外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

生きることと、戦うこと その2

前回のエントリーの続きデス。

前回のあらすじ

右派と左派のあり方の違いを、生きることと戦うこととの間の関係に着目して、〈生きるために戦う〉/〈戦うために生きる〉として定式化してみた*1。生きるための戦いに魅了された右派の方は、生きることと戦うことの間の乖離に苦しみ、両者の間で何とか折り合いをつけようとする者の人間ドラマや、その両者の一致が例外的な僥倖として与えられる運命劇を、「戦いの物語」に仕立てながら好んで描いてきた。一方、戦うために生きようと目論む左派の方は、その戦いによって獲得される未来のよりよい生と、現在の不完全な生との間の分裂に常に悩まされることになり、この分裂を解消してくれるような「戦いのスタイル」の創出に腐心するのだった。実際に創出された戦いのスタイルは、1つは、あくまで生きることの只中で戦い続けようとすることである。ただしこの戦い方では、現在の生の只中で、未来のよりよい生を目指す姿勢をどう取ればよいかわからなくなるから、取りあえずそうした姿勢を取ること自体が正しいことだと見なす破目になる。そのため自らの努力を自己目的化したり自己絶対化することになってしまいがちだ(倫理的潔癖主義という陥穽)。創出されたもう1つのスタイルは、戦いの只中で未来のよりよき生を先取り的に実現しようとすることである。残念ながらこちらの方の試みも、戦いの中で先取りされる未来の生とはどのようなものかよくわからなかったから、戦うことの楽しさや、そこで生じた盛り上がりや一体感を、取り敢えず未来のユートピア的生の先取りだと強引に見なしていくことしかできなかった。そのためすぐに、その種の祝祭的解放感や興奮状態が、そのままで未来の目指すべき生そのものの実現だと誤解されるようになってしまった(快楽的祝祭主義という迷妄)。以上のような、よりよい未来のために戦うスタイルが陥ってしまった誤りや迷いを打開するには、戦うことと生きることとを一致させることによって、未来の生と現在の生との間の分裂を解消させようとしてきた試み自体をもはや断念するしかないだろう(生と戦いとの一致は決してこちら側からは求めることができないと最初から見なしていた右派の方が、この点では一歩だけ賢かったと言える)。その代わりに追求すべきなのは、目指している、未来のよりよき生の未到来状態と、戦いのために犠牲にされた現在の生の毀損状態とを一つに切り結び、その未到来と毀損を共に生きられるようにするための別の回路である。この回路は取りあえず、(1)一種の謀略工作としての左派特有の実効的合理性、(2)戦いを維持させる、ふんばり耐える知性、(3)生の未到来と毀損それ自体が持つ魅力の発見と追求、という3つのものから構成されると思われる。今回のエントリーは、そのうちの(1)についての、ごく簡単で大雑把なスケッチである。

法制度への依存と、そこからの自立

左派界隈の中には、あくまで法制度*2に依存した生のあり方を目指すのか、あるいはもはや法制度から自立した生のあり方を目指すのかという対立が根強く存在している。前者は社民的契機、後者はアナキズム的契機と言えるだろう。前者の観点からは、戦いが求める未来のよりよき生は、法制度に守られた現在の生の延長上にあると見なされるのに対して、後者の観点では、目指すべき未来のよりよき生は、法制度に依存した現在の生との断絶において捉えられている。目指すべき生のあり方に対するこうした見方の対立が生じるのは不可避であり、また決して完全には解消されることはないだろうが、しかし、社民的契機が前提にしている法制度内というあり方と、アナキズム的契機が求めている法制度外というそれとの間の関係や、両者の結びつけ方がわからなくなってしまうのはさすがにまずい。そこで両者の関係を明らかにして、その二つをうまく結びつけていくために、法制度の整備を通して法制度自体の廃絶を実現していくような、言い換えれば法制度内の生の状態を改善することを通して、生が法制度自体から自立するのを可能にするような、政治的介入のための独特な合理性を改めて構築していく必要が出てくる。

その合理性は、たとえを用いて言えば、それに頼っていると、却ってそれに頼らなくても何とかなってしまう不思議な杖のようなものだろう。より詳しく言えば、そうした杖を発明したり、また実際にそれに頼らなくても何とかなるようにする、その杖に対する上手い頼り方を開発していくことが、この合理性の特徴になるだろう。かつてイヴァン・イリイチは、高度な医療サービス・システムを後ろ盾にしながら支援する専門家は、いざその高度なサービス・システムが停止・崩壊したときに自分たちで何とかできるような能力を、支援される側から奪っていくことしかしてこなかったから、その種の専門家たちは、人間を成長させない有害な「ディスエイブリング・プロフェッショナルズ」だと主張していたが、不思議な杖としての合理性は、そうした無力化するシステムとは正反対の、いざというときに自立できる能力を与えていくものだと言える。

謀略工作と革命

ただ注意しなければならないのは、以上のような政治的合理性は、とても禁欲的で慎ましいものにならざるを得ないという点である。法制度に頼っている者たちがいつかはそこから自立できるよう、その法制度の中にあらかじめ何らかの仕掛けを仕組むことまではできるのだが、当の自立自体を、こちら側があらかじめ予想したり、その実現を直接目論むことなどそもそもできるわけないからだ。法制度からの自立をこちら側の配慮や操作によっていっきに達成させようとすると、前回のエントリーで述べた、支援される側を支援する側と同じ(現存)社会の一員に仕立て上げることを目論む、ケアを通した社会統合と同じようにたちまち胡散臭くなって、色々とおかしくなるだろう。それに対してこの合理性ができるのは、制度に依存した生が一見より快適で、さらに安全安心が実現されたものになるように仕向けながら、実はその裏で、というか同時にそのことを通して、もはや制度に依存しなくても生きられるような仕掛けを密かに組み込んでいくという、一種の目立たない〈謀略工作〉のようなものでしかないのだ*3

もし、自分たちが追い求めている、旧来の不正な秩序が転覆して事態が一挙に好転するような事態を、言葉のもっとも広い意味で〈革命〉と呼ぶならば*4、いつか革命が起きるよう、事前に何らかの仕掛けを謀略的に仕組むことまではできるのだが、当の革命を起こすよう、人々を意識的に操作・誘導・動員・扇動していくのは不可能であることになる*5。革命というものは、偶然のきっかけによって突発的に生じるものでしかないから、そうした事態が将来生じるよう、色々と仕掛けを仕組んでおくか、あるいは革命勃発後、その余波や影響を適切に受けとめ、事態を好転させるための受け皿に自分たちがなれるよう、あらかじめ態勢を整えておくことしかできないのだ*6。それは、再びたとえ話を用いて言えば、爆弾を仕掛けたり、導火線を事前に張り巡らすことはできるが、自らでその導火線に点火して爆弾を爆発させることはできない、もしくはしてはならないというようなものである。爆弾というのは、自然発火によって爆発する方がより望ましく、また当然、爆発による事態の劇的な変化に適切に対応できるようにしておくことの方がよりさらに重要だろう。

以上見てきた、法制度の整備を通してその廃絶を目論んでいく謀略工作的合理性は、戦うために生きようとする際の、その戦うことと生きることとの間の関係を、いわば開いたままの状態にしておくものだと言える。つまり、未来からのよりよき生の実際の到来に関しては、敢えて態度を決めないままにしておくのだ。とは言ってももちろん、よりよき生が到来するための努力を一切せずに、ただ何もせずにかまけているわけではない。法制度に依存する現在の生のあり方の改善に徹しながらも、同時にその生の内に、将来の法制度からの自立を可能にする、潜在的な厚みや豊かさ(いわゆる生の〈潜在性〉と言われるもの)が蓄積していくよう、密かに工作していかねばならないのだ。ただしこの工作の実効性の評価に関しては、得られた実証的データの意味を色々解釈したり、あるいはやはり、未来の成果を抽象的推論によってのみ先取りする思弁を用いたりせざるを得なくなるから、色々と難しいところが出てくるだろう。

なお次のエントリーでは、よりよき生の未到来と、現在の生の毀損状態とを切り結ぶ第2の回路である、(2)ふんばり、耐える知性について論じていく予定なのだが、この知性は以下のような二つの障害物と常時対峙しているから、それに関する記述はかなり錯綜したものにならざるを得ない。(a)歴史の中に一定の流れを想定して、その流れに従いさえすれば正しい生き方が実現できるとする(前世紀の遺物である)〈目的論的歴史観〉。(b)意地と根性と気合で勢いやノリに身を委ねさえすれば何とかなると見なす、楽観的であると同時に投げやりな(思考や行動の避けられない土壌としての)〈ヤンキー的気合主義〉。ふんばり、耐える知性は、この目的論的歴史観とヤンキー的気合主義に対して何らかの対応をしない限り、自らの存立を確固としたものにすることができないのである。 (続く)

*1:実は第3のあり方として、マジョリティと闘争関係に入り、その中で対抗的なアイデンティティを形成していく戦闘的なマイノリティの、〈戦うことを通してしか生きることができない〉というものも存在するのだが、それについては次々回のエントリーで少し触れていくことにする。

*2:ここで言われている法制度とは、あくまで、近代以降、法や政治の手続きを通して人為的に作られた通常の法制度のことである。決して、その中では人為性と自然性との区別が微分的差異でしかないような、ベルグゾン、メルロ‐ポンティ的な、存在そのものの自己展開であると同時に生それ自体の内在性の次元を構成しているとも言える、存在論的な制度のことを指しているわけではない。むしろそうした(〈慣習〉や〈技術〉の次元も不可欠なものとして自らの内に含み込んだ)存在論的な意味での制度性は、すぐ後で論じられる、法制度内生と法制度外生との間の対立の中で、両者の生をどう結びつけていくかという問題に本格的に取りかかる際に、重要な手がかりというか拠点になるだろう。

*3:この合理性は、世俗的欲望を満たすことを通してその欲望への執着を解いていく、仏教の方便に近いものだろう。

*4:ここでは、〈革命〉と〈叛乱〉や〈蜂起〉との区別はとりあえず不問とする。

*5:さらに自分は、〈説得〉や〈啓蒙〉や〈感化〉というものにも余り信を置いていない。左派はこうしたものによって人を動かそうとすることに未だにノスタルジーを持ち続けているように見えるのだが、もはやそんなものからは卒業する必要があるのではないか。

*6:少し話がそれるが、こうした広義の〈革命〉は、私見では以下の4つのパターンに分けられると思う。まず、不正な秩序の暴力的な強圧性に正面から対峙して反対しながら、その秩序を打倒しようと目論む〈〉というスタンスが追い求めている革命。その革命が生起するのは、不正な秩序を維持してきた側が、多大な犠牲を払いながら反対してきた者たちの道徳的正当性や倫理的高潔性(この高潔性は、単なる清廉潔白さとしての潔癖性とは大きく異なる。悪や腐敗に塗れて初めて達成されるものだ。)を前にして、自らの非を悟って改心、悔悛するときである。次に、不正であるにもかかわらず、しなやかで一見びくともしない秩序の土台の方を密かに掘り崩し、いつの間にか骨抜きにしていく〈〉というスタンスが追い求めている革命。この革命が勃発するのは、些細なことがきっかけで、堅固と思われていた秩序がいっきに崩れ始めるときである。さらに、たとえ不正であっても逆らいようがないから無理して適応しようとしたにもかかわらず、ただストレスや不快感が募るだけだった埒が明かない秩序に対して、そうした秩序への関与を今ここでいっきに断ち切ろうとする、「切断操作」や「無関連化」ともよく言われる〈〉というスタンスが追い求める革命。その革命が実現するのは、誰もが不正な秩序との関わりをいつの間にか切断していて、気がついたら、秩序の側にはもはや誰もいなかったということが白日の下に曝されたときである。そして、頼り続けていればさらに事態が悪化するのがわかっていながらも、そうするのが中々やめられない、人々の弱みに付け込んで存在し続けるような秩序に対する依存を、もうやめていこうとする〈〉というスタンスが追い求める革命。その革命が成就するのは、弱みに付け込んでくる秩序への執着がもはや消え、そうしたものへの依存を静かに、かつあっけなく手放すことができるようになったときである。なお、これまた本筋から外れてしまうが、原発に関しては、もっぱら〈脱原発〉という言い方だけが強調されている状況にはやはり異和感を覚えざるを得ない。〈復興〉という名の下に旧来のやり方やシステムがどんどん蘇っている現状を鑑みれば、そうしたものに依存、執着することからの卒業を目論む、〈卒原発〉というスタンスの方がよりふさわしいのではないか。〈脱原発〉というスタンスだけだと、性急な復興政策から十分に距離を取ることができないから、原発という存在に対する信頼がすでに失われた日本社会の現状を肯定していく進歩的な身振りと、旧来のシステムを復活させる性急な〈復興〉政策を推進していく反動的な身振りとをショートカットさせることに加担しかねないからだ。