外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

〈反〉〈脱〉〈非〉〈卒〉

現在、〈非〉(無関連化・切断操作)というスタンスを重視する者たちの間では、システムを否定しようとする〈反〉というスタンス(解体、拒絶)が持っていたポテンシャリティを一番継承できるものこそが〈非〉というスタンスだという見方と(おもに運動系)*1、いやそうではなく、〈非〉というスタンスは、システムが強要するものの見方から自由に距離を取ることを可能にする、〈脱〉というスタンス(出し抜き、掘り崩し、骨抜き化)が帯びていたアティテュードを一番継承できるものなのだという見方とが(おもに批評系)、互いにせめぎ合っている*2

それに対して自分の立場は、〈非〉というスタンスと〈卒〉というそれ(無関連化ならぬ無関心化、出し抜き化ならぬ手放し化)との間の違いや対立に拘泥しながら、実は〈卒〉というスタンスこそ、〈反〉というスタンスが持っていたシステムを否定するポテンシャリティと、〈脱〉というスタンスが持っていた、システムから距離を取るアティテュードを一番継承できるものだ、というものである。これからこのことを詳しく裏づけていく必要がある。

ちなみに〈反〉というスタンスは、システムを正面から否定することによってシステムの外部に出ようとする試みのことであり、他方〈脱〉というスタンスは、システムの内部に留まったまま、そのシステム自体の効力を骨抜きにできる自らの肯定性(力の過剰性)に依拠することによって内破の運動を生じさせ、何とかシステムを内側から消滅させていこうとする試みのことである(ネグリ=ハートのマルチチュード論などがその典型)。また〈非〉というスタンスは、いっきにシステムとの関係を切断、無関連化できるような自らの肯定性(意味や言葉の世界から取り残された残余享楽の執拗さ、除去不能性)に依拠することによって、システムの外部に一挙に脱出しようとする試みのことである。他方〈卒〉というスタンスは、システムの内部に留まったまま、システムからの要求に反応したり、システムに依存することをこちら側から否定し(無関心化)、そうすることによってシステムの機能を停止にもたらそうとする試みのことである。

*1:特にティクーン派の日本における受容において。

*2:なおA・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』に関して言えば、それは、今更ながらに〈脱〉というスタンスが〈反〉というスタンスの継承者だった点ををただ確認しただけのものに過ぎなかったのではないか。この本がわれわれに突きつける、つながりか切断(による破壊)か?という二者択一は、一応〈非〉というスタンス特有の問題構制に属してはいるのだが。