外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

監視資本主義の勃興と政治的霊性

コロナ禍がひと段落して以降、本格的に立ち上がってくることが予想される監視資本主義。それに対して私たちはどういう仕方で抵抗していけばよいのだろうか。新たに立ち上がる監視資本主義の全貌が見えない段階では確かなことはまだ何も言えないかもしれないが、統治されないための技法を磨いてきた、ある種の不服従の伝統を新たな仕方で転用していくことが有効になることだけは確かなはずだ。本試論ではそうした伝統の候補として、フーコー小泉義之が追求してきた「政治的霊性」というものを挙げたい。政治的霊性とは、禁欲的に実践というかたちで培われてきた、西欧では特に司牧権力によって統治されないようにするための不服従の技法の伝統のことである。

フーコーによればこの伝統は、ギリシャ的な賢者の伝統と、ユダヤキリスト教的な預言者のそれとが西欧で接合したことによって生まれたものである。それは、(この現実世界を別の〔オルタナティヴな〕よりよい世界にすることによってではなく)現実世界の端的な外部に存在するとされる他の世界(他界、あの世)に接触することによって、自己自身が、この現実世界の只中で真理を体現した別の(オルタナティヴな)よりよい生を実現していくという形態を取っている。

こうした伝統が持っていた、禁欲的実践に徹する姿勢と、また、現実世界の何らかの外部(あの世、他界)に接触することによって、現実世界の中で自らの生の真理性を体現しようとする姿勢とは、監視資本主義に対して抵抗していく際に重要な拠りどころになるのではないか。それはどうしてだろうか。順番に見ていこう。

禁欲的実践

監視資本主義の装置に捕縛され統治されないようにするためには、自らの思考や言動のパターンを把握されないようにしなければならない。そうした努力の果てには、そもそも自分の思考や言動のうちにいかなるパターンも立ち上がらないようにさせるという可能性が控えている。たとえそこまで到るのは不可能だったとしても、立ち上がってきたパターンをそのつど崩していくという対処の仕方は可能だろう。また監視資本主義の装置に対して、パターンを把握するためのデータ(履歴、痕跡、気配)をこちらからいっさい提供しないようにするという応接も重要になる。私たちはすでに、ただ存在し何となく生活しているだけで様々なデータを提供するような世界に住んでいるわけだが、そのようにしておのずから生じているデータ提供を意識的に遮断していく必要がある。

以上のような、パターンを把握させない、データを提供しないという2点において、政治的霊性における禁欲的実践の伝統は大きく寄与できるのではないだろうか。従来の禁欲的実践の技法を、監視資本主義に対して対抗するものへとうまく換骨奪胎させていくことが可能なのではないだろうか。

現実世界の外部への接触による真理性の体現

一方、現実世界の外部に接触することによって真理性を体現するという姿勢は、監視資本主義に対して抵抗する際にどのように役立つのだろうか。この現実世界を唯一の所与の前提としたまま、そこでよりよい別の生のあり方を求めたり、さらにこの現実世界そのものを、よりよい別の世界に変えようと目論んだりしていると、結局は監視資本主義によって捕縛され、統治の対象にされてしまうことになる。なぜなら、よりよい生やよりよい世界を求める仕方には当然特定のパターンがあるはずだからであり、またよりよい生や世界を求めていく過程で、その過程に関わるたくさんのデータを後に残していくのは不可避だからだ。

それでは、よりよい生や世界を求めることを一切断念しなければならないのだろうか。いやそんなことはない。パターンを認識されたりデータを提供したりせずに、よりよい生や世界を求める仕方がすでに存在していたからだ。そもそも、私たちが普段一番関心を抱いているのは、この現実世界を生きている自分自身の存在と、そのあり方についてである。また自分自身の存在のあり方とは、自分と世界、他人との関係のあり方のことに他ならない。だからこそ自分の存在への関心は、必然的に現実世界それ自体のあり方や、人間関係、つまり社会そのもののあり方への関心へとシフトしていくことになる*1。監視資本主義によって捕縛、統治されないようにするためには、普段の私たちにとっては当たり前のものであった、こうした関心を遮断して作動停止していくしかないだろう。そして、まさにこのことを可能にすると思われるのが、現実世界の外部に接触することによって、真理を体現したよりよい別の生を実現していく、フーコーが捉えた西欧的な政治的霊性であるのだった。

そこでは、この現実世界の外部に存在する他の世界(あの世、他界)に接触することの方が優先されることになるから、現実世界の中での自分自身のあり方や、現実世界そのもののあり方などは二の次になり、結局はどうでもよいものになる(いわゆる超俗的な態度)。その結果、この世での自分自身の生や、この世のあり方に対する関心が遮断されてしまい、やがては停止していくことになる。フーコーは明確にそうとは断言していなかったのだが、世界の外部への接触によって体現される真理性とは、実はこの関心の遮断、作動停止以外の何ものでもないのではなかろうか *2。そして監視資本主義に対してこそ、こうした真理性が本来持っていた効力、つまり不服従を貫徹させる力を最大限に発揮できるようになるのだと思う。

――確かにそうなのかもしれない。しかしやはり、政治的霊性の伝統を監視資本主義に対する抵抗の拠りどころとするためには、それ相応の変更が必要になってくるだろう。次に、その点について少し見てみたい。

この世の生の維持、存続

これから立ち上がってくる監視資本主義は、人新世の時代における、もはや以前の状態には修復不可能な、過酷化した地球環境(気候危機)の下で作動することになる。そのため当然、過酷な環境への対応をも強いられざるを得ない。すでにある程度悪化してしまった環境にも何とか適応できるように努めるとともに、これ以上環境を悪化させないように全力を尽くすだろう。もちろん、環境破壊を引き起こしたのは今までの資本主義体制そのものに他ならなかったのだから(いわゆる「資本新世」)、そうした努力にはもちろん原理的な限界が伴う。産業資本主義による化石資源の過剰な採取がもたらした環境破壊、また金融資本主義による債務の強要がもたらした、不安定化(プレカリティ)という新たな奴隷化、そして新たな監視資本主義による、データ・マイニングの技術を駆使した、人間の(アーレント的な意味での)活動、行為に対する(まさに精神の自由や、身体が持つ潜在的な可能性まで含めた)全面的な捕縛の実現――これらの3つのものが、資本主義成立以来続いてきた本源的蓄積の絶えまない過程として、一体となって作動しているのが実態だろう。とは言いつつも新たに成立する監視資本主義は、従来の資本主義体制よりは環境破壊に対してより配慮するようになるのは、やはり確実なことだと思われる *3

従ってこの監視資本主義に捕縛されないようにするためには、それに頼ることをせずに、自然破壊が進んだ過酷な地球環境への対応や適応を自前で行っていかなければならないことになる。単純に自前で行うと言うよりは、実際には監視資本主義からの捕縛に対してその都度抵抗し、それをいちいち出し抜いていく作業をしながら、最新のテクノロジーを駆使して過酷な環境に適応し、最低限の生存を何とか確保していくしかないだろう。これは大変面倒で骨の折れる作業になるはずだ。

こうなるとフーコーが重視していた従来の西欧的な政治的霊性のあり方とは異なって、この世での自らの生にいつまでも固執というか、そこに軸足の一つを置いたままの状態を維持することになる。もちろん、この世での自らの生は、別のよりよい、真理性を体現した生でなければならないという点ではフーコーの政治的霊性とは共通していた。しかし、その真理性の中身が大きく異なってくるのだ。

フーコーにとっての生の真理性とは、この世には軸足を置かずにあの世の方に軸足を置き、そのことによって、この世の生のあり方への関心をエポケーしていくことにあった。それに対して監視資本主義に対峙する新たな政治的霊性は、この世の生にも軸足を置いて、その最低限の維持、存続に汲々とせざるを得なくなる。そのうえで初めて、監視資本主義に捕縛されない、データを提供しないという真理性を追求していくことになるのだ。またこうしたあり方は、この世自体を別のよりよい世界に変えていき、そのことを通して同時に自らの生もよりよいものに変えようとする、世俗的な次元に留まった従来の社会運動のあり方とも大きく異なってくる。この世自体(=過酷化して充分な修復が不可能になった地球環境)をよりよい別のものにしようとすることは、もはや問題にはなりようがないからだ。

いずれにせよ、従来の西欧の政治的霊性が、この世に敢えて軸足を置かないことによって、この世での生を真理性が体現された別のよりよい生へと変えようと努めていたのに対して、監視資本主義に抵抗する新たな政治的霊性は、この世にどこまでも軸足を置いたまま、この世での生を――とは言っても、この世自体をよりよい別のものへと変えていくことを特にしないまま――真理性が体現された別のよりよいものへと変えていかなければならないのだった。

関心それ自体の消去の方へ

また、監視資本主義に捕縛されないようにするためには、この世の外部に存在するとされた、あの世(他界)をストレートに追求すること自体も実は避けなければならなくなる。あの世、他の世界というものを積極的に設定すると、どうしてもそれは一定の内容や形式を獲得してしまうことになり、そうしたものを求める者たちの思考や言動もおのずから特定のパターンを帯びていくからだ。これでは、当然監視資本主義の格好の餌食になってしまう。この世界をよりよい別のものに変えようとすることも、あるいは、この世界ではなくあちらの世界の方をより真実だと見なしてそれを追い求めることも、特定のパターンを形成してしまう点では何ら変わりはない。そのため、何か特定の世界を(それがこの世界の別の形態であろうと、この世界とは他の次元にあるものだろうと)設定して追い求めること自体を断念する必要が出てくる。

さらに言えば、世界だけではなく自己の生のあり方についても、同様に断念してしまった方が望ましい。いずれにせよ監視資本主義に捕縛されないようにするためには、何か特定の状態を維持したり、よりよい別の状態の実現しようとする、世界や自己に対する関心自体を徹底的に払拭していく必要がある。関心それ自体の消去。

それでは、関心それ自体が消去された生のあり方とはいったいどのようなものになるのだろうか。この世をよりよい別の世界に変えようとしたり、より真実の世界であるあの世に到達しようとしたりせずに、あの世でもこの世でもない、いかなる場所も存在しない、空虚な中間世をただ漂い続けることを求めることになるのか(そうした中間世へと誘うのは、とりあえずは死者との関係になるだろう)。あるいはむしろ東洋的な伝統(仏教や道教など)に依拠して、自己という存在そのものを滅却、消滅させようと試みたりするのか。――確かにこれらの選択肢も一定の有効性を持つことにはなるだろう。とはいえあの世でもこの世でもない中間世での彷徨や、また自己滅却、消滅が、生が常に追い求めるべき特定のターゲットとして固定され、さらにそれらが一定の内容や形象を獲得するようになってしまえば、途端に監視資本主義によって捕縛され、その手のひらのうえで踊らされるだけになるのは確実だ。このことを防ぐためには、何か特定のターゲットを集中して追い求めるというあり方自体を何とか克服していかなければならない。

それは、人間の実存的関心の対象として自己という存在が立ち上がってくることからどうにかして逃れようとする、あるいはそうした自己の立ち上がりをいつまでもはぐらかし続けることになるのだろうか。より具体的に言うと、自己を同一のままに維持しようとする欲望からも、自己を別の状態に変化させようとする欲望からも等しく解放された状態を求めることになるのだろうか。あるいは、誰でもよい匿名の存在へと自らを敢えて貶めていこうとする、もしくは、誰でもない無名の存在にいつまでも留まろうとする努力になるのかもしれない。――確かに、自己を何か特定の状態に保ち続けることへの欲望から何とか自由になろうとする、これらの試みは皆有効なものだと言えるだろう。

そして、さらにもう一歩踏み込んで言えば、自己の特定のあり方への関心からただ自由になるだけではなく、自己の存在それ自身への関心からも自由になりさえすれば、監視資本主義から捕縛される可能性がより少なくなるのではないだろうか。すなわち、自己の存在などどうでもよい、自己など存在してもしなくてもどっちでもよいという境地の実現。――これは、自己の存在を〈任意性〉に還元していくことを意味している。

自己や世界への関心を消去するためには、以上見たように、場所なき中間世での彷徨、自己自体の滅却、自己の(同一性の維持や生成変化という)様態に対する無関心化、匿名化、無名化などという様々な戦略(生の技法)が動員されなければならないのだが、そうしたものは、さらに自己の存在の任意化という戦略に支えられていくことになるはずだ。

もちろん、単に自分の存在などどうでもよい、自分が存在しようとしなかろうとどっちでもよいなどというあり方は、通常は、過剰なストレスによって生じた自暴自棄状態や、緩慢な自殺の一種であるセルフ・ネグレクトというかたちしか取り得ないだろう。これだけでは当然、監視資本主義に対峙し、それを乗り越え廃絶していくような政治的霊性などにはなり得ない。そうなるためには、過酷な地球環境の下で、監視資本主義に捕縛されないまま、あくまで生存だけは確保していくという、もう一方の自己への配慮にしっかりと支えられていく必要がある。自分の存在などどっちもでもよい、どうでもよいという境地を実現することと、過酷化した地球環境の下でのこの世の生をあくまで維持していくこと――この2つの契機*4がうまく結びついて初めて監視資本主義に対する闘争を貫徹させていくことができるのだ。

さらなる肉付けを求めて

とはいえ、この両契機が実際にどう結びつくことになるかはまだまったく不明なままである。特に今までの議論は、監視資本主義によって捕縛されないために履歴や痕跡や気配をこの世界に残さないようにするにはどうすればよいのかという、もっぱら消極的でいわば否定神学的な関心に導かれてきたために、新たな政治的霊性の中身を具体的に描いていくことがまったくできなかった。もちろん自己への働きかけを通して、この世界で先取り的に真理を実現していくという霊性には、この世から身を退いていくという意味での否定神学的側面は常に伴うだろう。特に監視資本主義に対峙する政治的霊性の場合には、それが究極のところで求めているのは、監視資本主義による統治が廃絶された世界の到来であったのだが、そうしたものをストレートに求めてしまうと、特定のよりよい別の世界を積極的に求めている従来の世俗的な社会運動と区別がつかなくなって、途端に監視資本主義によって捕縛されてしまうことになる。それゆえ、監視資本主義の統治が廃絶された後の世界の姿に関しては、いかなる像も描いてはならないという、(アドルノ的な意味での)否定性があくまでも貫徹されなければならないのだった。

とはいっても政治的霊性の実際の中身が不明なままでは、自分の存在を存在してもしなくてもどっちでもよい任意のものに還元する契機と、過酷な地球環境の下で最低限の生存を確保する契機との間の肝心の関係がいつまでも捉えられないままになる。やはりこれは問題だ。そこで最後に、監視資本主義に対峙する政治的霊性の中身をより具体的に肉付けていく際に手がかりとなるような観点をいくつか確認していきたい。

すでに指摘したように、監視資本主義はこれから立ち上がってくるものではあるのだが、資本主義体制の1つである以上、先行の体制が行っていた本源的蓄積(収奪)を継承し、そのうえに新たな本源的蓄積(収奪)の仕方を重ね合わせていくという側面も持ち合わせていた。そのため、資本に抵抗する側も、先行の闘争の形態やそこでの経験を参考、継承していくことが必須となる。特に、資本主義を廃絶しようとして立ち上がり斃れてしまった者たちの、ベンヤミンの言う意味での「敗者たちの伝統」や、彼/彼女たちの挫折した見果てぬ夢の積み重なった「瓦礫」は、下手に動いて履歴や痕跡や気配を残さないようにする際の新たな重要な拠りどころとなるだろう。そのような拠点へと、敗者たちの見果てぬ夢の蓄積は改めて昇華されていくはずだ。

また監視資本主義は、強権化が著しい中国から広がり、その中国が主導していくことになるのだろうから、こうした監視資本主義を分析するために、いわゆる「アジア的なもの」(東アジア圏共通のエートス)をめぐる議論が蒸し返され、再活性化されることになるはずだ(ただしそうする際には、アジア的なものを前近代的なものと等置したかつての発想は退けられなければならないのだが)。そうなれば、監視資本主義に抵抗する側の政治的霊性のあり方についても、より踏み込んだ議論を展開していくことができるようになるだろう(その際、中国の特有の霊性の伝統が重要な参照先になるかもしれない)*5

テクノロジーへの応接

監視資本主義に対していっさい痕跡や気配を残さないという戦略は、消極的で否定神学的なものであるから、それはテクノロジーの使用を極力控えようとする、反テクノロジー的なものになると思われるかもしれない。しかし実際はまったく逆だ。テクノロジーを積極的に使用することによって何とか無反応状態を作り出して維持し、その状態によって監視資本主義の作動を空転させていくのが、この戦略の実際の形態になるだろう。新たな政治的霊性は、テクノロジーによって武装するのだ。

そしてこの武装の仕方を検討する際には、かつてアガンベンがいくつかの著作で取り上げていた、托鉢修道会の1つであるフランシスコ会での「所有」と「使用」の区別をめぐる論争が参考になるかもしれない。無所有を旨としたフランシスコ会では、修道士の最低限の生存を維持するために必要な生活物資の位置づけが大きな問題とならざるを得なかった。そうしたものを生存を確保するために使用することは、それを所有することに等しいのではないかという疑問が提出され、その疑問に対して、単なる使用は所有ではないという主張が対置されたのだった。すると所有と使用の違いとは何か、どこまでを単なる使用と見なしてどこからを所有と見なすかなどをめぐって激しい論争が始まってしまい、無所有というあり方を厳格に受け取った立場と、緩く受け取るだけにした立場とが厳しく対立することになってしまった。

この論争を踏まえたうえで言うならば、テクノロジーを使用することによって監視資本主義に捕縛されてしまうのは、そのテクノロジーをカスタマイズしたりして自分流に使いこなしていく場合になると思われる。その使い方に習熟した場合だと言ってもよい。自分流に使いこなし、自分の思い通りに使えるように習熟していくことは、そのテクノロジーを自分にとってふさわしいものにすることを意味するのだが、それが単なる使用ではなく所有、つまり自己所有に相当するだろう。すなわち、自己—固有化としての自己所有。そのようにしてテクノロジーを自分にふさわしい使い方をして所有するようになると、そのふさわしさは当然特定のパターンを帯びることになるから、すぐに監視資本主義によって把捉されてしまうことになる。このことを何とか回避するためには、いつまでも自分にふさわしい使い方をせず、自分流に使いこなさないままの状態でいる必要がある。まさにその状態を意識的に維持していくのが、テクノロジーの対抗的な使用を実現する、政治的霊性特有の禁欲的な実践になるはずだ。テクノロジーの使い方に敢えて習熟しないこと。

ところで左派の世界でテクノロジーの使用を積極的に推奨してきたのは、加速主義的な発想に基づく立場のものが多かった。たとえば、C・マラブーの言う脳や神経の可塑性の運動をテクノロジーを用いて加速させ、そのことを通じて、スピノザ主義的な自己と世界との間の区別が撤廃された境地を実現し、そこで自然や生命が本来持っていた暴力的な生成変化の運動を全面展開させていこうとする立場が存在している*6。確かに、こうした生成変化の運動が実際に立ち上がれば、監視資本主義による統治など跳ねのけることができるかもしれない。しかしそうなる前に、可塑性の加速化や生成変化の運動の全面展開を求める者たちは、まさにそのようなあり方を求めるパターンや性向を持っている者たちとして、立ちどころに資本によって把捉されてしまうのがオチなのではないだろうか。

――以上の極めて不十分な試論は、元々ポスト構造主義のうちにあった、万物の生成変化に対するニーチェ主義的で唯物論的な肯定という契機と、倫理的発作に基づいた(ユダヤ的な色彩の濃い)否定神学の実践という契機のうちの、後者の契機の意義を改めて問い直そうとしたものだと言える*7。確かに金融資本主義への対抗戦略としては、前者のニーチェ主義的な契機の方が有効で意味のあるものだったのかもしれないが、これから勃興してくる監視資本主義に対しては、もしかしたら後者の否定神学的契機の方が有効で意味のあるものになるかもしれない。

参考文献:小泉義之ドゥルーズ霊性:恩寵の光としての自然の光」、「フーコー霊性:真の生と真の世界、あるいは蜂起と歴史」(いずれも小泉義之ドゥルーズ霊性河出書房新社、2019年、所収)

*1:世界や社会には包摂されない、モノ=対象=実在の増殖によって、世界とも社会とも異なる、それらのもの独自の次元が新たにせり出してきたという問題は今は置いておく。ただし、監視資本主義がまさにこの次元のうえに新たに成立していくことは確実であるのだが。

*2:一方小泉義之にとっては、世界の外部(他界)への接触によって体現される真理性は、むしろ、救済願望にどうしても伴いがちなルサンチマン的な復讐心や、黙示録的な裁きへの意志や破壊衝動が消去されていくことになるのだろうが。

*3:それゆえ今後は、環境保護に依拠して資本主義に反対しようとする戦略は成立が難しくなるのではないか。単純に環境破壊のかどで資本主義を告発することも、環境保護の立場に立って資本主義の暴走にブレーキをかけようとすることも徐々に困難になっていくだろう。また環境破壊(気候変動)の程度がすでに修復不可能なほど深刻なものになった以上、資本主義の運動の外に出て自然環境をコモンズとして尊重し直し、それが本来持っていた豊かさを享受しようとする戦略も、同じように実行困難になると思われる。なおこれと同じような問題は、すでにSDGsへの対応でも生じていたのではないか。資本の側がSDGsを推進し始めたことに対して、よく左派の側は、SDGsの推進だけでは生ぬるく、環境破壊の深刻さに充分には対処できないと批判する。しかしこの批判は、問題の核心から目を逸らす役割しか果たしていなかったのでは。資本の側が環境保護を推進し始めたのならば、単純に環境破壊のかどで資本主義体制を告発したり、環境保護の立場に立って資本主義批判を推進することはもはや困難になるだろう。むしろ左派はこちらの点の方を問題にすべきだったと思う。また、単なるSDGsの推進だけでは不十分なほどすでに環境破壊の深刻さが進んでいると主張するならば、左派自身もその深刻さと正面から向き合っていくべきだ。まだ残存している生態系をコモンズ化しさえすれば、それが本来持っていた豊かさを十全に享受できるようになって脱成長を実現できる、などという口当たりのよい主張は、下手をすれば、左派がそうした環境破壊の深刻さ、取り返しのつかなさと対峙するのを避ける際の口実として使われかねない。

*4:以前のエントリーではこの2つの契機は、それぞれ思弁性と地質学性として捉えられていた。とはいえそこではもっぱら過酷化した地球環境しか想定されていず、特に監視資本主義の方が踏まえられていたわけではなかったのだが。しかしいずれにせよ、今後人間的主体は、過酷化した地球環境と監視資本主義の双方を前にして、自分の存在がどうでもよい任意の存在に還元されていく/敢えて還元していくことが問題になるような思弁性の次元と、既存システムのサステナビリティではなく、最低限の生存を維持するためのギリギリのハビタビリティの確保が最優先課題となるような地質学性の次元とに引き裂かれ、その2つの次元をどう結びつけ、またその2つの次元の間でどう折り合いをつければよいのか絶えず問われることになるだろう。

*5:ただし若松英輔によれば、固有の伝統を持つ異なる霊性は、それぞれの歴史を保持したまま「折り重ねて」いくことはできるが、安易に「混合」させることはできないそうだ。そうすると大切なものが失われてしまうことになるのだから(末木文美士編『死者と霊性岩波書店、2021年、72‐3頁)。もしこのことが真実であるならば、様々な霊性の伝統を参照し、必要なものをそこに「折り重ね」ていく元となるような、不服従と蜂起の非宗教的な霊性の伝統を歴史の瓦礫の中からまず見つけ出し、それとして確立していく必要があるだろう。――いや、この言い方は少し不正確だ。本来は歴史の瓦礫の中から新たに霊性を見つけ出す必要などなかったはずなのだから。というのは、(敗者の歴史である)歴史の瓦礫それ自身が実はすでに不服従と蜂起の霊性という特有の霊性を帯びていたのであって、にもかかわらず私たちがその事実に気づくことが困難なままであり続けた点の方こそが、むしろ問題の核心であるのだから。ベンヤミンの言う、史的唯物論をうまく使いこなすために必要な神学というものも、すでに存在していたこの霊性に気づくための道具の1つとして改めて捉え直していくことができるだろう。

*6:小泉義之の立場は、むしろこちらの方に近いだろう。

*7:それに対して小泉の霊性論は、前者のニーチェ主義的で唯物論的な肯定の実践には、必ず後者の否定神学的な霊性が伴うという点を強調していったものだと言える。