外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

(再掲)メモⅧ:現実、現実感、関係性

前回のエントリーに対する補足。

前回のエントリーで示した「理想の時代」、「虚構の時代」、「妄想の時代」、「仮定の時代」のそれぞれの時代における、「現実」と「現実感」(=リアリティ)、そして「関係性」との間の相互の関係について暫定的に少し整理してみた。その結果は以下の通り。

理想の時代と夢の時代

現実、現実感=リアリティ、関係性は互いに不可分というか表裏一体。リアリティは現実世界の根底というか、奥深い根源に潜在していて、現実世界に対する、つまり他者や社会や自然に対する関係性をより強め、より密にし、より強めていけば、やがてその現実世界の奥底に存在しているはずの世界の本質に到達し、そこで本当のリアリティに触れることができるとされた。そしてそうした状態こそが、人間の生き方や社会のあり方の「理想」として立てられていた。

しかし、現実世界の根源への到達が難しいことが実感され始めると、そもそも自分たちは現実世界の根底に存在するはずの本当のリアリティから不当に「疎外」されているのではないか、という危機感が強まった。そのため、その疎外をどう克服すればよいのかが色々と模索されたのだった。疎外の克服の仕方としては様々なものが考えられ、また実際に色々と試みられたのだが、その両極に位置していた選択肢は次の2つのものになるだろう。まさにそれらこそが、過渡期である「夢の時代」の感性をよく体現していたのだった。まず、リアリティが欠落した現実世界から「ドロップアウト」して、野生に満ちた世界に移り住もうとすること。つまり自然回帰。そこでは現実世界の根底に存在していたリアリティが、人間が触れられるかたちで表にも現れたままになっているはずだと考えられていた。またもう一つは、リアリティが欠落した現実世界そのものを暴力的に解体してしまうこと。暴力による解体によって、現実世界の奥底に存在していたはずの本当のリアリティが、疎外されることなく世界の表面にも露出するようになると想定されていたのである。そうなって初めて、私たちは本当のリアリティに常に触れ続けられるようになると期待されたのだった。

虚構の時代と不可能性の時代

現実と現実感=リアリティが互いに分離。そのためリアリティは、現実の外部、彼方に存在するようになった。またそのため関係性の方も、現実とリアリティの間で引き裂かれるようになった。

「夢に時代」には、もはや現実世界はリアリティを欠いた偽りのものに成り下がってしまった、といういら立ちが募っていた。現実世界の根底に存在するはずの本当のリアリティからの疎外は強まる一方だと強く感じられていたからだ。一方「虚構の時代」の新たな意識は、こうした疎外状態を除去不能な事態と見なすことから生じる。つまり、現実世界にリアリティが欠けているのはもはや不可避なのだからいら立っても仕方ない、ただそれを受け入れていくしかない、と居直ることから新たな時代は生まれたのだ。

しかし、こうした性急な居直りによって生じたため、「虚構の時代」の感性はいつまでも深く分裂したままの状態に置かれ、その分裂に悩まされることになる。まず一方では、現実特有の重みや桎梏から解放された記号の浮遊や戯れの方に、あえて新しいリアリティを感じ取ろうと努め始める。つまり、現実世界の記号化、虚構化を無理やり言祝ごうとするわけだ。しかし他方では、そうした記号化、虚構化した現実世界など、しょせん疎外が全般化された状態に過ぎないのだという意識も残り続けるから、この意識に改めて囚われると、現実世界の彼方外部に、それとはまったく無関係な状態のままで強烈なリアリティが存在しているに違いないと強く夢想し始める。ここでは、現実世界の根底に存在していた、大文字の自然が持つとされる「深くて本当の」リアリティとはいささか趣を異にした、現実世界とは無縁なままでその彼方、外部に存在しているとされた、大文字の生命の残酷な運動が帯びている、「前代未聞で強烈な」リアリティが新たに求められるようになったと言えるだろう。

従って「虚構の時代」では、まずは、現実世界から現実特有の重みや桎梏を解除し、現実世界そのものを浮遊する記号世界(虚構世界)に限りなく近づけようとすることが試みられるようになる。その試みは、世界や他者に対する関係性の従来のあり方を変化させるというかたちを取る場合が多かった。関係性というものは、従来は実体化された何らかの項(自己や他者、社会や自然)に従属したままの状態に置かれていた。この状態を改めるために、まずは関係性をそうした項への従属から自立させ、さらに自立した関係性を全面的に浮遊する差異の戯れへと変容させていくことが目論まれたのだった。世界や他者に対する関係性が全面的に単なる差異化の戯れに変容すれば、私たちは現実世界の重みや桎梏から完全に解放されるだろうと期待されたわけだ。こうした試みが生じた結果、現実の重み(≒実体化、物象化された何らかの項)に従属したままのあり方と、その重みから解放されて差異化の戯れになることができたあり方との間で、関係性というものは常に引き裂かれることになってしまったのである。

しかし、以上のような企ての果てに到達したのは、私たちが満足できるようなリアリティはしょせん現実世界の中には存在せず、その外部、彼方に逃れ去ってしまったのだという、疎外の全般化状態の再確認でしかないのだった *1。その結果もたらされたのは、出口のない閉塞感の著しい亢進である。時代を覆うようになったこの閉塞感を何とか打破するために、すでに指摘したように、空虚な記号世界、つまり虚構と化した現実世界の彼方に存在しているとされる、強烈なリアリティが改めて求められ始めたのである。こうして時代は、「虚構の時代の果て」である「不可能性の時代」へと新たに移行していく。

一時的な過渡期でしかないこの時代に生じたのは、次のようなまた別の居直りである。現実世界の中で剥き出しになった、虚構世界の本質である空虚さこそが、逆に、現実世界の外部に存在するはずの強烈なリアリティを呼び寄せる「依り代」になるのではないか?――これは、閉塞感をいっきに打破するための一種の逆転の発想だったのだが、この居直り的な発想が新たに生じたために、人々は、疎外が全般化してリアリティが感じられなくなった現実世界のうちに、強烈なリアリティを呼び込むためのきっかけや兆しを改めて読み取ろうと努め始めたのである。これらの努力には様々なものが存在していたのだが、その中でも特に両極を形成していたのは、次の2つの選択肢だろう。まず1つは、現実世界の記号化、虚構化をあくまでつきつめようとすること。つきつめたその果てで事態が突如反転し、現実世界の外部、彼方に存在していたはずの強烈なリアリティがいっきに現れるだろうと期待して、現実世界の記号化、虚構化を、偽悪的になりながらも確信犯的にさらに推し進めていったわけだ。またもう1つは、現実世界を暴力的に破壊することによって、虚構世界の本質だった空虚さを剥き出しにさせるとともに、その空虚さの中へと、現実世界そのものを実際に消滅させていってしまうこと。確かにそうなれば、現実世界の外部、彼方に存在していた強烈なリアリティは、否応なく私たちの前に呼び出されることになるだろう。この2つの極端な選択肢は、いずれも共に、虚構(記号世界)の正体であった空虚さと、現実世界の外部に存在しているとされた強烈なリアリティとの間の、弁証法的な反転を通じての逆説なつながりに深く魅了されていたのだと言える。

妄想の時代と無謀の時代

「妄想の時代」では現実感=リアリティは現実の外部、彼方ではなく、その手前、というよりはその成立以前の場所、具体的には極私的な脳内の妄想世界の中にのみ存在するようになる。また関係性は、現実世界の手前である脳内に存在するリアリティの充分な享受を妨げてしまうものと、逆にそのリアリティの人々の間での共有を可能にし、そのことによって充分な享受をもたらしてくれる(と期待された)ものへと完全に分裂することになった。関係性それ自体の分裂、二重化。

「不可能性の時代」では、リアリティは現実世界の端的な外部に存在すると想定されたうえで、何とかそれを体験しようとすることが強く希求されたのだが、こうした希求を断念してしまうことから「妄想の時代」は始まるのだった。この新たな時代ではリアリティが現実世界の彼方、外部ではなく、それとは対照的にごく身近なところに、つまり現実世界の「手前」、現実世界が成立する「以前」のところに新たに見出されるようになる。その場所とは極私的な妄想、空想の世界のことであり、またそこでは、極私的な妄想、空想に浸ることによって脳内に生じた快楽が、身もふたもなく、しかも取るに足らなくてくだらない、深みも陰影も欠いたかたちで充足されていくのだった *2。こうした快楽の充足が帯びるリアリティの特徴は、一言で言えば、「手軽で心地よい」ということになるだろう。それは明らかに、現実世界の根源に存在していた大文字の自然特有の深くて真実味のあるリアリティや、また現実世界の端的な外部に留まり続ける、大文字の生命の運動特有の異様で強烈なリアリティとも異なっていた。脳内快楽特有の手軽で心地よいリアリティ。こうしたリアリティに浸り続ければ、現実世界に閉塞感を覚えることなどもはやなくなる、あるいはそれをやり過ごすことができるようになると期待されていたのだろう。

しかし身もふたもない脳内の快楽は、自分自身にとっては一番身近なものだが、現実世界にとってはその手前、その成立以前のところにしか存在しないから、私たちが現実世界といわゆる「まっとうな」仕方で――つまり、必ずそうすべきだと世間から思わされている、標準的な社会規範に則った仕方で――関わり続けると、当然そんな快楽など充分に味わうことなどできなくなる。あるいはたとえ味わうことができたとしても、それは常に、現実世界の手前、成立以前のところにまで追いやられたかたちでしかなくなる。そのため、相変わらず味わい続けていると、当人はどんどん現実世界から(しばしば貧窮化をともないながら)孤立していくことになるのだ。それゆえこうした行き詰まり状況を打破するために、人々は何らかのかたちで、鬱陶しくて思うようにならない従来の現実世界との関係を「切断」しようと試み始めるのだった。その結果、関係性を切断する操作と快楽の充足の度合いの増大とが、新たに(ある程度)正の相関関係を形成するようになっていく。

だが、関係性の切断によってたとえ快楽の度合いが増大したとしても、それはしょせん極私的な空想に浸ることによって得られたものに過ぎないから、他者から分断された孤立状態は相変わらず解消されないままだ。そのため、この極私的な妄想に依拠した快楽を他者と共有することを可能にして、快楽の共有に基づいた共同性を新たに立ち上げていくことができるような、別の(まさに文字通りの意味でオルタナティヴな)関係性が強く希求されるようになる。この望ましい別の関係性は、しばしば「つながり」と言われたりした。こうして関係性というものは、切断されるべき、極私的な快楽の充足を妨げるに過ぎないものと、改めて希求されるべき、極私的な快楽の他者との共有を可能にすると同時に、そのことによって快楽充足の度合いをも高めていく(と期待された)ものへと、大きく分裂するに到ったのである。従来の関係性の切断と新たなつながりの希求、そしてその結果もたらされる、関係性それ自体の二重化。

それでは、極私的な妄想に浸る快楽の共有を可能にしてくれるようなつながり、共同性など簡単に形成することができるのだろうか。残念ながらそうではないだろう。極私的な妄想を他者と共有していくことなどほぼ不可能であり、従ってそうしたものの共有は常に疑似的なものに留まらざるを得ないからだ。実際に形成されたその種の共同体も、いつまでも不安定なままの状態にとどまり、結局は一時的にしか存在することができなかった場合が多い*3。そのように快楽の共有に基づいた共同体の形成が難しいのは、やはりそこでの快楽が、しょせんは極私的な妄想世界という、現実世界の手前や、その成立以前の場所にしか存在していなかったからだろう。快楽が現実世界の成立以前の場所にしか存在しなかったにもかかわらず、その快楽の共有に基づいて形成される共同性の方は、当然、(何らかの制度化や実定性を帯びながら)すでに成立している現実世界の只中で存在することになる。現実世界が成立する手前/すでに成立した現実世界の只中という、この落差が何らかの仕方で乗り越えられない限り、形成された共同性は決して安定して存続することなどできないはずだ *4

そのため、現実世界の手前、その成立以前のところにしか存在しない極私的な妄想世界を、強引に現実世界の只中にも存在させて、そうした妄想の共有によって形成される共同性をより強固なものにしようとする企てが新たに生じることになる。前回のエントリーで指摘したように、この種の企てが頻繁に見られるようになったため、現在は「妄想の時代」の次の時代である、過渡的な(「妄想の時代の果て」としての)「無謀の時代」に移行したと言えるのだった。

現実世界の手前、その成立以前のところに潜んでいた極私的妄想を無理やり現実世界の只中に存在させようと企てること。こうした企てには色々なものが考えられるが、その両極端に位置するのは次の2つの選択肢になるはずである。まず、現実と妄想の区別が不分明になったり両者が混触するような混乱状態を絶えず作り出しながら、その状態に人々が常に興奮し続けるように仕向けていくこと。カーニバル的な興奮状態の持続によって、妄想の共有に基づいた共同性をより強固なものにすると同時に、その強固になった状態をずっと存続させていこうとするわけだ。この種の企ては、今やSNS上の到るところで見られるようになっている。またもう1つは、自分たちが共有する妄想世界を、暴力の行使によって無理やり現実世界の只中に実現させていこうとすること。現在問題となっている、Qアノン信奉者や白人至上主義者たちなどの反動的な右派の人々が信じている陰謀論は、こうした暴力の行使と表裏一体になったものだと言える。彼/彼女たちは、自分たちが正しいと信じる予言や予測が中々当たらず、周囲の者たちからはふざけた妄想としか見なされないのは、敵対勢力が予言や予測の実現を絶えず妨害しているからだと本気で思い込んでいるのだった。だからこそその妨害を跳ね返すために断固として暴力を行使していくしかないと、日々思いを募らせていくわけだ。予言が当たらなかったという事実を暴力の行使によって乗り越え、またその暴力の行使を通じて、次に打ち出される新たな予言への確信をさらに強めていく。――ここでは、予言がはずれることがあらかじめ折り込まれた、こうした暴力の行使と、新たになされる陰謀論的予言との間の閉じた円環が形成されているのだが、この円環を切り崩していくのは大変難しいのではないだろうか。

仮定の時代

「仮定の時代」では、現実感=リアリティは現実世界とはどこか別のところに存在するわけではない。というより、もはやそれは、あらかじめどこかに存在するものではなくなり、その都度新たに一瞬だけ作り出されるだけのものに過ぎなくなった。また関係性の方も、もはや分裂したり二重化したりすることはなくなり、別のより望ましい関係性が希求されたりもしなくなる。

現実世界の手前やその成立以前に存在していた、脳内の極私的な妄想世界をそのまま現実世界の只中に実現させようとする企ては、やはり無謀なものに過ぎなかった。多くの人々がこう悟り始めると、それと同時に、私たちが満足できるようなリアリティはあらかじめどこかに存在しているはずだ、という発想自体も手放されていくことになる。リアリティというものは、もはや、現実世界の深みに降りていってその根源に到達すれば得られるようなものでも、また現実世界のはるか彼方、その端的な外部に存在するようなものでも、さらには現実世界の手前、その成立以前のところに撤退すれば手軽に経験できるようなものでもなくなったのだ*5。それは、現実世界のあり方に関わる種々の「仮説」を、合理的推論を用いながら提示する際にかろうじて経験できるようなものに過ぎなくなる。またその際リアリティが感じられるのは、提示された仮説の――現実世界は本来こうなっている、あるいは将来こうなるはずだなどという――特定の内容の方ではなく、むしろ、そうした仮説を立てて「仮定」していくというふるまい自体の方である。つまり、仮定するというふるまいにしかもはやリアリティは宿らなくなってしまったのだ。そしてそれこそが、「仮定の時代」という新たな時代が成立したことのしるしなのである。

この新たな時代になると、もはや人々は極私的な妄想を共有できないことから生じる孤立感(=つながりの実感、共同体感覚の欠如)にさいなまれることなど殆どなくなるだろう。仮説を立てて仮定するというふるまいを通して現実世界と関わっていくことの方に、よりリアリティが感じられるようになるはずだからだ。とは言っても、「仮定の時代」にはこの時代特有の問題がまた新たに生じることになる。仮定というふるまいにのみリアリティを感じるようになるということは、逆から言えば、目の前に与えられている現実世界(=生活世界)の、その与えられている通りの姿や、また実生活を通して、その与えられている世界の具体的な成り立ちやしきたりを実際に経験していくことの方にはもはやリアリティが感じられなくなったことを意味している。そうしたものよりも、与えられてもいず経験することもできない、世界の抽象的な本質や構造を色々と思弁的に推論したり、あるいは、大きく変化した(はるか)未来のその姿を勝手に推測していくことの方によりリアリティを覚え始めるはずだ。ところが皮肉にも、テクノロジーがより発達したこの時代では、私たちは現在よりもはるかに強く、目の前に与えられていた、実際に経験できる現実世界の中に囚われてしまうことになる。なぜなら、実生活の中での私たちの普段の言動はほぼ正確に予測されるようになるとともに、しかも絶えず一定の方向に誘導されるようにもなっていくからだ。しかも、そうした誘導に普段気づくことなど殆どなくなり、またたとえ気づいたとしても、その誘導は色々な意味で適切だったというか、別に悪くないものだった事実が単にわかることになるだけだから*6、抗議したりあらがったりする動機や理由も特に生じないようになるのだろう。

どうしてこうなってしまうのかと言えば、それは、何らかの「設計図」の中で仮説として提示されて仮定された世界のあり方が、現実世界の中でもほぼ完璧に再現できるようになり、そのため現実世界は、殆ど設計図によってあらかじめ設計された通りのかたちで存在するようになるからだ。その種の設計図のうちで好んでというか、ほぼそれのみが現実世界の中で実際に再現するに値するものとして取り上げられるようになるのは、当然、私たちの言動を正確に予測し、的確に誘導する(善導する)仕方や仕組みを仮説として提示することに成功できたものだけだろう。こうした適切で文句のつけようのない設計図たちの専制体制――つまり、現実世界が適切な設計図通りにしか存在しなくなる、しまいには、設計図によって設計されただけの存在に等しくなってしまうこと――に何とか抵抗するために、人々は次から次へと新たな仮説を提示し、「仮定する」という、現実世界からの距離を確保したふるまいの中にあくまでとどまり続けようとし始めるのだと思われる。

だがそこには、解決困難なジレンマが待ち構えていたのだった。そもそも、人々が納得して受け入れていくような有効性の高い仮説は、現実世界の適切な設計図以外のなにものでもない。世界のあり方やその行く末について示された仮説は、現実世界の中で改めて検証されたり、さらにはそれが実際に現実世界の中でも実現されるかどうか実験されて初めて、有効性を獲得することになるからだ。しかし、自分が提出した仮説がこうした意味での有効性を持つようになれば、人々の言動を正確に予測して適切に誘導するための設計図通りのものにすでになり果てていた、眼前の現実世界の桎梏から何とか自由になるという、自らの意図を裏切ってしまうことになる。それでは、荒唐無稽な仮説を敢えて提出していくようにすればよいのだろうか。残念ながらそれも不可能だ。恣意的で荒唐無稽な仮説など、もはや仮説とすら呼ぶことができないからだ。仮説である以上、論理的整合性や現実世界との何らかの対応性はあくまで必要である。

――それではどうすればよいのだろうか。やはり、仮説というものが持つ有効性というものを、通常の意味での正確性や適切性から何とか区別していく不自然な努力をし始めるしかないだろう。ここで言われている通常の意味での正確性とは、仮説の内容が、実際に存在している現実世界の構造や成り立ちと正確に対応していることであり(だからこそ正確な予測も可能になる)、また通常の意味での適切性とは、現実世界の中で実際に存在している人間たち(さらには別の生物種)の様々な利害や欲求を的確に把握し、それらの間の対立を適切に調整して、いわゆる「最大多数の最大幸福」を実現していくことである。思弁的想像力を駆使して論理的な整合性を過剰に首尾一貫させていく操作を通して、こうした正確性や適切性から、何とか仮説が仮説として持つ有効性を区別し、それらの専制から救い出していこうとするわけだ。

その結果、仮説を提示するふるまいの中で、現実世界の適切な「設計図」を提出する行為と、その設計図を無効にする過剰な「思弁」を提出する行為とが対立し始めることになり、両者が激しく抗争するようになるはずだ。仮説が持つ有効性をめぐる設計図と思弁との間の絶え間ない抗争状態。そこでは、仮説を敢えて思弁として提出する者は、仮説が世界の適切な設計図として提出されると、その設計図の内容が現実世界の中にほぼ忠実に再現されてしまうため、人々が現実世界に対してあらがったりそこから距離を取っていくことが不可能になると、強い危機感を募らせていくことになる。そうなれば、現実から距離を取って何かを自由に「仮定」するという行為自体が消滅してしまうのではないかと。他方、仮説を設計図として提出するのをよしとする者は、そもそも現実世界との適切な接点や正確な対応関係がなければ、仮説が仮説として成立することすらできなくなるのだから、適切な接点や正確な対応が存在すること自体を問題視するのは馬鹿げていると、激しく反発するようになるだろう。こうして、思弁と設計図との間の対立や抗争はどこまでも続いていくのだろう*7

もちろん、提示された仮説はどんな意味であれ、何らかの有効性がなければ相手にされることなどあり得ないのだから、仮説を提出した者は、その有効性を検証したり、それを実際に現実世界に適用してみたりする何らかの諸々の活動に関わっていくことになる。その種の活動を行い続けると、当然他者や現実世界との関係性もより深く、より密なものになっていくはずだ。しかし仮説を提示し、それを仮定として立てる作業にしかリアリティを感じることができなかった者にとっては、こうした活動は、提案された仮説を現実世界の単なる設計図に矮小化していくだけの、不本意なふるまいにしか映らないだろう。というより、仮説を検証し、現実世界に適用していく活動は、彼/彼女たちにとっては、提示された設計図を機械的に反復、再現することしかできなくなった現実世界の桎梏の中に自らを積極的に閉じ込めていくことにしかならない、まさに地獄のように苦痛に満ちた行為以外の何ものでもなかったのではないか*8

そのため、現実世界や他者と関係しながら、仮説の有効性を検証したり、それを現実化していく活動をしている最中に、唐突に身体が麻痺して凝固したり、不動化して凍りついたりすることが新たに起こるようになるはずだ。それは一種の防衛反応というか、現実世界の不当なあり方に対する抵抗の現れであると言える *9。凝固して不動化すると、直観や洞察を自由に働かせることができる余地が改めて確保されるようになるだのだが、そうなればその直感や洞察をまた新たに働かせて、現実世界のただの設計図ではない、それを超えた過剰な思弁である別の仮説を提示し、それを再び仮定として立てていく作業を始めることができる。そのようにして、単なる世界の設計図と化した仮説を忠実に模倣していくことしかできなくなった現実世界の不当なあり方に対して、何とか抵抗しようとしているわけだ。そしてそこでは当然、提示された仮説を機械的に反復、再現することしかできない(テクノロジーによる統治や監視が貫徹された)この現実世界のあり方それ自体を改めていくことが、あるいは、そうした現実のあり方に左右されないような生のあり方を創出することが特に模索されるようになるだろう。

「妄想の時代」では、既存の関係性を切断して、別の関係性を形成することが希求されたわけだが、「仮定の時代」では、関係性を切断するのではなく、関係性の只中で(唐突に)凝固、不動化し、その状態を確保したうえで、現実世界に関する(ただの設計図にとどまらない)よりよい仮説を提示することが行われていく。関係性の切断から、関係性の只中での凝固、不動化へ*10

※ 内容に不備があったため、加筆訂正したうえで再アップしました。

*1:この時代では資本主義体制がもたらす弊害は、格差の増大や貧困層の増加のうちにではなく、むしろこうしたあらゆる関係性の商品化=差異化=記号化のうちの方に見て取られていた。

*2:なお「虚構」の軽さ、薄っぺらさ、張りぼて性と、「妄想」のこうした身もふたもなさ、くだらなさ、即時性とは似て非なるものだから注意したい。この両者の違いをはっきりと概念的に区別していく必要があるだろう。

*3:社会の中で孤立しがちな者たちの間に新たなつながりを作り、彼/彼女たちに居場所を与えていこうと試みた種々のスペース、コミュニティは、しばしばセクハラやパワハラのトラブルで瓦解していくことになるのだった。

*4:確かに妄想を共有して共同性を形成するのは大変困難なのだが、その困難さは、次のような仕方である程度緩和させていくことができる。それは、快楽の充足が生じる特定の「空間」(スペース)や「場所」、さらには快楽の充足を集団的に起こすための事業やイベントを行う「現場」(「シーン」)の方をまず共有していくことである。極私的な妄想に浸ることよって生じる快楽だけを直接共有しようとするのはさすがに難しいから、まずは快楽充足が生じる空間や場所の共有、ひいては快楽充足を起こす事業の作業現場の共有の方を優先させ、それらの共有を介して何とか妄想の共有をも実現していこうとするわけだ。「妄想の時代」には、こうした「空間」や「現場」の共有によって何らかの共同性(体)を立ち上げる試みや企てが(オン/オフの世界の区別なく)到るところで行われていたのだった。しかし快楽が生じる/を起こす場の共有だけで、当のその快楽の共有まで実現していくのはやはり不可能だったのではないだろうか。つまり、快楽の充足によって活性化された各人の脳内妄想の共有など、しょせんは起こらないままだったのではないか。というよりそれは、各人の脳のダイレクトコネクトが実現されでもしない限り元々不可能だっただろう。

*5:とは言っても種々のリアリティは、以上見たようなところには相変わらず存在し続けるはずだから、その点は誤解しないようにしたい。それらのリアリティにただ触れるだけではなく、それらのみを自分の生の拠りどころにしようと目論んだり、あるいは、多くの人々がそれらに常に触れ続けられるようにするために、人間や社会のあり方自体を大きく変えようとした試みや企ての方のみがついえ去ってしまったのだった。もちろんついえ去ったのは、これらの試みや企ての目的の実現がきわめて困難だったからである。それゆえそうした困難さにどう対応し、どう処理すればよいのかという課題が後に残されることになる。すぐ次に述べるように、「仮定の時代」では様々な「仮説」が提示されるようになるのだが、その仮説の中には、当然この課題に対して解決策を示すようなものも含まれることになるだろう。

*6:たとえば自分が知らずうちに従っていた誘導が、リベラルな価値規範の内面化や、リベラルな行動様式の確立をわざわざ促してくれていた事実を後から認識し、それに感謝したりすることが生じるのではないか。

*7:近い将来、統治功利主義と思弁的実在論がこうしたかたちで全面対決するようになるかもしれない。そこでは統治功利主義は、現実世界をその設計図の単なる再現物に還元していくことができるようになったことを言祝ぎ、正当化していくイデオロギーとして、一方思弁的実在論は、世界の設計図の単なる再現には収まらないような、実際の世界の諸側面に注視していく批判意識として、それぞれ機能していくことになるのだろう。またそのように機能する際には、統治功利主義は自らの統治を正当化するために「ケアの倫理」を重視して、それを自らのうちに吸収していくことになると思われる。一方思弁的実在論は、設計図の単なる再現には解消されない世界の側面として、いわゆる「人新世」の到来によってあらわになった人間活動の地質学的次元を重視して、それを思弁を展開する際の手がかりとしていくだろう。ケア的な知と地質学的な知との間の対立。

*8:テクノロジーによる統治や監視が貫徹されるようになると(いわゆる「監視資本主義」の到来)、現実世界での活動をこのようなものとしてしか感じられなくなる者が多くなるだろう。だからこそ前回のエントリーでは、現実世界というものは、天上に存在するイデアを粗雑に模倣、模造することによって、人々がイデアに触れることを妨げるような桎梏でしかないと捉えた、新プラトン主義の考え方が注目されるようになると予想したのだった。

*9:なお、神経生理学から発展したポリヴェーガル理論は、身体の凝固や不動化、凍りつきや仮死状態化を強烈な防衛反応として捉えたうえで、その解除や、現実世界や人間との関係性の領域内でのその穏やかな再現を重要視していた。こうしたポリ・ヴェーガル理論の考え方を踏まえれば、凝固や不動化という反応を一種の抵抗の身ぶりとして捉えていくことができるだろう。また凝固や不動化という反応が生じるのは、そこに今までの時代の経験の歴史的な蓄積が存在していたからでもある。というより、そもそも経験の歴史的な蓄積というものがなければ、抵抗の身ぶりが凝固や不動化というかたちを取ることなどなかっただろう。その蓄積とは、ベンヤミン的に言えば、(註5で触れたような)実現できずについえ去ってしまった、様々な歴史的な試みや企ての残骸の瓦礫化した集積のことである。この瓦礫化した集積があらかじめ存在していたからこそ、凝固や不動化という反応が社会的な抵抗の身ぶりとして可能になるのだった。つまりそこで凝固し不動化する身体は、そうした瓦礫化した歴史から形成されていたことになる。

*10:以上の記述では、リアリティというものの倫理的な側面にはまったく触れることができなかった。リアリティというものはしばしば強い倫理的な要請としても現れるのだから、それに触れなければ議論として不十分なままである。この点に関してはまた他日を期したい。