外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅤ

「生きる」以降を「生きる」こと

以上の千坂の主張には半分反対で半分賛成である。

「人間以降」においては、もはや人間的生は生(物)権力によって捕縛されて生を存続させられる〈生物学的生〉であることはできず、(まるで遠い惑星のような)「人間とは無縁となった地球」に放り出されて、そこで何とか棲息せざるを得なくなる〈地質学的生〉に変貌せざるを得なくなるのだから、まさに「生きる」ことが、すなわち文字通りに生存を確保することが、つまりサバイバルすることが喫緊の課題となるだろう*1。つまり「人間以降」においては、(人間とは無縁となった地球の上で何とか棲息する仕方を見つけて生存を確保するという意味で)「生きる」ことを真正面から問わざるを得なくなるのだ。

しかし、そうした地質学的な生はもはや人間的な生と言えるだろうか? 従来の人間性というものにこだわりのある者たちは、自分たちのうちの新たに開かれた地質学的な次元を受け入れていくためには、従来の人間性に相当したものを意識的に解体、滅却していくか、あるいはたとえその残滓や残骸でも構わないから、何とかして何らかの人間性らしきものを保持しようと努め始めるだろう。実はこの対照的な態度は、同じふるまいのことの両面に過ぎない。そのふるまいとは、非人間的なもの、あるいは超人間的なものを前にしたときに、人間としての自らの限界を意識しながら、そうしたものと人間との関係を何とか考えていくことである。それは一言で言えば、「思弁」というふるまいのことだ。「人間とは無縁となった地球」に放り出された「人間以降」の人間的生について考えることは、必然的に思弁的にならざるを得ないのだ。

そしてその思弁性の端的な特徴が、千坂の言う「『生きる』以降」について考えていくということである。「人間とは無縁となった地球」にとっては人間的生など存在しても存在しなくてもどちらでも構わないものに過ぎないのだから、その事実に対応するために(地質学的存在と化した)人間の側も、存在しても存在しなくても、あるいは生きていようが死んでいようがどちらでも構わない(「任意性」という)境地を模索し、実現していく必要が出てくる。そうした努力こそが、千坂の言う「『生きる』以降」を問うということの内実を形成することになるのではないか。

以上確認したような地質学性と思弁性とは、さしあたりは分離したままであり、両者の関係は不分明なままだ。それでは両者の関係はどのように解明していけばよいのだろうか?――その仕方はまだよくわからないが、たとえば、ドゥルーズガタリ千のプラトー』を、地質学性と思弁性との間の絡み合いを記述したものとして改めて読み直していくことなどもできるかもしれない。

いずれにせよ「人新世」というものが新たに問題になるようになった時代では、かろうじて何とか生き続ける、生き残るということが喫緊の課題となり、しかもこの課題を果たすためには、その存在において自己の存在そのものが常に最大の関心事となるというような、従来の人間の基本的で存在論的な条件を一から再検討せざるを得なくなるのは確かなことだと思う。

*1:そこでは既存のシステムの「持続可能性」(サステナビリティ)よりも、生物種としてのギリギリの「居住=存続可能性」(ハビタビリティ)の方が優先されることになるはずだ。