外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅠ

「抵抗」や「革命」について考えるときにどういう考え方をしてはいけないのか

模倣の絶え間ない反復による内破、攪乱(構築主義の戦略)。リセットによってゼロ地点に戻り、一からやり直すこと(「始まり」の反復としての「一からのやり直し」というものを特権化する、アレント的な存在論の戦略)。資本主義にとっての外部性の空間(歴史汎通的な相互扶助の領域など)を想定し、その空間の全面的な回復を夢想すること(疎外論)。資本主義は自らの内部に別の(オルタナティヴな)あり方(IT技術の発達が可能にする社会的協働の強化、拡大など)を潜在的に分泌していくと想定したうえで、その潜在的なあり方の全面開花(全面的な顕在化)によって、資本主義自体が別のものへと変貌してしまうのを期待すること(生産力中心主義)。――以上のような発想とはまさに別の仕方で「抵抗」や「革命」のあり方を構想していく必要があるのでは?

M・ガブリエルの構築主義批判と自然科学主義批判の問題点

M・ガブリエルは、構築主義自然科学主義とを自らの新実在論にとっての主要敵として定めたのだが、そのこと自体は的確だと思う。しかし、その際の理由づけがかなりピンボケなものでしかなかったのが気にかかる。まず構築主義が主要敵になるのは、それこそが、フェイクニュースが蔓延するようなポスト真実状況をもたらした、シニカルな相対主義震源地であると見なされたからだ。けれども実際には、構築主義が単純にシニカルな相対主義を生み出したわけではなかった。元来構築主義は、あらゆる見方は等価であり価値評価ができないという単純な相対主義を唱えていたわけではない。世界にはさまざまな見方が存在し、しかもそれぞれの見方もどんどん変わっていくという、ものの見方の多様性や生成変化性を肯定したうえで、自ら自身が、その多様性や生成変化性を最大限に肯定し受容できるような、卓越した一つの立場、ものの見方に高まろうと努めていたのだ。そうするための戦略が、いわゆる「脱構築」や「攪乱による内破」というものだったのだが(それらはいずれもイロニーとユーモアを駆使するものだった)、残念ながらこれらの戦略は、あまり効果がなく空転するばかりだったのではないか。そしてその空転の様子を傍らで見ていた右派の人びとが、構築主義の空転した形態をただの相対主義と同一視したうえで、今度は自らがその相対主義に依拠しながら、自分たちの反動的なものの見方を、もう一つのものの見方、別の真実として新たに強く押し出すようになったというのが歴史の現実なのだろう。ガブリエルは、構築主義の行き詰まりと、右派による(矮小化に基づいた)その簒奪という、こうした経緯をまったく見ていないのだった。つまり構築主義の本質が相対主義でしかなかったから問題なのではなく、多様性や生成変化を肯定・受容するための構築主義の戦略が行き詰まり、その行き詰った形態が単純な相対主義でしかないと誤認されたうえで、それが、右派が自らの反動的な主張を正当化する際に利用されるようになってしまったからこそ問題だったのである。

またガブリエルは、自然科学主義をもう一方の主要敵として定めるのだが、その理由は、自然科学主義が、自然科学的世界像を普遍妥当性を要求できる唯一の世界観へと持ち上げ、それを絶対化してしまったからである。けれどもこの理由づけもやはりピンボケだ。というのは、普遍妥当性を要求して自らが唯一の真理である僭称する世界観は、別に自然科学的世界像だけに限られるわけではないからだ。たとえば社会学的世界像(社会学主義や社会構成主義など)や心理学的世界像もまた、自らの見方が普遍妥当性を持つ、唯一の真理だと主張してやまなかっただろう。ガブリエルの理由づけが不十分なのは、複数の世界像が主張している、こうした普遍妥当性要求と、その要求に現実味を与え、説得力をもたらすものとを全く区別していないからである。自然科学的世界像は、ただそれだけでは自らの普遍妥当性要求に実効性を与えることはできないのだ。そうした効果をもたらす、さらに別のものが必要である。従来はそれは、当然単なる世界認識の仕方としての自然科学とは区別された意味での科学技術(テクノロジー)だったのだが、しかし現在では、科学技術そのものというよりは、それを用いながら巧妙なナッジやアーキテクチャを作り上げ、人々を思うように操作・誘導していく統治功利主義こそが、自然科学的世界像に真理性という効果を与え、その普遍妥当性要求に実効性をもたらしているのではないだろうか。つまり、自然科学的世界像こそが唯一の普遍的な真理であるという、自然科学主義の主張を(それこそ社会的に)支えていたのが、実は統治功利主義だったのである。ガブリエルの自然科学主義批判は、統治功利主義によるこの下支えという側面を全く見ていなかったから不十分だったのだ。

ガブリエルが新実在論の主要敵と見なした構築主義と自然科学主義。この2つのものの間に、うえで取り上げた統治功利主義を挿入すると構図全体が大きく変動することになる。まず実在論にとっての主要敵は、普遍妥当性を要求する自然科学的世界像そのものではなくなり、むしろ、その普遍妥当性要求に実効性を与えていた統治功利主義の方になる(実在論vs 統治功利主義」という対立図式の成立)。そして自然科学の営みを、統治功利主義に奉仕するものとそれに抵抗するものとに腑分けしたうえで、後者の自然科学の営みがより強く統治功利主義に抵抗できるよう、営みの現場により積極的に介入していくようになるだろう。またそうする際に、構築主義というものの位置づけも大きく変更されるようになる筈だ。構築主義が元々行っていた本質主義批判は、まさに自然科学的世界像こそ唯一の真理であると僭称する自然科学主義を批判し解体するためのものだった。しかしそうするために選んだ戦略(攪乱による内破、脱構築などの、一言で言えば〈脱〉の戦略)がうまく行かずに空転してしまったために、右派勢力からそれは単なる相対主義でしかないと誤認されることになったのだが、たとえそうなってしまったとしても、本質主義批判によって自然科学主義の専制や横暴を阻止するという初発の目論見自体は正しかった筈だ。それゆえこの目論みだけを救出し、統治功利主義に対抗できるような新たな戦略をそれに新たに実装させていくことが可能だろう。すなわち、構築主義による本質主義批判の対・統治功利主義バーションの新たな形成。

こうして、ガブリエルが提出した、新実在論構築主義と自然科学主義との間の単純な対立図式は、以下のように大きく書き換えられることになる。まず、自然科学主義そのものが単純に実在論の主要敵となるのではなく、統治功利主義と合体した自然科学的世界像のみが新たな敵となり、統治功利主義に抵抗しようとする自然科学の営み(や、そうした営み特有の世界像)は、むしろ自らの重要な同盟者となるだろう。また構築主義も単純に実在論の主要敵となるのではなく、その派生態であるシニカルな相対主義のみが相変わらず敵であり続け、元々の構築主義のうちにあった、本質主義批判による自然科学主義批判というモチーフは、統治功利主義と対峙するためにむしろ自らが積極的に継承するようになるだろう。構築主義による自然科学主義批判を参考にしながら、自然科学を武器として駆使する統治功利主義への対峙の仕方を新たに彫琢していくことになる筈だ。

ところで、なぜわざわざ実在論(の新たな潮流)に統治功利主義に対抗する役割を負わせようとするのかと言えば、それは、統治功利主義に対抗するために現在提出されている戦略があまりにも心もとないものでしかなかったからだ。その戦略とは、ナッジやアーキテクチャアルゴリズム専制や暴走に対して、あくまで市民的公共性を対置させていくものである。グローバルなプラットフォーム企業による、ナッジやアーキテクチャアルゴリズムの独占をやめさせ、それらを全て公開させたうえで、自立した市民たちの共同所有物(コモン)に新たにして、あくまで自分たちで統御、集団管理していこうというわけだ。一見尤もらしいが、これはあまりも近代的・啓蒙主義的発想でしかないのではないか。人間的主体による意志や判断と、プラットフォームによる誘導や動員との間の明確な区別が常に変動して不分明化していき、両者が絶えず混淆しながらコミュニケーションやネットワークが駆動されているというのが、SNSが普及した以降の社会の現実なのだが、こうした現実を前にしては、自立した市民による統御や管理に期待をかけるというのは、あまりにも無力な発想でしかないと思われて仕方がない。もちろん、プラットフォーム企業による独占をやめさせ、ナッジやアーキテクチャアルゴリズムを公開して私たちの共有物にすべきだという主張自体には異論はない。しかし、公開されて共有物となったそれらのものに対して改めてどう関わっていけばよいのかが問題なのだ。それらのものは単に統御したり集団的に管理できるような代物ではないだろう。統御し管理するような活動的な主体の安定した自己同一性などもはや確保されないだろうし、また効率的に統治するという欲望からの距離の取り方も相変わらず不明なままだからだ*1。ではだからと言って、ナッジやアーキテクチャアルゴリズム自体を否定、破壊したり(解体という〈反〉の戦略)、あるいはそれらのものをクラッカー的にただ内側から攪乱して骨抜きにしていけばよいわけでもない(脱構築、内破という〈脱〉の戦略)。もちろん、ナッジやアーキテクチャアルゴリズムの支配に左右されないような、何らかの(人間的で自然に根ざした)外部の領域を想定して、そこでそれらのものの支配など必要としない別の(より人間的な)生き方を模索していくというやり方も存在してはいる(無関連化、切断操作という〈非〉の戦略)。しかしこのやり方こそ、ナッジやアーキテクチャアルゴリズムの強化、暴走という事態に対して何ら積極的に関わることなく、単にそうしたものに触れたり利用するのをなるべく避けるという消極的対応しかできないから、殆ど無力なままに留まるしかないだろう。だからやはり、統御や集団管理、破壊や否定、攪乱による内破、無関連化による別の領域の確保などとはまさに別の仕方で、統治功利主義専制、横暴に対峙し、それに抵抗していく仕方の解明が現在の実在論の潮流のうちにこそ求められていると言えるのだ。

*1:またここには、統治功利主義が進める効率的な統治と、自立した市民が進める集団的な管理との間の区別が不分明になり、いつのまにか後者が前者のうちに回収されていってしまうという重大な問題も存在している。しかも市民的公共性の未成熟、未成立という講座派的観点をさらにここに挿入すると、より事態が錯綜してしまうことにもなる。市民的公共性と効率的統治との間の区別が不分明になるという問題意識は、あくまで市民社会がすでに成熟して定着しているという事実を前提にしているのだが、講座派的観点はその前提を疑問に付し、日本社会は市民社会が充分に成立していない半封建社会でしかないのだ、という歴史認識を前面に押し出してくるからだ。半封建社会ではその半封建性と統治功利主義との間の親和性が高いため、市民的公共性を欠いたまま、よりスムーズに効率的統治が社会の中に根付いて実現されてしまうだろう(そうした動向をナイーヴに言祝いでいるのが、落合陽一の一連の著作である)。その他方で、逆に統治効率主義の推進によって初めて、半封建社会である日本社会のなかに市民的公共性が根づいて実現されるようになるという可能性も捨てきれない(安藤馨の議論)。――講座派的観点からはこの二つの可能性が導出されるのだが、果たしてどちらの可能性が実現されるのか、あるいはこの二つはどのように結びついて相互変容していくのかに関しては、まだ確かなことは何も言えないから今後の議論の深化や展開を待ちたい。