外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅨ:露悪性と透明性

今世界で起きているのは、嘘(フェイクニュース)を隠さない露悪性と、秘密(機密情報)を隠さない透明性との間の対立なのではないか。嘘を隠さないのは、別に嘘を隠さなくても相手を恐怖で萎縮させさえすればよいと思っているからだろう。また、嘘を信じる層と信じない層との間の分断をあらかじめ前提にしていて、その分断の強化こそが自らの利益となるからでもある。

一方秘密を隠さなくてもよいのは、正義に基づく秩序は力の保持と行使によってしか実現されないと考える現実主義と、力の保持と行使は理性によって統御できると想定する合理主義とが多くの人々に信じられるようになったからだ。こうした現実主義と合理主義に基づいた諜報活動や軍事支援は別に隠す必要はなく、というより逆に公開した方が、当の現実主義と合理主義の裏づけを得られてさらに説得力を増すことになるだろう。その結果、公開された透明な手続きによって正当性を得てきた、民主社会における通常の政治的行為の1つとして完全に定着していくようにもなる。

以上のような露悪性と透明性との間の対立を横目で見ながら、現在勃興しつつある監視資本主義は、社会に安定と秩序を与えるために行う、人々の行動や思考を制限・操作・誘導していく自らのふるまいに関して、最早そのやり方やからくりを下手に隠したりせずに、逆に露悪的に暴露した方が有効であることを学んでいくだろう。その方が、人々はかえって納得しながら、監視資本主義によって与えられた社会の安定と秩序に安心して身を委ねていくことができるようになるからだ。また、人々の行動や思考を制限・操作・誘導するやり方やからくりを、これ以外に道はないと人々に納得させる現実主義と、理性によって完全に統御できると期待させる合理主義とを用いながら、説得力を持って基礎づけていく方法も学んでいくだろう。さらに当然、透明な手続き的正当性のみによって自らへの社会的合意を調達していく、巧みな仕方をも見習っていくはずだ*1

こうした露悪性と透明性との間の対立地平や、そこから新たな養分を得つつある監視資本主義の勃興に対抗するためには、単に組み尽くし得ない人間的身体の深みや、不透明な言葉の(隠喩的な)意味の厚み、さらには理性では統御できない、新たなネットワーク創出(出会い)の偶然性をそれらに対置させていくだけでは不十分なのは言うまでもない。身体の深みや言葉の厚み、さらにはネットワーク創出の偶発性とは異なるような、資本への抵抗の拠点となる新たな人間的次元(人間性)を発見、開発していくこと――現在極めて評判が悪い人文学に残されている仕事は最早これしかないと思われるのだが、果たしてどうなのだろうか。

*1:アナキストであるオードリー・タンは、国家が国民の行動や思考を一方に見通せるだけの透明性は監視国家を生むが、逆に国家に秘密がなく、その行状を国民が全て見通せる透明性は監視国家成立の阻止をもたらすと主張していた。しかしこの主張は不十分だと思われる。人々が自らの行動の思考の制限・操作・誘導をあからさまに求めるようになれば、国家の側も民主的で透明な手続きに基づいてそうしたものを積極的に行使するようになり、合法的に監視国家化を実現していくことになるのだから。