外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

守ることと目指すこと

ありふれた生を守ることと、よりよい生を目指すこと

反ヘイトの運動でヘゲモニーを握った(ように見える)者たちが、しきりに自分たちは保守、愛国者の立場に立っていると強調しているが、左派の側は彼/彼女たちのそうしたスタンスに対してきちんと対処し、彼我の差異をはっきりとさせていく必要がある。けれどもそれが十分にできないのが現在の左派側の大きな問題なのだ。(リベラル、ラジカル問わない)左派というものの基本的スタンスは、現存の(国民)社会と戦いながら、よりよい社会、生を目指していく点にあるのだが、その目指しているよりよき生を対外的に堂々と提示できないどころか、自分たち自身がそれを明確に把握することができなくなって既に久しいからである。また保守の側は、現存の(国民)社会に自足した、この当たり前でありふれた生を守ることの大切さを強調してやまないのだが、それに対して従来の左派は、既に存在するありふれた生をただ守ることよりも、よりよい生の実現を求めて現存の社会と戦うことの方が身条件に素晴らしいと、強く主張してきた。そのように戦うこと自体が、少なくとも現存の(国民)社会にただ自足することよりも、まだよりましな生き方になるのだと。だが、こうした主張ももはや説得力がなくなってしまった。よりよき生のために現存の(国民)社会と戦うことが、どのようにその社会にただ自足することよりよりよいことなのか、またそこでどのようによりよき生が実現されているのか、この2点ともはっきりとは提示できなくなり、自分たち自身もそれらがいったいどうものなのか、よくわからなくなっているからだ。そして後には、現存の社会に抗して何らかのよりよき生を目指すこと自体が、ただそれだけで直ちによりよき生の実現なのだという、居直りなのか錯覚なのか区別できない、傲慢で硬直した見方だけが残り、それが左派界隈を漠然と覆うようになってしまった。しかしこれは極めて不健全な状態と言わざるを得ないだろう。この錯覚の漠然とし共有こそが、現在左派の人々の言動を大きく蝕みつつあるのではないだろうか。

排除と打倒

自分たちが目指しているよりよき生を明確に提示できない限り、すでに獲得され、現存の国民社会に自足したありふれた生を守るためにこそレイシストたちと戦うのだという、保守、愛国者を自認する反ヘイト運動関係者たちの主張に対して十分に対抗することなどできない。また、将来のよりよき生の実現のために現存の社会そのものに異を唱え、それと戦うことが、どのような意味で既にある程度よりよき生の実現になっているのかを明確に示すことができない限り、百田尚樹の小説が描くような、後に残される者の当たり前の生を守るために自らの生を犠牲にする生き方に対する、世の共感を掘り崩していくことも不可能なままだ。つまり、犠牲の気高さに対する通俗的な共感に対して、戦いの素晴らしさがもたらす解放感や視野の拡大を対置させていくことなど、到底できるわけないだろう。

保守や愛国者を自認する反ヘイトの活動家たちは、レイシストたちを、自らが自足する現存の(国民)社会を乱したり、その誇りや威信を傷つける社会の「異物」だと見なすからこそ、攻撃的姿勢を取って、彼/彼女たちをそこから断固として「排除」しようとしている。それに対して左派は、絶対にそんな姿勢でレイシストたちと関わることはない。彼/彼女たちは決して現存社会の異物などではなく、逆に差別や偏見や不平等に満ち満ちた、この社会がもたらした「産物」であるからこそ、それを無礙に外側に排除したりせずに、今ここで徹底的に「打倒」し(この言葉は誤解を与えがちだが、決して暴力を行使することだけを意味しているわけではない)、彼/彼女たちが自らの誤りに気付いて打ちひしがれ、二度と活動できない(する気が起きない)ようにするよう努めているのだ。そしてそこからさらに先に進み、歪んだ現存の(国民)社会自身の「解体」(=変容)まで目論んでいく。つまり、保守や愛国者を自認する者たちは、現存の(国民)社会の様々な側面のうち、その中に自足して普通の生を享受できるような面(たとえば治安のよさなど)には決して手をつけたりせずに、むしろそうした面を積極的に守っていこうとするのに対して、左派は逆に、まさに現存の社会のそうした面にのうのうと自足する姿勢こそ問題視するのだった。そんな姿勢は、現存の社会に組み込まれている差別や偏見をただ温存させ、その結果レイシストたちに栄養を与えることにしかならないから、まさにそれ(おもにマジョリティの生活意識)をこそ徹底的に解体して、別のものへと組み替えていこうと努めるわけだ。

繰り返しになるが、原則としては正しい左派特有のこうした態度も、こちらから自らでよりよき生を提示することができない限り*1、全く機能することができず、ただ空転する他ないのが問題なのである。

アカデミシャンとアクティヴィストの共犯と亜インテリ

なお、現在の左派を漠然と覆っている錯覚は、社会に対抗してよりよき生を目指すことが、そのままよりよき生の実現になると見なすことだと先に述べたが、その錯覚はより厳密には次の3つに分けられる。

1)現存の社会秩序に対抗し、よりよき生を目指そうとする姿勢を取ること自体が、そのままよりよき生の実現であるという錯覚。倫理的な姿勢を取ること=よりよき生の実現という短絡。

2)よりよき生の実現を目指して現存の社会と戦うことが、そのままで或る意味でよりよき生の実現になるのは、その戦いが、目指しているよりよき生の「先取り」的提示になるからだと見なす錯覚。よりよき生を目指して戦うことが、当のよりよき生の先取りとされるのは、その戦い自体がいわば「楽しい」からである。この戦いの楽しさや快楽を正当化し、根拠づけようとして、そこに、目指しているよりよき生の先取り的実現(「予示」)という意味づけが恣意的に与えられてしまう。戦いの快楽の享受=よりよき生の実現という短絡。

3)目指しているよりよき生がどのようなものか、またどのように戦えばよりよき生の先取り的実現になるのか、もはやわからないことを素直に認めたうえで生じる錯覚。何の見通しもないなかでも、現存のこの不正な社会に自足できずに戦わざるを得ないから、どうしても戦わざるを得ないというこの生の現実性を、そのままでよりよき生の実現と見なそうとしていくこと。より詳しく言えば、どうしても戦わざるを得ない生の現実をいったん受け入れたうえで、戦いの目標や正しい戦い方もよくわからないままでもとにかくその場でもがき続ければ、とりあえずテンションが上がってなし崩し的に生が別のもの(ヘンタイ)に生成変化していくから、この別のものへの生成変化自体を強引によりよき生の実現と見なそうとすること。これは、よりよき生を目指そうと覚悟し、決断しても、その覚悟や決断がただ空転するしかなかった事態を、居直り的に肯定していくあり方であると言える。よりよき生や正しい戦い方の不分明化を前にしてあがくこと=よりよき生の実現という短絡。

たちが悪いのは、以上のような実は錯覚でしかなかった見方を、左派系の学者たちが、最新の社会理論や運動理論として活動家たちに次から次へと勧めてくることだ。まともな活動家たちは、目の前の現実的な課題を解決したり、組織や運動体を維持させることの方が大切だから、あくまで学者の言うことは話半分で聞いて、彼/彼女たちが勧めてきた最新理論を、自分たちのやっていることを目新しく見せてくれるようにする、お手軽なコピーや意匠くらいにしか受け止めないのだが(こうした姿勢は明らかに不誠実だから、それはそれで大問題なのだが)、中にはそれをまともに受け止めてしまう者たちが出てくる。まさにそうした存在こそが、左派系の学者や地に足がついた活動家たちの周辺をたむろしている、政治運動をやっているのか自己表現活動や宗教的求道行為をしているのかよくわからない、つまりアクティヴィストなのかパフォーマーなのか修行者なのか不明なままの左派亜インテリたちなのだった。彼/彼女たちは、最新理論をただ輸入しているだけの学者たちの無責任な煽りをまともに受けてしまったから、目指すべきよりよき生や、現存社会との戦い方がもはやよくわからなくなってしまったという現実をいったん真正面から受け入れたうえで、それでも、というよりそれだからこそ、改めて真剣によりよき生を目指し、この糞ッタレな資本主義社会や日本社会と正面から戦おうとしたのである。当然彼/彼女たちの戦いは困難を極め、空転を余儀なくされるというよりは、正確には、もはや全く動きが取れなくなっていると言った方がよい。とはいえ、この動きの取れなさから始めるのでなければ、いったい、よりよき生を目指すために社会と戦うという、左派特有のスタンスを蘇らす作業はどこから始めていけばよいのだろうか? 確かに亜インテリたちが陥ったこの動きの取れなさは、よりよき生の実現どころか、保守や愛国者を自認する者たちが守ろうとしている、現存社会に自足した当たり前の生のあり方と比べれば、より悪しき生へと墜落したものであると言わざるを得ない。こうした生の墜落や疎外に対しては、従来は、生が足を踏み外してより劣悪な状態に陥ったからこそ逆により高貴な生が実現したのだなどと、ルサンチマン的な後ろ向きの価値転換によって居直ることしかできなかったのだが(というより、そのように居直るからこそ動きが取れなくなってしまったのだが)、それではいつまで経っても、戦うことによってよりよき生を目指す生き方特有の素晴らしさというか、肯定性を示していくことができなくなる。そのため、やはりこの、悪しき生への墜落状態である動きの取れなさという状態とはどんなものであるかをある程度探査したうえで、そこからどのようによりよき生を目指す生を新たに立ち上げていけばよいのか、模索していくしかないだろう。

*1:反対するなら対案を示せ!という対案至上主義に対する、それ自体としては全く正当な批判も、しばしばこの問題から目を反らすための役割を果たしがちなので、一定の注意が必要だろう。