メモⅫ:ナラティブかシステムか
深化したポストトゥルース状況の中心が陰謀論(物語レヴェル)ではなくゲーミフィケーション(システムレヴェル)にあると考えると、いま関東一帯で騒がれている「闇バイト」なども「暇ゲート」と同時代的な現象なのだと考える余地が生まれてくるように思う。
— 仲山ひふみ Hifumi NAKAYAMA (@sensualempire) 2023年1月24日
ありがとうございます。ナラティブというよりも、それが乗っかるシステムが問題だというのは鮮やかな整理だと思います。SNSがリアクションの快楽に依存させるゲーム的な設計になっていることが促した問題だとぼくは思います。だから、右も左も理性なきファシズム状態になりますよね https://t.co/q7DQx7byQz
— 藤田直哉@『ゲームが教える世界の論点』『新海誠論』 (@naoya_fujita) 2023年1月25日
ナラティブ視点で考えるよりもシステム(アーキテクチャ)視点で考える方が有効だと述べて意気投合するのは、やはりこの二人が東浩紀の弟子筋にあたるからなのだろうか。確かに自分も、最近の人文界隈でのナラティブ重視の傾向にはゲンナリさせられている口だったから、この意気投合には一定共感できる。とは言ってもそれは、自分が発達性トラウマ障碍の当事者として、ナラティブ・アプローチ的な治療法がまったく効かず、そのためにナラティブ・アプローチ的なものに対する不信感を強く持つようになったという面が多分に強かったからなのだが。そもそもナラティブ重視の視点に立つと、どうしても、集団的アイデンティティを形成してエンパワーしさえすればいいんだという発想しかできなくなってしまい、それより先にまったく進めないままになるのだった…。じゃあそれでは、システム・アプローチを選択しさえすればよいのかと言えば、単純にそうとも言えないからまた困ってしまうのだが…
だいたいシステム・アプローチを選択した者は、
ゲーミフィケーションは、良い方向で使えば、世界を良くできると思います。たとえばSDGsを達成する集団ゲームをやったり、人類絶滅に向かう環境危機や第三次世界大戦をラスボスとして集団で攻略しエピックウィンや集団的な帰属感を得る方向とかあると思うんですけどね https://t.co/u6qOMlGqL2
— 藤田直哉@『ゲームが教える世界の論点』『新海誠論』 (@naoya_fujita) 2023年1月23日
「政治のゲーム化に対してゲームの政治化で対抗する」が私の基本的姿勢なので,世界がゲーム化されることを嘆くのではなく,みんなでゲーム開発者になろうというのが私の回答です.
— Shinji R. Yamane (@shinjiyamane) 2021年5月9日
というように、人びとの行動を規制、誘導するシステム(ゲーム、アーキテクチャ)の設計(=デザイン)次第で何とかなるという、デザイン(意匠+設計)万能の発想に陥ってしまいがちだ。正直言って、デザイン次第で何とかなるというこうした発想ほど、この世で傲慢なものはないのではないだろうか。感性重視の美学的発想と設計重視の工学的発想とが一体化した、文理融合的なデザイン思考って、しょせん、不遜な人間中心主義の現代版でしかないと思えてならないのだが(単なる人文系特有の偏見でしかないのかもしれないが…)。たとえば、最近それこそ不遜な発言をしてしまって叩かれている成田某も、典型的なこの種のデザイン的な発想の唱道者だったわけだし…
一方、お前の発言はナラティブとして問題があると糾弾して、より良心的というか正義にかなったナラティブを対置する、ナラティブ・アプローチ的な対応の仕方もやはり限界があるように思えてならない。それではいくら糾弾の度合いを強めても、結局、互いに並立するどちらのナラティブを選ぶのかという、恣意的な選択の問題から一歩も先に進むことができないままになるからだ。ナラティブの対立を前にした者は、単に、自分がピンと来て共感する方のナラティブを選ぶことしかできず、またその結果、自分が選んだナラティブをしきりに問題視しては糾弾してやまない、対立する側のナラティブへの感情的・生理的反発を否応なく刻印されることにしかならないのではないだろうか。
そう言えば、その成田某は柄谷行人のNAM出身者だったそうだが、まさにNAMの頃の柄谷こそ、自分が発明、設計したシステムで物事を運用すれば絶対にすべてがうまくいくという、デザイン的な発想特有の万能感に囚われていたのではないか(こんな安易な決めつけをすると、NAMに深く関わった者たちから、それは違う、そんな単純な話ではないと反論されそうだが…)。少しいじわるな見方をすれば、成田某は、NAMの頃のこの柄谷の万能感だけを受け継いでしまったのかもしれない。それに対して柄谷自身の方は、NAM解散後は、ナラティブ重視の立場に大きく転回したのだと捉えることができる。『世界史の構造』以降、唯物史観というまさにグランド・ナラティブを、交換様式の観点から読み替えるという作業に着手し始めたわけなのだから。そして『力と交換様式』で提出された、次のような教説もまた、一種の新たなナラティブだったと言えるだろう。いわく、アルカイックなものの高次元での回復である交換様式Dは、人間の意志や努力で実現できるようなものではなく、ただその到来を一方的に待望し続けるしかないものなのだと。しかし正直言って、このナラティブは、極めて特定の人々にしか向けられていなかったものに思えてならなかった。実際のところは、果たしてどうだったのだろう? まず、交換様式Dとは、アルカイックなものの高次元での回復であると見なして、あからさまに疎外論的な発想をしていた。またさらに、それはいつか必ず到来するはずだから、ただ期待して待ち続けていさえすればよいと強調して、根拠の乏しい革命待望を全面的に肯定もしていた。――う~んこれって、もしかしたら、ジブリとか吉本隆明が大好きな団塊世代のなんリベの人たちへの、単なる最後の贈り物でしかないのでは? しょせんそれ以上の意味は持ちえないのでは? ――いやいや、これ以上言うと世代間対立をいたずらに煽ることになるだけだから、『力と交換様式』への疑問点の指摘はもう控えたい。
思わず話がそれてしまったが、いずれにせよ、ナラティブ(ディスクール)視点とシステム(デザイン)視点との間の対立は、確かに現代のウェブ空間における(ウェブの上部構造に定位する)観念論と(ウェブの下部構造に定位する)唯物論との間の対立に相当すると言えるだろう。とは言っても、もちろん、単純にどちらかの視点に立ちさえすればよいわけではなく(結局それでは、エンパワーするためにひたすら多数派の形成にいそしみ続けるか、あるいは、常に設計者の立場に立ち続けて、社会をコントロールできるエリートとしての万能感に溺れていくことになるのかの、どちらかにしかならないと思われる)、ウェブ空間の外部に存在する社会的現実(=閉じたウェブ空間にとってはカント的な叡智界に相当)と積極的に関わることを通して、ナラティブとシステムというこの二つの次元の関係を俯瞰したり統御していくことができるような、統制的な理念を明示していく作業こそが大切になるのだと思う。そして同時に、この理念というものは、決してナラティブともシステムともまったく無縁な純粋な第三者であることはできず(それに依拠しさえすればメタ視点に立つことができるとされる、純粋に中立的な第三者というものが可能だと主張するのは、自称中立を唱えるいかがわしい者たちだけだろう)、常にナラティブの視点の側とシステムの視点の側との双方から、ウェブ世界の外部と自らとの関係を絶えず吟味する作業を介して、事後的に析出されてくるようなものでしかあり得ないという事実の方も重要である。つまり、外部の社会的現実と関係することによって二つの次元を俯瞰して統御しようとする理念は、絶えずナラティブよりのものか、システムよりのものかのどちらかにならざるを得ず、また従って、その双方が並び立ち、いつまでも拮抗したままになるのだろう。多分、こうした拮抗状態の只中にあくまでい続けるように努めることこそが、本来私たちが目指すべきものなのではないだろうか。