外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ただの愚痴

弱さとは無縁な者に限って弱さを尊重すべきだと言い…

(左派・リベラル界隈では)自分の強さや有能さに無自覚というか無頓着な者に限って、自分は人間の弱さというものを尊重するぞと堂々と主張したり、あるいは、そうした弱さを尊重しない現在の社会の風潮は許さないぞと声高に唱えながら、種々の社会運動にアクティヴに従事できる自らの有能さを(実は)日々堪能したりしている。ホント皆さん、深刻化する世界情勢に危機感を覚えながらも(逆に覚えるからこそ)毎日楽しそう。そしてこうした輩たちは、自分が正しいと信じる主張を堂々と主張できたり、それに一定の説得力を与えることができるということ自体が、もしくは社会運動にアクティヴに従事し続け、その運動を一定の効力があるものにすることができるという当のそのことが、自らの強さや有能さのしるしだということを決して自覚したり認識することはないのだった。さらに言ってしまえば、自分が尊重しなければならず、また社会に対してもそれを尊重しろと激しく言い立てている人間の弱さというものが、まさに自らの主張を説得力を持って堂々と主張することができないということそれ自体であった事実や、あるいは、社会運動にアクティヴに関わってそれに効力を与えることができないという当のそのこと自体だったという事実も、決して理解できないままに留まっているようだ。

それゆえこうした輩の下で、何らかの弱さを抱えた無能な者たちが一定の仕事を引き受けたり、特定の作業を分担したりすると、しばしば激しいパワハラを被ってしまうことになる。彼/彼女たち特有の弱さや無能さというものが、単に仕事や作業の進行を妨げたり、その効率や出来具合を低下させる障害物としてしか見なされなくなるからだ。たいがいは、仕事や作業にとって有害なそんな障害物など早く除去しろ、改善しろなどと始終激しく罵倒されるだけの状態に追い込まされて、そこから自らで脱することができなくなってしまう。しかし除去したり改善できないものだったからこそ、そもそもそれは弱さや無能さと呼ばれるようになった筈だったのではないか。まただからこそあくまで尊重されなければならない筈だったのではないか。しかし仕事や作業の現場では、その進行や出来具合にしか眼中のない、自らの強さや有能さ(の暴力性)に無頓着なままの者たちは、弱さの尊重や受容をめぐるこうした肝心かなめの点には決して思いが及ぶことなどないのだった。またそうだったからこそ、あなたの普段の言動は著しくパワハラだと指摘されたり、ときには正式に告発までされたりしたとしても、当の本人はピンと来ないままだから、決してその事実を認めようとはせず(周囲から促され、かたちだけの謝罪をするのが精一杯)、そのため、かえって事態がこじれていく一方になるのだった。あーあ、強さを持ち合わせて有能な人々といっしょに仕事をしたり作業したりするのはホント嫌だワ、一方的に疲れるだけ。もーやってられないワ!

弱さや傷つきやすさを主体や存在の根底に据える発想には、もう賞味期限切れが迫りつつあるのでは?

ところで、こんな愚痴を述べたからと言って、こちらは決して弱さや無能さというものを、さらに言えば脆さや傷つきやすさ(トラウマ)というものを何よりも重視し優先する立場に立っているわけではないので、その点は誤解しないようにして貰いたい*1。より正確に言うと、存在や主体の根底に何らかの否定性が横たわっている事実の方は肯定し、言わばその原事実性にはあくまで拘泥していくつもりでいるのだが、しかしだからと言って、そうした否定性をもっぱら弱さや無能さとして解釈し、そこから脆さや傷つきやすさという形象を取り出して特権化していく立場には賛同しているわけではないのだった。脆さや傷つきやすさを特権化する立場とは、具体的には、弱さや無能さというものをナラティヴによって共有(シェア、コモン化)する(=ナラティヴによって脆さや傷つきやすさとして共同で形象化していく)緩やかなコミュニティを立ち上げ、そうしたコミュニティのネットワーク化を目論んでいくような様々な思潮のことであり、J・バトラーの思想やべてるの家の実践などもそこに属していたと言えるのだった。

こうした思潮に自分が敢えて異を唱えたいのは、弱さや傷つきやすさを主体や存在の根底に据える発想はもう限界に達しているというか、どうもそれは賞味期限切れになりかけているのではないかと推測しているからだ。そう推測する理由についてはここでは詳論できないが、ただ2点だけはごく簡単に指摘しておきたい。まず第1点は、現在のネオリベ的な金融資本主義の体制がもっぱら酷薄なものでしなく、人々に(たとえ幻想や錯覚でしかないものであれ)いかなる種類の豊かさや喜びも与えるものではなかったという現実に深く関わっている。そもそも、そんな酷薄で人々に苦しみしか与えないような体制に対して、弱さや傷つきやすさという、やはり同じく苦しみの原因となるような生の様相をたとえ対置させたとしても、決してそれは、その体制に正面から対抗できるような抵抗の拠点になることなどできないだろう。単に、ネオリベ的な体制の酷薄さを改めて確認していくことになるだけだ。もちろん、弱さや傷つきやすさから生じる生きづらさをケアによって軽減していくことは確かに重要であり、大いに意味があることではあるのだが*2、しかしそうした努力は、しょせん、ただ単にネオリベ体制を補完し、それを傍らから支えていくことにしかならないだろう(またすでに述べたように、ケアを施す側とケアを必要とした側が、そうした非対称な関係を超えて共同で何かをなそうとし始めた途端、パワハラやそれに関連したセクハラが生じてしまうことにもなるのだった*3)。やはり酷薄な金融資本主義の体制に有効な仕方で対抗していくためには、それ自体で豊かで喜びに満ちている、何らかのオルタナティヴな生のあり方をどこかで確保していくしかないのだと思っている。

さて次に、弱さや傷つきやすさを存在論化する発想は賞味期限切れしつつあると考える第2の理由は、コロナ禍という時代の転換点と大きく関わっているものだ。現在のコロナ禍をきっかけとして、従来のネオリベ的な金融資本主義の体制は、一定の時間をかけながら徐々に別のものに変貌していくことになるだろう。その変貌について確実に言えるのは、新たに立ち上がってくる資本主義体制は、統治功利主義リバタリアンパターナリズムの考え方や、中国で普及しつつある信用スコアのシステムなどを大胆かつ巧妙に取り入れて、テクノロジーを駆使しながら人々に生の安定や豊かさ(の幻想や錯覚)を与えるものになるという点だ。そもそも、安定や豊かさという生の肯定的な側面を人々に一方的に提供するような体制に抵抗するためには、当然、欠乏や苦しみに関わる生の否定的な面を何らかのかたちで形象化し、それを拠点にしながら対抗していくしかないのだが、それでは、新たに成立するこの資本主義体制に対しても、そうした生の否定的な側面として、弱さや脆さや傷つきやすさというものを改めて対峙させていけばよいのだろうか。いや、決してそんなことはないだろう。なぜならこれから浮上するだろう資本主義体制は、人々に安定や豊かさ(の幻想や錯覚)を与えるために、現在では多くの人々が感じるようになっている、弱さや傷つきやすさに起因した、いわゆる生きづらさというものを軽減してくれる、「ケア」という特殊なふるまいや装置を自らの内に包摂して使いこなしていくことが確実だと言えるからだ。コロナ禍を介して立ち上がっていく資本主義体制は、「ケア」というふるまいや装置を一旦資本の下に手なづけたうえで、それらを改めて駆使し、多くの人々に対して、安定や安心や喜びや生きがいなどの、生の肯定的な側面を供給していくことになるだろう(もちろん、それらのものが平等に供給されるようになることは決してないのだが)。こうした体制に対して有効な仕方で対抗するためには、弱さや無能性、脆さや傷つきやすさというものとは明確に異なった、というよりも、それらのものを(資本の側の包摂に対抗するかたちで)自らのうちに包含した、生の新たな存在論的な否定性を改めて抽出して形象化していくしかないということは、あまりにも明らかなのではないだろうか。

ただの愚痴

世界の片隅どころか、誰も読んでいる者がいないからそもそも世界にすら属しているとは言えない(前のエントリーで論じたように、世界にすら属していない地点を一旦確保したうえで、世界現出という現象それ自体を改めて問題にしていったのがそもそもE・フィンクだったのだが)当ブログでは、以上のようなわけだったので、新たな存在論的な否定性の形象として、〈不動性〉や〈停止〉や〈凝固〉(ギリシャ語で基体や位格を意味している「ヒュポスタシス」という語の原意)という生のあり方に着目し、その様態や機能を解明しようと試みていたのだった。しかし、あまりにもこちらが無能で非力だったためにすぐに作業が途絶してしまった…あ~あ、あらゆることが中途半端なまま投げ出されていくことになる。――(気を取り直して)さて、ところでメイヤスーは、主体と対象との間の相関性を絶対化するという操作を通して、そこから絶対化された偶然性というもの(ハイパーカオス)を抽出してきたのだが、こうした絶対化された偶然性を前にして取らざるを得なくなる主体の側のあり方が、この〈停止〉や〈凝固〉という様態になると、一応は言えるだろう(以前のエントリーで論じたように、メイヤスーは偶然性というものをもっぱら別様性というあり方と重ね合わせてしまい、そのことによって偶然性を単純化、平板化してしまったために、その点にはまだ改善の余地があるとは思われるのだが)。新たな資本主義体制は、この絶対化された偶然性、ハイパーカオスというもの*4を何らかの仕方で忘却させるというか、そこから目を逸らさせることを通じて、人々に安定や安心や喜びや生きがいを供給するようになるのではないだろうか。もっぱらそうした生の肯定的な様態を供給することにかまけるようになった体制に抵抗していくためには、まさに絶対的な偶然性を前にして動きようがなくなり、凝固する他なくなってしまった生のあり方に意識的に依拠していくしかないのだと思われる(あくまで極私的には)。なお、こうした生のあり方を抵抗のための拠点として選択することは、いかなるオルタナティヴな生や共同性の可能性をも最早断念することを意味している。この点は特に強調しておきたい。というより時代状況が変化したため、資本主義を克服する試みの名前である「共産主義」というものの〈共産性、共生性、コミューン、レーテ、ソビエト〉には、最早何らかのオルタナティヴな「共同性」(コミュニティ)や「共有性」(コモンズ、コモン)というものを重ね合わせていくことができなくなってしまったのではなかろうか。そして、停止し凝固した者たちからなる共生性は、まさに共同性や共有性とは明確に異なるものになる筈なのだった*5

コロナ禍によって家にいる時間が増えたから、読書に専念できるかと思ったら全然そんなことはなかった。家で料理する時間が増えたために、凝った料理に挑戦したら、案の定、手が滑って熱湯をこぼして足にかけてしまい、足の甲を広く覆った火傷をする破目になってしまった。痛みが続くわ、毎日皮膚科に通わざるを得なくなるわで、もう読書どころではなくなってしまった。そのためにというか、家にいる時間が長くなってしまったわけだからやはりというか、生活がさらに不規則になってしまい、自粛期間中にかえってADHD特有の先送り癖もより悪化してしまったようだ。人生ホントままならない・・

*1:自分個人としては、トラウマに関わる病名の診断を一応受けてはいるのだが・・

*2:この種のケアが広く普及した社会は、まったくそれが普及していない社会よりも百倍もマシであることは言を待つまでもない。

*3:正直言って自分は、ケアする/されるという非対称な関係がすでに成立しているなかで、その非対称性を無理して乗り超えて対等な立場に立とうとし、そのうえで共同で何かをなしていこうと努め始めた途端、パワハラやそれに関連したセクハラが生じてしまうのは構造的な必然であると思っているのだが。

*4:それは、気候変動によって人が住むのが困難になってしまった、地球表面の荒廃した新たなあり方を指していた、B・ラトゥールの言う「テレストリアル」というものとも相通じるものだと言える。

*5:なお、まさに『何も共有していない者たちの共同体』というタイトルの本を書いたA・リンギスは、こうした共有性や共同性とは明確に異なる共生性のあり方にあと一歩まで迫っていたと言える。この点についはまた別の機会に詳しく述べていきたい。