外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅣ

関係の不在としての敵対性と、展開の不在としての凝固化

関係やコミュニケーションとは、関係やコミュケーションの原理的な不在や不可能性を弥縫する(=隠蔽できないものを無理やり隠蔽するために周縁化、例外化させる)仕方でしかないならば*1、同じく展開や運動とは、展開や運動の根源的な不可能性、不完全性を弥縫する仕方でしかないと言えるだろう。

また、関係やコミュニケーションの原理的な不可能性が敵対性(拮抗性)と呼ばれるならば*2、展開や運動の根源的な不在、不完全性の方は、凝固化(鈍麻化、硬直化)や停止(不動化)と呼ばれて然るべきだ。この凝固化や停止こそ、コミュニケーションの不可能性、関係の不在としての敵対性を可能にしている当のものだったからだ。

そしてこれが重要な点なのだが、凝固化や停止は敵対性を可能しているからこそ、それらは、決して敵対性というあり方に尽きたり、そこに還元されてしまうようなものではない。むしろ敵対性を一方的に強調する挙措の方こそ、凝固性や停止特有の存在様態をないものにして弥縫する仕方ですらあったと言えるのではないか。

またこの凝固化や停止は、同時に個体を可能にするものでもあったのだが(個体化の原理)、同じくそれらは、(凝固化や停止の生産物である)個体というもののあり方に尽きたり、そこに還元されてしまうようなものではないだろう。個体というあり方とは根源的に異質なあり方をしていたからだ。つまり個体というものには、個体というあり方とは根源的に異質な凝固性や停止というものが常につきまとっていたことになる。

コミュニケーションやコモン(ズ)に基づいた共同性やネットワーク性とは原理的に異質な共‐性や連帯を立ち上げていくには、以上のような、敵対性の根底に存在し、個体というものに常にそれとは根源的に異質なものとして付きまとう、凝固性や停止性に依拠していくしかないと個人的には思っている。但し、この試みは大変困難なものにしかならないのだが。

たとえば、コミュニケーションや関係性の根底に存在している原理的な敵対性に依拠して、あるいはそれを通して政治的な連帯を立ち上げようとした、敵対性重視のラジカル民主主義の実践は、単に(空虚なシニフィアンによる)動員と組織化を通して敵対性を固定化すること以外の何もできずに、結果として、統御不可能な敵対性というものが本来持っていた潜勢力を裏切ることになってしまった、左派ポピュリズムという名の悪手しか生み出すことができなかった。

こうした例からもわかるように、関係やコミュニケーション以外のものに依拠して何らかの有効な政治的連帯を創出したり、いわんや日常的な実践レベルで持続性のある共‐性を形成していくのは(理論的にも実践的にも)大変難しいままなのだろう。それはまだ人類にとっては早過ぎる試みでしかなかったのかもしれない。