし冷戦崩壊以降は、決してそうではなくなりつつある。ヘーゲル左派研究や初期社会主義研究の進展につれて、マルクスとその批判者との間の対立は従来から徐々に相対化されつつあったのだが(たとえばプルードンやヴァイトリングなどとの間の)、特に90年代以降はその延長上で、マルクスとその批判者とを一つにつなぐものとして、新たに彼のアソシエーション論が注目され始めるようになったからだ。柄谷特有のマルクス解釈も完全にこうした流れの中にあると言えるだろう*10。そして、マルクスの多くの仕事のうちでアソシエーション論が重視されればされるほど、国家権力をいったん奪取してから改めてそれを廃絶しようと試みて頓挫してしまった、ロシア革命というものへの評価は逆に下がっていく一方になる。確かにこの革命は、発達した資本主義国でしか革命は起きないと見なしていた『資本論』に反するものだと従来から言われていたのだが、それは資本主義が未発達なまま、いっきにその先の社会主義社会や共産主義社会の実現を目指そうとしたからである。こうした企てに対してマルクスのアソシエーション論を重視する者たちは、資本主義が未発達で民主主義の伝統が存在しないところで国家権力の奪取によっていくら革命を起こそうとしても、それは最初から間違った選択でしかなかったのだと、口を揃えて強調する。ボリシェビキが権力を奪取した以降のロシア革命は、途中から(つまりスターリン体制が成立してから)逸脱してしまったのではなく、そもそも、その企て自体が初めから挫折を運命づけられたものでしかなかったのだと。

ロシア革命に対する柄谷の極めて低い評価も、最近のマルクス研究者たちのこうした考え方と明らかにシンクロしていた。しかし問題なのは、彼の場合は、ロシア革命に対する冷淡な見方が、実はロシアという地域への蔑視と表裏一体のものであったという点である。彼特有のロシア地域への蔑視は、梅棹忠夫の生態史観を通して改釈された、ウィットフォーゲルの中心・周辺・亜周辺図式に明らかに基づいていた。それは、マルクスのザスーリチ宛の手紙で取り上げられていた、ロシア帝国の特に「周辺」地域に広がった、前近代的な農民共同体ミールが持つ意味に対する、彼のあまりにも否定的でそっけない解釈によく表れていたのだった。

Ⅶ ザスーリチへの手紙の三つの解釈

〇ザスーリチへの手紙への柄谷以外の者の解釈

以前主流だった解釈では、ミール共同体に言及したマルクスの手紙は、この共同体特有の共同所有に依拠しさえすれば、資本主義の発達を経ないままロシアに共産主義を到来させることができると、彼自身が主張したものだと見なされていた。つまり『資本論』以降のマルクスは、『資本論』に反するとされた、まさに資本主義以前という後進性を梃子にして資本主義以降の状態を実現させようと試みていた、ロシア革命の可能性を自らで展望していたことになる。一方最近は、斎藤幸平の解釈などに典型的にみられるように、むしろこの手紙のうちに、マルクスが晩年になって到達したとされる、コモンを重視したエコロジーの観点が示されていたのだと見なす解釈が有力になりつつある。以上のような解釈に対して柄谷のザスーリチ宛の手紙のそれは、あまりにもそっけないものでしかないのだった。

〇ザスーリチへの手紙の柄谷特有の解釈

ロシアの農民共同体ミールは、モンゴル帝国という典型的なアジア的専制国家の「周辺」で成立したものに過ぎないから、ローマ帝国の「亜周辺」で成立したゲルマン共同体とは異なって、氏族社会では残存していた個人の独立性はもはやその中では損なわれてしまっていた。たとえそこに土地共有制(コモン)が見られたとしても、それは交換様式Bの下で後から(中世以降)成立した抑圧的なもの(「全般的隷従制」)に過ぎない。その共有制は、成員の自由と平等がそこで実現されるような、原遊動民の共有制と同一視できるようなものでは決してなかったのだ。それゆえ両者を混同して、ミール共同体の土地共有制に依拠して性急に共産主義革命を敢行しようとしても、ただ肥大化した交換様式Bを呼び寄せることしかできず、最悪の専制国家しか生み出さないだろう。おおよそマルクスはこのように考えたからこそ、彼はザスーリチへの手紙でロシア革命の可能性をはっきりと否定したのだ。――柄谷はこう断言したうえで、さらに、国家権力の手を借りながら、ミール共同体の未開性に依拠して資本主義という段階を「飛び越え」て先進的な共産主義体制を実現しようとしたロシア革命の試みは、実は根本から間違っていたのであり、それゆえ、抑圧的な専制体制を呼び寄せてしまうのも必然的だったのだと畳みかけていく*11

〇柄谷の解釈に見られるバイアス

以上のような柄谷のロシア革命やミール共同体に対する否定的評価が問題なのは、やはりそれが、「亜周辺」(ウィットフォーゲル)、「第一地域」(梅棹忠夫)に位置したイギリスやドイツ、そして日本に存在した共同体に対する肯定的な評価と一対になっていたからである。これらの地理的な概念を明らかに作為的に用いることによって、資本主義や商業が発達した亜周辺地域に存在しているとされた、革命の可能性を過剰に持ち上げるという操作が行なわれていたのだ。こうした操作には必然的に、資本主義や商業が発達しなかった周辺地域の革命の可能性を、必要以上に否定するという副作用が伴うことになる。ロシア革命は最初から間違っていたという極論や、そして、東ローマ帝国はただのアジア的専制国家に過ぎなかったと決めつけて、その支配地域でのその後の展開を視野の外に追いやってしまった短見などは、みなこの副作用によって生じたものと言えるだろう *12

〇「周辺」と区別された「亜周辺」など、現在ではもはや存在しない

柄谷のこうした作為的な操作がさらに問題だったのは、グローバル化を経た現在では、実は亜周辺と周辺の区別などすでに無効化していたからである。いったい現代社会で、かつての帝国の範囲をなぞるように拡大している複数の勢力圏(アメリカ、EU、中国、ロシア、イラン、湾岸協力会議 etc…)の影響から相対的に独立したままでいられるような地域など、果たしてどこに存在するのだろうか。かつての帝国の後を継ごうと目論んでいるこれらの勢力圏が、自分の影響が及ぶ圏域を拡大しようと互いに角逐し合っているのが現状だろう。そこでは従来は亜周辺とされた地域も、巨大な勢力圏の軛の下に置かれた周辺地域へと落ちぶれ果て、複数の勢力圏が互いの覇を競い合う草刈り場と化しつつある。現在の世界の姿が以上のようであるならば、むしろこれからは、亜周辺とされた地域での歴史的経験よりも、逆に、強大な帝国の軛の下で苦しみ続けた、かつての周辺地域での歴史的経験の方が意味を持つようになるのではないだろうか。言い換えれば、亜周辺地域での近代の超克のロジック(未開性による先進性の実現)の成功例ではなく、逆に、周辺地域でのその失敗例の方が重要になるのではないだろうか。

〇三つの解釈の相互関連

以上のような観点に立ったうえで、マルクスのザスーリチ宛の手紙に対する、先に見た三つの解釈の対立について改めて検討してみよう。この三つの解釈は一見対立するように見えたのだが、実は互いに両立可能であり、しかも相互に関連づけていくことすらできるのだった。そして、そうした関連性を把握することで、ロシアという地域やロシア革命に対する、柄谷の極端に低い評価をも是正していくことができるはずだ。

まず、確かに柄谷の言う通り、巨大で抑圧的な帝国(交換様式B)の軛の下にあったミールという共同体の中では、自由で独立した個人同士の関係を可能にするような条件は、すでに、あるいはあらかじめ殆ど失われていたと思われる(その条件が、果たして定住以前の原遊動性の痕跡であったかどうかは置くとして)。またそれは同時に、自律して独立した個が未成立なままの状態で、というより、あらかじめ解体して壊れたままの状態で放置されていたことをも意味していた。もちろんそうだったからこそ、たとえミール共同体に依拠して革命を起こそうとしても、結局巨大な国家権力を引き寄せることしかできず、その権力の肥大化を招いていくだけだった。確かにそれは柄谷の言う通りだろう。とはいえ、ミール共同体に依拠しようとしたロシア革命の試みは、最初から間違っていて無意味なものでしかなかったのだろうか。

いや、決してそうではなかったはずだ。ザスーリチへの手紙をロシア革命の可能性を展望したものとして読む従来の解釈では、ミール共同体に色濃く残る土地共有制が、資本主義的な私的所有を経ずにそのまま共産主義的な共有へとスライドできると見なされていた。確かにそうした面もあっただろうが、それと同時に、強大な専制体制(交換様式B)の影響によってすでに、あるいはあらかじめ個が解体していたからこそ、そこに棲息する者たちが、資本主義体制(交換様式C)にはそもそもそぐわないタイプの人々に、言い換えれば、資本主義体制を支え促進させるようなエートスなど持ちえない人々にすでに、あるいはあらかじめ化していたという点も看過できなかったのではないか。そしてそうだったからこそ、ロシア革命による歴史段階の「飛び越え」を期待した者たちは、ツアーリ権力を打破した対抗権力(全権を握った前衛党)によって、ミール共同体に残存していた土地共有制を(たとえそれが抑圧的な封建体制の残滓でしかなかったとしても)全面化させ(集団化)、そこに資本主義体制にはそぐわない、あらかじめ解体して壊れた主体(共産主義的人間)たちを配置しさえすれば、おのずと共産主義社会が現われてくると考えることができたのではないか。

もちろん実際には、そこに配置された、すでに、あるいはあらかじめ主体性が棄損された共産主義的人間たちは、巨大化した権力の暴走(暴政)に翻弄され、混乱の中でますますその主体性の破損や解体の度合いが増していっただけなのだった。そして最後には、遺棄されて生ける屍(セルフネグレクト)状態と化し、いったい自分たちが熱望した自由で平等な共産主義社会とは何だったのか、その正体は相変わらず謎だなどと呟きながら、というより、その実現が裏切られたことによってさらにその謎が深まったために、かえってその実現を強く望むようになりながら息絶えていったのだろう(A・プラトーノフが好んで描いた人々のように)。当然そのあとには屍と、革命の夢が潰え去ったことを示す瓦礫や残骸、そして傷痕だけが残されることになる。この種のものしか残らないならば、やはり(10月革命以降の)ロシア革命は遂行しない方がよかったのだろうか、最初から避けるべきだったのだろうか。もちろんそうした考え方もあるだろう。しかし、すでに存在してしまった瓦礫や残骸、そして執拗に回帰し続ける傷痕だけはもはや誰も無視することができないものと化しているのだった。

ブロッホの「希望なきところに希望を見て取る」

ところで、希望なきところに希望を見て取り、革命への夢や期待が潰え去ったように見えるところにこそ、その夢や期待を見つけようとしたブロッホ追想という思考方法は、元々は以上のような事態に対処するためのものだった(彼自身は、直接には第一次大戦の死者しか想定していなかったのだが)。そして、彼の盟友であったベンヤミンが造形した歴史の天使という形象もまた、その中に夢や希望が埋もれたままになっていた瓦礫や残骸を拾い集めて、破砕されて断片化した夢や希望が、そこから改めて浮き上がるよう試みていたのではないだろうか。そうすることによって歴史の天使は、浮上した断片たちが、新たなかたちで結晶化(再構成)されていくことを強く期待していたはずだ。

ロシア革命が取り返しのつかない破局をもたらし、あとに残骸や瓦礫だけを残しただけだったならば、マルクスのミール共同体の扱いのうちにロシア革命への期待や展望を読み取ろうとした、ザスーリチ宛の手紙に対する従来の解釈を救出することなど今さらできるのだろうか。もしどうしてもそうしたいのならば、上述のようなブロッホベンヤミン的な追想という思考態度を、この解釈に改めて接続していくようにするしかないだろう。ミール共同体の後進性のうちに、歴史段階を飛び越えていっきに先進的な共産主義社会の実現を可能にするものを見て取ったのは、確かに性急な短見、そう言いたければ明白な誤りでしかなかったのかもしれない。しかし逆に性急な短見だったからこそ、共産主義の到来を強く期待して夢見ることができたのではないだろうか。またそうだったからこそ、この種の夢や期待は、バラバラになりながらも、歴史の残骸や瓦礫の山の中に埋もれて存在し続けることができたのではないか。それゆえこうしたものをあとから掘り出して再構成していくことは、決して無駄な作業にはならないはずである。なぜならそれは、共産主義社会実現への夢や期待が目指していたものを、残骸や瓦礫に囲まれたなかで改めて生かしていくということを初めて可能にするからだ。またそれは、取り返しのつかない破局がすでに生じてしまった事実を認めたうえで、その取り返しのつかなさの受容を通して、共産主義という名前で強く期待され夢見られていたものを改めて救出していくことでもある。つまり、破局の取り返しのつかなさを受け入れていくことと、共産主義の到来とを同じ一つの出来事にするというか、合体させていくような企てだったのである。以上のようなあとからの作業が伴って初めて、マルクスの手紙のうちにロシア革命の展望を見て取った解釈や、ひいてはロシア革命の企てそのものも肯定され救出されることになるのだろう*13

なるほど、潰え去った夢や期待へのブロッホ的な追想や、ベンヤミンが形象化した、歴史の天使によるそれらの断片の拾い集めと再構成という作業があとに伴えば、確かにロシア革命という企てはギリギリ受け入れ可能なものになるのかもしれない。しかし追想という作業や、特にベンヤミンの歴史の天使による断片の収集と再構成という試みは、まさにこの天使の像が示されていたベンヤミンの断章では、歴史を前に進むよう急き立てる進歩の嵐(それは多分交換様式Cからもたらされるものだろう)によって常に失敗してしまうと確認されていたのではなかったのでは?(「歴史哲学テーゼ」Ⅸ)。確かにそうなのだが、しかしこの企てが失敗するのは、あくまで進歩という嵐が吹き荒れていた場合だった。その嵐がやんでしまえば、歴史の天使は瓦礫や残骸を拾い集める作業に専念できるようになるはずである。そして、この進歩、成長の嵐を吹きやまさせる可能性をこそ、まさにザスーリチへの手紙に対する残りの解釈が、ミール共同体の前近代的な土地所有制のうちに読み取っていたものだったのだ。

〇ザスーリチへの手紙のエコロジカルな解釈の問題点

斎藤幸平をはじめとした、ザスーリチ宛の手紙のうちにマルクス晩年のエコロジカルな探究の到達点を読み取ろうとする解釈は、ミール共同体に存在していた前近代的な土地共有制のうちに、資本主義体制(交換様式Cの慢性化した暴走状態)によって損なわれてしまった、地球生態系の物質循環を修復するための手がかりやモデルが見て取っていた。もちろんここにも、未開性に基づいて先進性(この場合は地球の物質循環の修復に相当)を実現していくという、ある種の近代の超克の論理が存在していたと言える。しかしロシア革命への展望を読み取ろうとした従来の解釈とは異なって、ミール共同体というものが、資本主義という段階を飛び越えて一挙に共産主義段階に到達するための、実際に拠点になると見なされていたわけではない。単に資本主義の全般化、グローバル化によって生じた、地球生態系の物質循環の亀裂を改めて修復するための、一つのモデルとして位置づけられていただけだった。あくまでモデルや範例と見なされたに過ぎないから、実際の修復の仕方に関しては、既存のアルカイックだったり前近代的なものであろうと、あるいは新しく創出されたものであろうとあまり頓着されることなどなかった。絶えず進歩や成長を急き立てる資本の暴走を抑えたり、もしくはそうした暴走から逃れることを可能にするものであるならば、基本的にはなんでもよかったわけだ。

確かに、ザスーリチ宛の手紙のうちにマルクスのエコロジカルな観点の到達点を見て取る、以上のような解釈も一応正当なものだと言えるだろう。だがこの解釈が唯一忘れていたのは、もはやミール共同体は従来のようなかたちでは殆どどこにも残っていなかったという事実である。この共同体は、ロシア革命の混乱や、その後に成立した抑圧的なスターリン体制によってすでにズタズタにされ、しかも、チェルノブイリ事故や農薬汚染、あるいは気候変動による土壌の劣化などによって、もはや多くの場所では、処理能力を越えた有害な廃棄物や汚染物質との共存を余儀なくされているのだった。こうしたことから見えてくるのは、ミール共同体に限らず、巨大な帝国の周辺地域に存在していた多くの前近代的な共同体は、肥大化した国家権力(交換様式B)に翻弄されることによってもたらされた、数々の歴史的出来事の消え去ることがない残骸や瓦礫とともに、暴走した資本(交換様式C)に蹂躙されることによって生み出された、取り去ることができない廃棄物や汚染物質に取り囲まれて、すでに根こそぎの状態に置かれていたという事実である。かつてのミール共同体の姿のうちに、地球の物質代謝の修復のモデルを見て取ろうとした、ザスーリチ宛の手紙に対する現在有力な解釈が正当性を持つためには、当然そのモデルを、以上のような、現在のミール共同体の心許ない状態に改めて適用する方法をさらに探究して、もはや除去できない瓦礫や汚染物質と共存するという形態を取った、新たな物質代謝の修復の仕方を提示していく必要があるだろう。現代では、これ以上瓦礫や汚染物質を増やさないようなライフスタイルと同時に、すでに否応なく存在している瓦礫や汚染物質とうまく共存できるようなライフスタイルをも、常に同時に求められていたのだから。

そして、そこでは次のような点が重要になるだろう。先にブロッホベンヤミン的な歴史の傷の追想の作業は、進歩の嵐が吹いている限りは困難になると確認したのだったが、汚染物質との共存というかたちで物質代謝の修復をし、そのような仕方で脱成長、卒進歩というあり方を実現していけば、進歩の嵐もやむことになるから、同時にその歴史の追想作業も初めて充分に実施できるようになる。地球の物質代謝に亀裂を入れ続けていた、資本主義の暴走による進歩の嵐がやまない限り、そもそも歴史の天使は、瓦礫を拾い集めて並べる作業に専念することなどできなかったのだから。

以上のように、歴史の天使による瓦礫の取り集め作業は、汚染物質とのダーク・エコロジカルな(T・モートン)共存によって初めて可能になるのだった。またそれと同時に、そのダーク・エコロジカルな共存のもとで自由と平等を実現させるためにも、歴史の瓦礫の山を前にした、ブロッホベンヤミン的な追想の作業こそが必要不可欠なものになると言える。ザスーリチへの手紙を、マルクスのエコロジカルな観点の到達点が書き記されたものだと解釈する者たちは、土地や財産の共有が実現さえすれば、マルクスの言う、資本主義体制下での「私的所有」とは区別された、自由で独立した人間特有のものであった「個的所有」も、そのうえで同時にすぐに可能になるはずだと楽観的に考えがちだったのだが、しかし、やはりそういう風にはならないだろう。追想の作業によって、権力の横暴やネーションの排他性によって斃れていった者たちを想起し続けなければ、再び権力が肥大化したり、抑圧的な封建的遺制が息を吹き返したりして、たちまち自由と平等は失われてしまうことになるからだ。原遊動性の記憶痕跡がほとんど存在しない周辺地域では、自由と平等を実現して維持し続けるためには、こうした歴史の追想作業を絶えず行っていく必要があるはずである。ただ、そこで実現するとされる自由と平等は、生きた人間同士の関係の中だけで成立するわけではなく、同時に死者や他の存在者との関係にも支えられているものだから、柄谷が想定していたような、自律して独立した個同士が持つとされる自由と平等とはかなり異なるものになると思われるのだが。とはいえ、いずれにせよ周辺地域では、瓦礫を取り集める追想の作業と、汚染物質とのダーク・エコロジカルな共存の下での自由と平等の実現とは、相互に依存し合う必要があったのである。この点は決して看過することはできない。

マルクスの手紙のうちにエコロジカルな認識を読み取ろうとした、現在有力な解釈は、以上のような、歴史の追想と廃棄物との共存との間に相互依存の関係をきり結ぶことの必要性をまだ見ていなかったと思われる。その必要性を見て取り、自らの解釈のうちに組み込んでいくことができて初めて、より正当性を持つことができるようになるのだろう。

〇「周辺」地域と交換様式Dの到来

こうして、ザスーリチ宛の手紙の三つの解釈がそれぞれどのような正当性を持ち、またそれらの間にどのような関連性があるのかを大急ぎで見てきたわけだが、その関連性は、簡単にまとめると以下のようになる。まず、確かに柄谷の言うように、巨大な帝国の軛の下にある周辺地域に存在したミール共同体には、自律して独立した個人の存在を可能にするような原遊動性の記憶なるものはもはや(あるいはあらかじめ?)存在してはいなかった(解釈その1。柄谷)そしてそうだったからこそ、たとえこのミール共同体の未開性に依拠しながら、資本主義という歴史段階を飛び越えて、一挙に先進的な共産主義社会の到来を企てようとしても(解釈その2。ロシア革命への展望)、ただ単に国家権力を限りなく肥大化させたり、個人の自律性や独立性が未成立なままの状態をさらに悪化させていくことしかできなかった。あとには、潰え去った共産主義革命の夢の残骸や瓦礫がただ残されるだけだったのである。一方、マルクスの手紙にうちに彼のエコロジカルな立場の到達点を見ようとした現在有力な解釈は、ミール共同体のうちに、資本主義の暴走によって生じた物質代謝を修復させるためのモデルを読み取ったのだが(解釈その3。エコロジカルな立場)、現実のミール共同体に相当するものにはもはや昔日の面影など存在していなかったという、肝心の事実を視野の外に置いたままなのだった。現代ではそうした共同体の多くは、歴史の瓦礫の山と汚染物質に取り囲まれるようになって、すでに根こそぎの状態にされていたのである。従って実際には、歴史の瓦礫の山に対する追想の作業と、汚染物質と共存するための努力とを相互依存の関係にさせ、その依存関係を強化していかなければ自由と平等は確実なものにはならず、また同時に、物質循環の修復も実現されないままになるのだった。

つまり、自律して独立した個人が未成立、あるいは解体したままの状態(解釈その1)のもとで、未開性を通して先進性を達成させるという企て(解釈その2)を性急に行った結果、そこには歴史の瓦礫の山が積み重ねられ、さらには汚染物質も蔓延するようになってしまったのだが、しかし、そうした瓦礫の山を前にしての追想作業と、蔓延した汚染物質との共存を相互に依存させ、この依存関係を確固なものにしていくことによって初めて、自由と平等と、物質循環の修復(解釈その3)とを同時に実現できるようになるのである。

上述の三つの解釈の相互関連からは、さらに次のような重要な事柄も浮かび上がってくる。柄谷は、自律して独立した個を可能にさせる原遊動性の痕跡が残る亜周辺地域では、その原遊動性から交換様式Dが到来することを通じて、未開性によって先進性を実現するという、近代の超克の論理が成功裡に作動すると考えていた。そのため、遊動民的な未開性に基づいた国家や資本に対抗する運動が、そこから立ち上がることができたわけだ。それでは、強大帝国の専制的な統治によって、その原理遊動性の痕跡がほぼ一掃されてしまったとされる、単なる周辺地域では、交換様式Dが到来することなどなかったのだろうか。決してそうではないだろう。ザスーリチ宛の手紙に対する三つの解釈の相互関連を論じた際には、周辺地域ではいったん近代の超克の論理の作動が失敗することを確認したのだが、そこで重要だったのは、歴史の瓦礫の山と環境を汚染する廃棄物がそのあとに残されるという点である。亜周辺と区別された周辺地域では、交換様式Dに相当する倫理的要請は、むしろ、こうした瓦礫の山や廃棄物の方から到来するのではないだろうか。いや、それらから到来するというよりは、逆に瓦礫や廃棄物の方が一種の依り代となって、交換様式Dに相当するものをどこかから召喚くるのかもしれない。この問題については、次の章で詳しく検討してみることにしたい*14

*加筆・訂正のうえ2022年1月18日に再アップしました。

後篇に続く。

*1:ただし、万物にアニマが存在するというこうした想定は、「アニミズム」というよりは「唯心論」と言った方が誤解が少ないのかもしれないが、今はこの問題には立ち入らない。

*2:また柄谷は、観念的・霊的な力が立ち上がるのは、人間と人間の交換からだけであって、人間と自然の交通からは純粋に物質的な力しか生じないはずだとも述べていた。だがこうした見方も、交換様式Cの普及によって、アニマが想定される範囲が同類の人間だけに縮減されることによって初めて生じた、事後的で派生的なものに過ぎないだろう。そもそも人間と自然の関係を単に物質的なものとしてしか考えることができなかったのは、もっぱらそれを生産関係としてしか捉えていなかったからだと思われる。どうも柄谷は、生産様式と交換様式のどちらを優先させるべきかという問題設定に囚われてしまったために、生産関係以外の人間と自然との関係を充分に視野のうちに収めることができなかったようだ。この問題については、後篇の「第Ⅷ章 交換と交通の差異」で改めて触れたい。

*3:個の独立性や自律性を欠いた単なる閉鎖的な互酬性と、そうしたものが伴う開かれた互酬性とを区別するのは、そこに負債(貸し借りの関係)が存在するか否かという違いに求められるだろう。D・グレーバーの『負債論』(以文社、2016年)に従えば明らかにそうなるのだが、不思議なことに『力と交換様式』では彼の負債論にはまったく触れられていなかった。
 なおグレーバー自身は、定住以前の狩猟採集民は自由で平等な社会を実現していたという、彼の師であるM・サーリンズの考え方を強く批判していた。この点は重要である。なぜなら、柄谷自身も明らかに同様の考え方に依拠していると言えるからだ。グレーバーはこうした考え方は、社会の解放というものを、人類が定住以前の無垢な状態を何らかの仕方で回復することと同一視してしまう、ルソー的な原始主義に過ぎなかったと見なして切り捨てていく。それに対して彼自身は、アルカイックな社会の部族集団は、季節によってまったく別の社会構造に従い、それを周期的に交替させていたという事実の方をむしろ強調するのだった。同一の部族集団が、成員同士が自由で対等な関係を結ぶことができる状態と、それとは対照的な、位階秩序を形成して特定の権威にすべての成員が服従する状態との間を、季節ごとに周期的に行き来していたというのが、アルカイックな社会の実態だったからである。それゆえグレーバーは、この事実を踏まえて、抑圧的な社会からの解放は、原初の無垢な状態を何らかのかたちで回復させることによってではなく、以上のような周期的な交替のリズムに従うことによって実現されるはずだと、どうやら考えているようだ。彼のルソー的な原始主義に対する批判については、片岡大右のこちらの文章を参照。

*4:ただしテオーシスの教説は、現実には、過酷な圧政を敷く専制君主の存在(まさに交換様式Bの権化)を「神の代理人」として正当化する役割を絶えず引き受けさせられてきたのだが。

*5:議論の多い「古代末期」という新たな時代区分は、もともとP・ブラウンが、M・フーコー霊性論などの影響を受けながら、地中海地域でのそうした変容を跡づけるために導入したものである。

*6:亜周辺地域では、交換様式Bの束縛から自由になって交換様式Cが全面的に展開することができたと同時に、交換様式Aが残存し続けてもいたわけだ。この二重性こそが、亜周辺地域に交換様式Dが到来する根拠とされたわけなのだが、それはまた同時に、亜周辺地域でしか、個の自立性と平等とは充分に実現されることはないということの根拠ともされていた。実は後者の点に関しても、柄谷の議論には曖昧なままな点が多い。交換様式C(市場経済における等価交換)が全面化すると、負債や負い目の存在によって贈与交換を続けるよう強要していた、交換様式Aの世界から人びとは解放され、自律した個として生きることができる可能性が初めて与えられるようになる。しかし実際には、交換様式Cが人々に求める、過酷な競争への参加を今度は強要されることになり、全面化した交換様式Cに新たに隷属することにしかならないのだった。ところが亜周辺地域では、個の自由と平等が充分に実現されていた、原遊動民の記憶が例外的に残存していたために、その記憶に依拠して、交換様式Cがもたらした新たな隷属状態に対して改めて抵抗することが可能であり、そのため引き続き自由と平等の実現を追求していくことができるとされたのだった。
 ここで当然問題になるのは、交換様式Cの全面化によって新たな可能になった個の自由と平等と、交換様式Aのうちに、原遊動民の記憶として残存していた個の自由と平等とは実際にはどのように異なり、また両者はそもそもどのように関係するのかという点である。特に、国家と資本への対抗運動が立ち上がるためには、交換様式Cが可能にした個の自由と平等と、交換様式Aのうちに残存していたそれらとのうち、いったいどちらの方が重要になり、もしくは主導権を握るべきなのか、という点の解明が大きな課題になるはずだ。もちろんこれらの問題に対する唯一の正解は存在せず、またそうだったからこそ、新たに交換様式Dが唐突に到来するたびに、人間の側でその都度解答を模索していくしかないのだろう。しかし、この二種類の個の自由と平等との間の違いや、両者の関係についてある程度事前に見通しを立てることができなければ、交換様式Dについての柄谷の教説を意味あるものとして受け取ることができなくなるのも、また確かなことだと思われる。
 たとえば山田広昭はその著書『可能なるアナキズム』(インスクリプト、2020年)で、交換様式Dが求める個の自由と平等の実現には、交換様式Cの全面化(=資本主義社会の成立)が必要不可欠であり、それこそが自由で自律した個人の「下部構造」になるとまでいったん断言しながらも(176‐7頁)、柄谷が『遊動論』(文春新書、2014年)で展開した議論を新たに知るに及んで、その断言を再び棚上げするに到っていた(246‐7頁)。柄谷はまさにそこで、定住以前の原遊動民のライフスタイル(共同寄託など)のうちにこそ、交換様式Dの到来の根拠が存在すると初めて主張したのだった。このように交換様式Dの到来をめぐって展開された柄谷の議論は、喚起性が強いために多くの人々を分析へと誘うことになるのだが、しかしいざ分析し始めると、理論的な整合性を維持するのが大変困難になるというのが実情である。

*7:また『世界史の構造』というタイトルは、明らかに高山岩男『世界史の哲学』を意識してつけられたものなのだが、この問題については今回は触れないままでおく。菅原もこの点については特に掘り下げることもなく、高山の議論は、柄谷も依拠しているI・ウォーラーステイン世界システム論に相通じるところがあると、ただ簡単に指摘していただけだった。

*8:日本列島の地理的な特殊性によって革命の可能性を担保しようとするのは、往年の岩田弘の「世界資本主義の最も弱い環」の議論を髣髴とさせてならない。彼もまた、日本列島の地理的な辺境性を、資本主義体制にとっての外部性に重ね合わせることによって、そこに革命の可能性を見て取ろうとしていたのだから。さらに言えば、柄谷は宇野学派の鈴木鴻一郎からの影響を隠さなかったにもかかわらず、その理論的な好敵手だった岩田弘の名前にはまったく言及していなかった。この点は正直言って疑問である。そもそも岩田こそ、一国経済をモデルとしていた当時の宇野学派の主流派に対して、資本主義経済は常にその外部との関係によって規定されるはずだと反論し、(現在のグローバル資本主義論の先駆けとなる)世界資本主義論を唱え始めたのだったのだから。まさに彼こそ、一国経済を前提とした「生産」という観点から、外部との関係を常に踏まえた「交換」という観点への転換を最初に行なった者だったと言えないだろうか。また晩年の岩田弘は、資本主義体制にとっての外部性を重視する観点をさらに徹底させるかたちで、「プロレタリア革命」を重視する立場から、前近代的な農民共同体に基づいた「コミューン革命」を重視する立場へと大きく移行しもした。こうした立場の移行の背景にあったものについては、註(10)で改めて簡単に触れたい。

*9:なお、『世界史の構造』と『力と交換様式』との間に出版された『帝国の構造』(青土社、2014年)には「亜周辺としての日本」という章があり(第7章)、そこでは、日本が亜周辺に位置することによって生じた特徴が集中的に論じられていたのだが、しかしその特徴は決してポジティヴなものではなかった。たとえば「美的、直観的、断片的で」世界に通じる普遍性を持たないという日本文学の欠点が、中心を形成する帝国にとっての亜周辺性から由来すると、単に見なされていただけである。また、普遍的で倫理的な理念(憲法9条に刻印された、カント的な「永遠平和の理念」)の実現は、むしろ(単なる帝国主義とは異なった)「帝国」的なものの高次元での回復によって可能になると考えられていた。『帝国の構造』における、交換様式Bが優勢な状態にある「帝国」的なものに対する肯定的評価と、『力と交換様式』における、それに対する否定的評価との間に見られた大きなズレに関しては、残念ながら今は詳しく立ち入ることはできない。ただし、後篇の「ⅩⅣ 補遺」の章では暫定的に少し触れておいた。

*10:また晩年の岩田弘の、プロレタリア革命重視からコミューン革命重視への立場の大きな変更も同様だったと思われる。

*11:また、ロシア革命は途中で裏切られたという見方やスターリン批判に根拠を与えてきた、トロツキーの永続革命論も、国家権力に依拠した革命を志向し続けた点で同じ穴のムジナであり、従ってこの点ではレーニントロツキーは区別できないとも論じていた。とはいえトロツキーの永続革命論に対する批判は、絓秀実がその著書『革命的な、あまりにも革命的な』(作品社、2003年)で行なった、次のような指摘の方がより正鵠を射っていたと思われる。革命を永続させるという決意や意志を強化することを通してスターリン批判を遂行すると、歴史を自らの決意や意志に依拠して創造するというスターリン的主体を回帰させてしまい、かえってそのウルトラ主体性を亢進させていくことになる。すると暴力の行使も、そうした決意や意志を確認して主体性を鍛える機会として、なし崩し的に(対抗暴力の次元を超えて)どこまでも肯定されてしまうのだった。つまりトロツキーの永続革命論は、主体性の強調が暴力を呼び込んではそれを正当化していくという構図にはまり込んでしまい、そこから外に出ることができなくなるのだ。

*12:ちなみに柄谷のロシア革命に対する否定的評価は、上山春平が1959年にまさに梅棹の生態史観に依拠しながら述べた、次のような見解をほぼそのまま踏襲していたと言える。「マルクス主義は、梅棹氏の言う『第一地域』[=イギリス]で発生し、本来『第一地域』の社会を前提にしてつくられた社会主義革命のプランをふくむものであったが、そのプランがレーニンスターリンによって『第二地域』[=ロシア]型の社会に適する形につくりかえられ、そうした『第二地域』型の改造プランが、こんどは逆に、『第一領域』の社会における革命プランのモデルとして採用されるようになった。もし梅棹的多系発展説の仮説が正しいならば、こうしたプランを受け入れるにあたっては、『第一領域』型への組みかえが必要であったはずである。しかし、それはなされないで、ほぼ、鵜呑みにされてしまった」(「歴史観の模索」、『思想の科学』第1号、1959年。菅原潤『京都学派』、210‐211頁より孫引き)。

*13:なお、以上のような捉え方は、トラウマ的な経験によっていったん損なわれてしまったものを、それが損なわれたままの状態のうえに(この状態を受け入れるためには、当然喪、追悼のプロセスを完遂させなければならないのだが、実際にはそれは中々難しい)、あとから改めて違う仕方で構築してつけ足していくというトラウマ治療のやり方を(それは、陶磁器の破損部分に上から金を塗って従来とは違う趣をかもし出せるようにする、いわゆる「金継ぎ」になぞらえられる場合が多い)、歴史解釈に機械的に当てはめただけのものである。

*14:なお、ここで自分は亜周辺地域ではなくむしろ周辺地域にこそ交換様式Dが到来すると主張したことになるわけだが、それでは柄谷自身は、交換様式Dに相当するものは、亜周辺地域以外にはまったく到来しないと見なしていたのだろうか。実はそうではなかったからむしろ問題を難しくしていたのだった。『世界史の構造』と『力と交換様式』の間に出版された『帝国の構造』では、交換様式Dは、むしろ帝国の「中心」でこそ、帝国によって可能にされながらもその存在を根底から否定しようとしてやまない、「普遍宗教」のかたちを取って到来すると強調されていた。現実の世界帝国によってある程度可能にされていた、様々な民族や宗教の多元的な共存をより完全なものにするという意味で、それは「帝国」的なものの、高次元での回復に等しいと見なされていたのだった。交換様式Dが到来すれば、共存を可能にしていた秩序からいっさいの暴力や強制が取り除かれ、また、様々な民族や宗教の間で一切の位階秩序(優劣関係や支配‐被支配の関係)が存在しないようになるのだろう。すでに註(9)で指摘したように、交換様式Dと、「中心」地域との強い結びつきを強調したこうした『帝国の構造』の立場と、「亜周辺」とされる地域にこそ交換様式Dは到来すると強調した、『力と交換様式』の立場との間の大きな断絶が問題になるのだったが、むしろ「周辺」地域にこそ交換様式Dは到来すると見なした自分の立場は、このいずれの立場とも異なり、それらとは明確に対立することになる。ここでは、取りあえずこの点だけは確認しておきたい。