外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅡ

ラトゥールの思想と統治功利主義

ラトゥールの思想(ANT理論や存在様態論)からすれば、リベラリズム行動経済学進化心理学との間の関係を考える際に、市民的公共性による統御と、アーキテクチャやナッジを駆使する統治功利主義との間の対立を設定してしまうのは、あまりも抽象的というか観念論的でしかないことになるだろう。市民的公共性によって統治功利主義の暴走を統御する、逆に市民公共性が統治功利主義の暴走に屈服する、あるいは、市民的公共性による統御と効率的統治との間の区別が不分明になる――これらの見方はいずれも、市民的公共性という社会の次元と、アーキテクチャやナッジによる効率的統治という科学技術の次元とを明確に区別できる、あるいはその区別を維持しなければならないという極めて近代的な発想を前提としたままであるからだ。ラトゥールからすれば、市民的公共性による統御か/行動経済学進化心理学などの自然科学的知や、アーキテクチャやナッジなどの科学技術に基づいた効率的統治か、などという問題設定は、狭隘な近代的な発想を前提としない限りリアリティを持ち得ない、一種の疑似問題に過ぎないのではないだろうか。

それゆえ、ラトゥールの思想を用いながら、市民的公共性か統治功利主義かという問題設定を内側からいわば唯物論的に掘り崩していく必要性が出てくるだろう。そして市民的公共性のように、統治の効率性に外側から制限や制約をかける原理ではなく、内側からそれに抵抗していくような別の原理を打ち立てていくべきなのではないか。その原理は、非人間的なものに取り囲まれ、それに依存せざるを得ないような人間的主体の、或る種の〈有限性〉になると思われる。とはいえそれは、行動経済学が強調してやまない(除去不可能な私たちの認知バイアスをもたらす)「限定合理性」のような、簡単に効率的な統治に絡め取られてしまうような有限性であってはならないだろう。かと言って左派の加速主義が期待するような、科学技術との一体化によって生じる、非人間的なものへの大胆で過剰な「生成変化」とも大きく異なるものになる筈だ。統治功利主義に抵抗できる主体の有限性とは、むしろ、人間的主体とそれが息づく周囲世界が共に緩やかに〈腐蝕〉し(ハラウェイ)、〈荒廃〉し(モートン)、〈分解〉していく(藤原辰史)過程になるのではないか(この過程の果てにやってくるのは、かの〈停止〉や〈静止〉ということになるのだろうが)。もちろん、そうした過程の積極的な肯定・受容は、おもにグローバルな気候変動に人間が対応していくための試みとして模索されてきたのだが、しかし同時に、効率的統治への応接の仕方としても改めて受けとめ直していくことができるかもしれない。とは言っても、気候変動の問題こそが統治功利主義の実践によって解決されるという新たな展望が出てくるならば(そうした展望が出てくる可能性はかなり高い)、また状況は大きく変わってしまうだろうから、再び一から考え直さなければならなくなるのだが。