外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅪ:共産主義者であるということ

確かに歴史上の共産主義(プロレタリア)革命は失敗したのだろう。しかしその失敗は唯一無二で意義深いものであったから、その意義深さを手放さなずに忘れないためにこそ、自分は共産主義者であり続けていると言える。

共産主義革命の失敗が意義深かったのは、その失敗が2重、いや3重になっていたからだ。

まず最初の失敗とは、自由を求めたら全面的なテロルを呼び寄せてしまった、あるいは、民主主義の徹底を求めたら際限のない独裁を実現させてしまった、もしくは、平和を求めたら悲惨な戦争を勃発させてしまった、といったたぐいの、最善のものを求めて最悪のものをおびき寄せてしまうという、ヘーゲル的な逆説の実現のことである。

また2つ目の失敗とは、このヘーゲル的な逆説の実現を何とか回避するために、最初から敢えて最悪のものを引き寄せることを通して、当の最悪のものをいわば内側からいっきに克服しようとした、それ自体が逆説的なものであるレーニン的な企ての挫折のことである。国家を死滅させるために国家権力を敢えて奪取して自分たちで独占する、あるいは地上からあらゆる独裁をなくすために、プロレタリア独裁という、最強の独裁を敢えて実践する、もしくは、民主主義を徹底して実現するために、民主主義が不十分で根づいていないままの状態で、民主主義の完全な実現を可能にするとされる共産主義革命を、敢えて民主主義革命を経ないままで一足飛びに決行する、などというものがレーニン的な企てに相当する。

こうした、毒をもって毒を制しようとしていたレーニン的な企ては、常にミイラ取りがミイラになってしまう危険性と隣り合わせだったのだが、残念ながら、その危険性は歴史上現実のものとなってしまった。国家を死滅させるための国家権力の独占は、単に国家権力の肥大と暴走しかもたらさなかったからだ。また、地上からあらゆる独裁をなくすためのプロレタリア独裁も、単なる際限のない独裁体制しか生み出すことができなかったのであり、さらには、民主主義が根づいていないまま、その民主主義を下から支えるはずの共産主義を実現させようとした企ても、ただ単に、民主主義を根づかせることをより困難にし、民主主義を軽蔑してやまない従来からの風潮を、一層強化してしまっただけなのだった。

そして3つ目の失敗とは、以上のようなレーニン的な企ての失敗を何とか糊塗しようと試みていた、ソビエト体制のなかを生きてきた人々の努力の挫折である。

毒をもって毒を制するという、レーニン的な企てが持っていた逆説は、ソビエト体制のなかでは、抑圧的で非民主的な体制を正当化するための単なる建前、言い訳にいつの間にか変質してしまっていた。ソビエト体制のなかを生きていた人々は、当然この皮肉な事態をよく理解していた。国家権力を独占してそれをひたすら肥大化させていったり、あるいは、際限のない独裁を躊躇なく実行したり、もしくは、民主主義を根づかせないままにしていた方が、混乱した事態の収拾が容易になり、また統治の過酷化も滞りなく押し進めていくことができたわけだ。それゆえ、レーニン的な企てに常につきまとっていた、高尚でもっともらしかった逆説も、実は、すべてこうしたことを正当化するための単なる言い訳でしかないのだった。あるいは、それらのことをあからさまに進めないように取り繕うための、ただの絵に描いた餅以上のものではなかった、空虚なスローガンと化していたのである。

ソビエト体制下では、この種の言い訳やスローガンを人々は実際にはもはや信じていなかったにもかかわらず、相変わらず信じているふりをし続けなければならないのだった。これでは当然、ひたすらシニカルになっていかざるを得なくなる。しかしこうした状況の下でも、というより、むしろこうした状況が生じてしまったからこそ、ただの建前や言い訳、単なる絵に描いた餅のスローガンと化してしまった内容を、何とか生真面目に実際に現実化しようと努め始めた者たちも、少なからず存在していたのだった。すでにプロレタリア革命が挙行されたことになっている以上、そうした努力をし始めなければ、当のその革命を裏切ってしまうことになるからだ。これでは、ソビエト市民としてのアイデンティティが揺るがされることになる。このように思い始めて、ただの言い訳や絵に描いた餅でしかなかったレーニン的な企てを、実際に現実のものにしようと努め続けた者は、体制側にも反体制側にも、それ相応に存在していたはずである。こうした者たちの存在を、非民主的で抑圧的なものと化していた、ソビエト体制の現状をただそのまま肯定したり、あるいは逆に、ソビエト体制そのものを否定して、西側の体制の実現をひたすら求めた者たちとからは、明確に区別していく必要があるだろう。

毒への依存を断ち切れないまま、無理やりその依存を否定しようとすると、かえって当の依存状態を強めてしまう(ヘーゲル的逆説)。そこで次に、毒への依存を断ち切れない事実を素直に認めたうえで、毒をもって毒を制することを期待しながら、逆療法的に、毒への依存を意識的に強めていくことによって、その依存状態からいっきに抜け出そうと試みたわけだ(レーニン的な逆説的企て)。しかしこうした企ては、実際には、ただ単に、既存の毒への依存状態を正当化するための口実として利用されただけなのだった。その結果、毒をもって毒を制しようとしているのだとひたすら言い訳しながら、えんえんと毒に依存し続けているだけの状態に陥ることになる(レーニン的な企ての失敗からもたらされた、抑圧的なソビエト体制の成立)。そして、これではマズいと思った者たちが、毒に依存し続ける状態の只中で、何とかその毒の使い方を、毒をもって毒を制することができるようなものへと、実際に変えていこうと改めて努め始めたのだった。しかしこの努力自体も、ソビエト体制自体の消滅によって、何も実を結ばないまま途絶してしまったのである(ソビエト体制を、レーニン的な企てに則ったものにしようとした努力の失敗)。

しかしそれにしても、この最後の第3の失敗はまったく無駄なものだったのだろうか。いや、決してそんなことはなかったと思う。なぜならその失敗は、私たちに次のようなことを初めて教えてくれたのだから。

――毒(暴力、専制、独裁、戦争etc…)への依存を無理やり断ち切ることはできなかったから、人は、毒をもって毒を制しようとする逆説な企てを選択するしかなかった。だがその企ては、すぐに、単に既存の毒への依存を強化するだけのものへと変質して堕落してしまう。しかし、毒への依存から脱するための、毒をもって毒を制しようとする企ては、こうした変質して堕落した状態のなかから、改めて打ち立て直していくこと以外には道は存在していないのだった。ところが、その打ち立て直し方は、まだ誰にもわからないままである。しかし、逆にそうだったからこそ、毒への依存が強化された状態にただ居直ってしまうことはせずに、この依存状態をうまく利用しながら、毒をもって毒を制していくやり方を見出していくことが、新たな課題として私たちに突きつけられるようになったのだと言える。そしてその新たなやり方とは、従来のレーニン的な企てのような、毒への依存を逆療法的に意識的に強めていくことによって、その依存が断ち切られるときがいつか到来するのを待望するようなものではなく、逆に、毒への依存を断ち切ることができない自らの弱さや限界をいったん受け入れたうえで、改めてその依存状態の内側から、当の依存をすみやかに停止させていくようなものになるだろう*1

共産主義者であるということは、以上のような課題と展望を知っていることを意味している。

自分は、あらゆる独裁や専制、また暴力や戦争には原則として反対してやまない者であり、また、民主主義の徹底や平和の完徹をあくまで求めている者でもあるのだが、こうしたことは全て、以上のような意味での共産主義者の観点からなされているのだった。

*1:たとえば現在のウクライナ紛争において、不当な侵略に晒されているウクライナ側を軍事支援する場合でも、無闇やたらに武器を供給するのではなく、供給された武器が使用できる条件や場所、さらには使用期間などを、リミッターなどを用いて実際に物理的に厳しく制限して、必要以上の戦闘ができないように仕向けていくのが望ましい(こんなことを言うと、国際政治学者や軍事評論家からただ笑われるだけになるのだろうが)。そのようにして、たとえ武器が存在していても、いったん停戦状態が実現されたならば、もう二度と戦闘行為を再開できなくさせていくのが理想的である。国際法が、徐々に戦争を遂行できる条件を厳しくしていくことによって、最終的には戦争の遂行自体を不可能にすることを目指していたように、軍事支援の方も、武器の使用条件をひたすら厳しくしていくことによって、最終的には戦闘行為自体を不可能にすることを目指すべきだろう。一方、不当な侵略行為をしているロシアに対しては、外側から種々の制裁を科すことよりも(ただし、戦争犯罪に関するものは除く)、ロシア国内で戦争に反対している者たちや、ロシア軍内部の軍事行動の遂行を拒否したい者たちを積極的に支援して、国内の厭戦気分を強化したり、軍事行動の遂行を実際に不可能にさせる、様々な妨害行動や攪乱行為を実施することの方を優先させるべきだろう。いずれにせよ、すでに始まってしまった戦争に対しては、もはや外側からそれを止めようとしてもあまり効果はないから、何とか戦争が行われている内側に働きかけ、個々の戦闘行為の数をなるべく減らしていくような地道な努力をしていくしかないと思われる。またもちろん、こうした努力は、不当で残虐な侵略行為をしているロシア側に対しておもになされるべきであって、決してウクライナ側の正当な抵抗権の行使を妨害するようなことがあってはならないのだが。