外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ミクシ日記より

友人からミクシ日記にコメントしてくれと言われたんだけど、いつもの癖で泥沼モードになってしまったので、ここを借りマス。

元の日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=789308607&owner_id=15165943

日記の内容は一言で言えば、「クリエイティヴイデオロギー」という恐ろしい言葉を知ることによって、自分が蓮実重彦(ハスミン)流のハイ・アート志向、卓越性志向にどう騙されていかたかが初めて分かったという感じかナ。ちなみに「クリエイティヴイデオロギー」というのは、現代では多くの若者がクリエイティヴな表現欲求や自己実現欲求に駆られて、アート系の専門学校や大学に言って種々のアーティストを目指すようになったんだけど、結局はその殆どがモノにならないから、ただ底辺の不安定な非正規労働に追いやられ、バカを見るだけになるという事態を表した言葉のことデス。つまりこの言葉は、ポスト・フォーディズム体制下での資本が、若者たちのクリエイティヴ信仰を煽って言わば騙すことによって、体制維持に不可欠な、使い捨てられるだけの不安的な非正規労働者プレカリアート)を絶えず新たに供給し続けているというカラクリを指しているわけですネ。

で、この友人は、「才能の名の下で競い合うのがゲイジュツであり底から落とされた匿名のものたちによって文化が形作られる」などと自分に言い聞かせながら、もはや特権的な卓越さなど求めず、別に凡庸でも素人でもとにかく表現すればいいじゃないかと納得しかけるんだけど、こういう凡庸性に居直る納得の仕方自体が、しょせんはクリエイティヴイデオロギーの圏域に内にあることに気づき(彼の言い方に従えば、「ハスミン選民的批評か東京モード学園的なイデオロギーか」という袋小路)、

凡庸なとこからはじめざる終えないわけで
まあ、各自そういう紋切り型(文化イデオロギー)とよりそいつつもそこからどうずれるかということでしょう
でもこういう言い方もいかにも80年代的だなあとわれながら思ってしまいました。

と、結局ひとりごちることしかできないまま、選民的な卓越性志向から自由になれずに話が終わっていくわけデス。

で、次以降がこれに対する返答デス。

クリ・イデはアート界自身にとっても大迷惑

なんか、「卓越性/凡庸性」、「プロ/素人」(「ハスミン/東京モード学園」)という、自らが設定した対立図式に囚われてしまい、そこから自由になれてないような気がするなぁ。自分がクリエイティヴイデオロギーというものにわりと肯定的なのは*1、この図式に即して言えば、まさに劣位に置かれた「凡庸性」「素人」というものの側に、新たにもう一つの分断線を引いていく可能性があるからなんだけど(そちらの言葉で言えば、「ゲイジュツ/文化」の間のそれということになるのかナ。またこの線引きは、凡庸さから単に「ずれ」ていくということとも、また違うと思う)。くどくなるけど、このことについて以下で説明しますワ。

そもそも、クリ・イデなんていうものは、アートやデザイン(アルチザン)の世界自身にとっても、個性信仰や表現欲求や承認願望ばかりが強くて、大した才能もなく、最低限のスキルすら身につけていない、まったく使えない勘違い野郎どもを大量生産することしかしないから、当然もっぱら噴飯ものでしょう。この種の勘違い野郎どもは、表現したいものが特にないのに表現欲求だけが強い自意識過剰な奴か、逆に表現したいものがすでに固定化して、それをひたすら垂れ流すことしかできない、批評性ゼロのナルシシストのどちらかでしかないと、怒ってやまないでしょうネ。けど噴飯ものなのは、あくまで、むき出しの市場競争と一体化した制度化したハイ・アートの世界や、クールなビジネスの論理と、厳しい品質管理の思想に貫かれたエンターテインメント(商業アート)の世界にとってのことであって*2、当然クリ・イデにかぶれた勘違い野郎どもは、そんな世界では全然通用しなかったり、まったく使えなかったりするから、すぐにはじかれ、自ら「降りて」いかざるを得なくなって、心配しなくてもプロたちの世界からさっさと消えていくことになるでしょう。

インディーズからアート・アクティヴィズムへ

そして、この勘違い野郎どもが降りた先に行き着かざるを得なくなるのが、制度化された(ハイ&商業)アートとは区別された、(単なる「政治」だけではなくエコ志向やスピ志向まで含めた)広義の意味での「アート・アクティヴィズム」の世界になるのだと思いマス*3。もちろんこういう世界は昔からあって、かつては「インディーズ(独立系)」と呼ばれたりしたわけですが*4、クリ・イデはこの世界に大きな変化をもたらす可能性があるような気がしてならないんですヨ。というのは、

(1)勘違いしてプロのアートの世界に入ろうとしてやけどし、いわゆる「アート難民」になってこの世界に流れてこざるを得なくなる者の量の飛躍的増大。
(2)クリ・イデによるアート難民は表現欲求や承認願望が凄く強いから、たとえアートを何らかの思想やイデオロギーの実践&実現するための手段にしたとしても、決してそれらにアートを完全に従属させてしまうことはなく、あくまで表現することの喜びや承認されることの快感を手放そうとはしない。

という二点が、今までの「インディーズ」の世界にはなかったわけですから。

従来のインディーズの世界って、破滅型の芸術至上主義のノリか(たとえ誰にも理解されなくても、ストイックに自分が信じた表現やスタイルに忠実になり、結果として身を持ち崩していくパターン。「反体制」の単なるスタイル化)、プロパガンダ的硬直化のノリ(芸術表現が特定の思想・イデオロギーを伝えるためのメッセージや、それらを訴えるためのスローガンに矮小化されていく)しかなかったんですが、クリ・イデのおかげで、表現することや承認されることの喜びを素直に肯定して、それらを体験することで何らかの政治的・エコ的・スピ的価値の実現し、そのことを通してよりよく生きていこうとする、別のタイプの者が増えてきたような気がしマス。特にそこでは、「価値実現」(思想やイデオロギー)と「自己価値化」(実存)とが硬直化することなく結びついてるんですが、それって決定的なことだと思うんですヨ。もちろんこういうあり方も、プロの(ハイ/商業)アートに属する者からすれば、大した才能も、そこで通用するだけのスキルも持っていなかった「アート業界負け組」たちの、単なる自己満足やナルシシズムの垂れ流しにしか見えないんでしょうけど。

で、こういうタイプの「アート難民」たちの規模の量的拡大は、主流アートとインディーズとされた世界との関係をも大きく変えていかざるを得なくなると思いマス。従来はインディーズというのは、あくまで主流アートに付随するものでしかなく、ひっそりとその「影」や「地下」(アンダーグラウンド)に息づいてたのに対して(「カウンター・カルチャー」として)、クリ・イデにかぶれた「アート難民」が多くなると、もはや「影」や「地下」ではなく、主流アートとははっきりとは「別の」領域と化し、そこから自立していくでしょう(「カウンター・カルチャーのオルタ・カルチャー」化)。こうして、主流アートに付随するだけだったインディーズの世界が、「もう一つの」領域として自立した「アート・アクティヴィズム」に変貌していくのでは?

68年革命のインパク

で、そもそも、糸圭秀実氏の言う「68年革命」って、まさにこの種の、アート業界「負け組」の「アート難民」によってオルタな表現世界が立ち上がっていくことだったんじゃないですか。この68年革命によって、勘違いした(運動にかぶれて下手にドロップアウトしてしまい、堅気の実業世界に最早帰れなくなってしまった)大量の亜(自称)アーティストや、そして亜(自称)知識人が生まれたわけなんだけど、当然彼/女たちは大した才能や能力もなくて食えなかったから、70年代になると、仕方なく生活のために、成功した一部のビックネームの(ハイ/商業)アーチストたちの仕事の裏方や下請けを引き受けざるを得なくなった。こうして彼/女たちは、しのぎ仕事として主流のアートやエンターテインメントを支えはしたんだけど、しかし本心としてはそれらを強く軽蔑して、そういうものに対抗するため、心意気だけはラジカルな反体制的な表現活動を休日に追求してたりした。これが「インディーズ・シーン」のおおよその起源だと思うんだけど、ここで表現していた者たちの意識って、ずっと分裂状態のままだったような気がするなぁ。オレたちの心意気は純粋で嘘がないかも知れないが、肝心の表現内容やテクの方はしょせん(主流のアート・シーンからすれば)2流に過ぎないと。もっと言えば、オレたちはアート表現に思想やイデオロギーを持ち込んだ、メッセージ性の強い活動をしてるけど、そういうものってしょせんアート表現としては2流のものに過ぎないサと、彼/女自身が自らに言い聞かせて勝手にイジけてたような気がする。やがて80年代になると、様々なインディーズのシーンからハイ・アートや商業アートの世界でも通用する新しい者たちが出てきたけど、その種の者たちってもっぱら表現スタイルの斬新さで評価されたのであって、決してその思想性やこころざしの高さで評価されたわけではなかったしネ(むしろ、そういうものを意識的に消去した者の方が歓迎されたわけだし――カウンター・カルチャーと区別された、日本的なサブ・カルチャーの成立)。

こうして、主流のアート・シーンを下支えしてきた亜アーチスト(亜インテリ)たちは、(主流アートと、インディーズ・アートとの間での)疎外された意識に絶えずさいなまれてたと思うんだけど、一方、クリ・イデにかぶれて、テクはないけど自己表現欲求だけは一人前に肥大化させた新しいのアート難民たちは、もはやもうまったくの役立たずで、すでに主流アートの下支えすらできないから(むしろ「東京モード学園イデオロギー」というのは、あくまでこの下支えを我慢してやり続けろと説くものでしょう)、後はただ「降りて」、プロでも、それと対比されたただの素人でもない、生きる(生きのびる/よりよく生きる)ことと表現することとが一体化した(いわゆる「下流」の?)ライフ・スタイルを模索していくしかなくなる。これが、現代の「アート・アクティヴィズム」の世界の中をたむろする、「卓越した才能を持ったプロ」に従属した単なる「凡庸な素人」とも異なった、もう一つの「素人」のあり方だと思うんですけどネ。クリ・イデは、まさにこの種の、勘違いすることによって道を踏み誤った別の「素人の氾濫」(大量発生)をもたらすことになるから、それがやがてはいわば「素人の反乱」となって(高円寺の同名の店がこういうコンセプトに基づいてるかどうかは知らないけど)、大きな変動をもたらしていくことになるんじゃないでしょうか。だから自分としては、人を踏み誤らせるという大きな副作用を知りつつも(当然自分自身もそれにヤラれたわけですヨ)、わりとクリ・イデというものを肯定的に捉えてるんですけど。

ハスミン呪縛とは?

で、こういうアート・アクティヴィズムの世界にうまく「降り立つ」ためには、くだんのハスミン的選民批評の呪縛を解かなければならないわけですが、それってかなり発想の転換が必要になると思いマス。

そもそもハスミン的な選民批評って、プレシューなサロン空間でのウィットさを競ったやりとりの現代版と言え、美意識を洗練させることによって、予定調和的な結論や安定した体系に自足しがちな知に揺さぶりをかけていくことなのでしょう。一言で言えば、美意識の洗練化による知的先鋭化の試み。そして、そこでは美意識の洗練と知の先鋭化との相互亢進が起こるのが理想とされてましたよネ。また、ただの知だけでは捉えることができない現実の深い変化なるもの(ポストモダン化?)を、美意識の洗練を介して掴むことができたと称する者だけがやたらエバってました。

もちろんこういう美と知との関わりはそれなりにアリだとは思いますが、結果としてそれが醜悪な卓越化のゲームになってしまったのは、彼らの現実認識に基本的な問題があったからでしょう。その現実認識というのは、だいたい、資本主義による疎外というか生の捕縛があまりにも深いため、最早それに対して抵抗する可能性は皆無だというたぐいのものだったと思うんですが(これって、もはや「外部はない」と強調する「生権力」をめぐる最近の議論と基本的に変わりませんネ)、そこからさらに一歩踏み出して、…それゆえあらゆる抵抗は倒錯して最悪な暴力しか生み出さず、そのため我々の生を疎外するこの無慈悲なシステムと永遠にシニカルに戯れ続けることしかできないと、勝手に意気込んでしまった。これがよくなかったですネ。全面的な疎外を生んだとされる高度資本主義を支持しているのか反対しているのかよくわからない、それこそ「決定不能な」(!)外観を維持させ続けることこそがカッコよくて誠実なことだと、みな勘違いすることになってしまいましたから。結局、決定不能性にあくまで留まるゾというこの意気込みは、ただのアリバイと化して、知の先鋭化と美の洗練化と間の相互亢進の卓越化のゲームにいつまでも専念できることを、もっぱら正当化することにしかならなかったと思いマス。それにしても、この罠にハマって、人生を棒に振ってしまった者が何と多かったことか…*5

ハスミン呪縛の解き方

それでは、こういうハスミン呪縛の解き方を示すことにしマス。

(1)「大きな物語の終焉」などというヴァカなイデオロギーを信じるのをさっさとやめて*6、強いバイアスがかかった特定の価値観(政治的イデオロギーや宗教的世界観など。今はその内容は問わない)を正直に受け入れること(その受け入れ方には、全面的なコミットメントやリスペクト、単なるシンパシーなど色々あるが、同じく今は問わない)。その際、別にM台先生流にカッコつけて、「敢えてベタに」などと嘯く必要はない。どうせ、何のよりどころもないまま切羽詰まって動きが取れなくなってるんだから、さっさとそういうものにしがみつき、少しでも動けるようにした方がよい(こういうふるまいは、今風に言えば「決断主義」とすぐに決めつけられてしまうのだろうけど)。

(2)クリ・イデによって強化された、自らのうちに巣食う自己表現願望や被承認欲求を素直に肯定していくこと。素直に肯定しないから、逆にそれが屈折して代償的な幼児的万能感に足を掬われてしまい、際限なく欲望が肥大化して収拾がつけられないことになる。またこの肯定は同時に、自らのつたない表現を喜び、自分の存在を認めてくれる身近な他者を大切にしていくことを意味してもいる。ただ、この他者との関係の質を確保するのが大変難しいのだが…。同病あい哀れむということで、ただ傷を嘗め合う関係になるのもマズイし、類は友を呼ぶという感じで、キビしい者やイタい者どうしでツルむだけになっていくのもヤバイ。とはいえ、宇野常寛氏が勧めるように、この他者を実際の地元つながりの人々に限定してしまう必要も別にないのだが…。

(3)アート表現より生の方を優先させること。あくまでアート表現を、自らの生を充実させるための媒体と見なすこと。これはアートというものを、はっきりと自らの癒しや慰めやうるおい、あるいはより集団的に、人々と喜びを分かち合い連帯したり、さらには人々を解放し救済していくためのものとして位置づけることを意味している。一言で言えば、アートをよりよく生きるための武器の一つにすることである。これは、卓越しているとされるアート表現をただ誉めそやし、持ち上げる態度とは厳しく対立する。

アート・アクティヴィズム的人間の誕生?

ここで重要なのは、上の3つのうちのどれか一つが欠けてもヤバいという点デス。ただ特定の価値観を受け入れるだけだと、ヘンに「正/邪」の区別にこだわるようになって、やたらいがみ合うようにしかならないし、また、自分の表現を受け入れ承認してくれる身近な他者を大切にするのに終始すると、狭い人間関係や小さな集団に自足するだけになって、悪しき蛸壺化(島宇宙化)を促進することにしかならない。そして、よりよい生き方を、ただそれだけでがむしゃらに求めると、必ず孤立してすべてが空転し始め、すぐに行き詰まってしまう…。

というわけで、この3つが揃って初めてアート・アクティヴィズム的な生き方が可能になるわけですが、特にそこで中心的な役割を果たすのは、身近な他者に何らかの表現をして承認される喜びの体験だと思いマス。多分この体験が優れた蝶番となって、何らかの価値を追求・実現することと、よりよく生きようとすることとが無理なく一つに結びついていくのでしょう。ただ、そこでの他者との質のよい関係を確保するのは大変難しく、(敢えてこの言葉を使いますが)フレキシブルな人間関係の中でこそ現れる、独特の親密さ(もううまく表現できない!)というものが実現されないと、すぐに同じ価値観を持つ者どうしで凝り固まったり(集団的分極化)、身近な人間関係にべったり安住するだけになって(小集団化)、関係を開いていく相互触発が起こらなくなってしまいマス。するとたちまちのうちに、生きる/生き方が変わっていくという肝心の契機が抜け落ちていくことになりマス(後は退屈だが気楽な停滞あるのみ…)。この契機が抜け落ちずに、特定の価値観を追求することと、他者に承認される喜びとを通して繰り広げられる、アート・アなのクティヴィズム的人間特有の生のあり方というものの解明は、まだこれからの課題なのでしょう。

現代の「批評」に求められるものとは?

また、現代の「批評」というものに求められるのは、決して、市場の熾烈な競争と一体化したハイ・アートの卓越化のゲームの後を追ったり、それを煽ることでもなく、あるいは、工学的品質管理の導入や、ビジネスの論理の貫徹によって逆説的に可能になった、エンターテイメントの世界の大胆で自由な実験を一方的に持ち上げたり、勝手に深読みすることではないと思いマス。ハイ・カルチャー志向と商業志向しかないというのでは余りにも淋し過ぎますからネ。そいう制度化されたアートやエンターテインメントの世界に入れなかった、もしくはそこからこぼれてしまった者たちが行き着いていく「アート・アクティヴィズム」の世界特有の、(政治的・エコ的・スピ的な)特定の価値の志向や、上に見たような、よりよい生き方の追求と否応なく一体化した独特のアート表現のあり方をこそ解明したり、あるいは、制度化されたアートと「アート・アクティヴィズム」との間に存在する亀裂をこれからはっきりと可視化させていくことが、何よりも重要なのでは?

最近では特にハイ・アートの世界で、特定の価値へのコミットメントや、自らの生き方の追求を前面に出したものが評価されてるみたいですが、それはあくまで、「アクティヴィズム」性が卓越化のための単なる「箔」として使われているだけでしかないから、アート・アクティヴィズムの形態としては極めて不十分だと思いマス。もはや卓越化(有名化)を求めたり、自らの凡庸性(無名性)にいじけたり居直ったりすることのない、特定の価値実現のための集団的なプロジェクトや、表現したり承認されたりする喜びの輪の連鎖の中に自ら進んで埋没して匿名化していく、アート・アクティヴィズム特有の表現の仕方をはっきりと打ち出していくようにしなければ…。

いいわけ

以上の主張は、高祖岩三郎氏の「アート・アクティヴィズム」や、特に「万人アーティスト説」*7についての議論を参考にしたものデス。というより、ただのそのパクリと言っても過言ではありません。

また自分の主張は、制度化されたアートや、コンテンツ・ビジネスの内部にあくまで踏みとどまり、何とかそこで頑張っている者たちからすれば、やはり噴飯ものなんだろうなぁ。お前は、アート表現というものをただのプロパガンダかセラピーに還元する気かと問い詰められるかも。けれど自分としては、まさにプロパガンダとセラピーとが統一されたような境地を、アートのある種のあり方に求め、それに取りあえず「アート・アクティヴィズム」という言葉を当ててみたのが正直なところだったんですけど…。そもそも、アートを介してプロパガンダとセラピーがいっきに結びつくという境地を初めて垣間見せてくれたのが68年革命であってして、自分としてはそういう境地の本性や、その歴史的類型や固有の問題史が今までまともに分析されたことがないから、不満で仕方がなかったわけなんですが…。

あと、今回のエントリーはオプティミスティックな論調に終始しましたが、本来は相当ペシミスティックに考えてマス。そもそも、プロパガンダとセラピーの統一などというヤバイ境地を扱うには、ペシミスティックなスタンスでしかあり得ないでしょう。というのは、この境地の性急な希求がもたらした挫折や袋小路をいったん経験しなければ、それ固有の問題点や可能性など見えてこようがないわけですからネ。ホント自分は、こういうところにしか「希望」というものは宿らないのだと普段から確信しているんですが。――けどこんな言い方をすると、すぐに、それって中央線沿線やゴールデン街で夜な夜なクダを巻く、まだ挽回のチャンスがあるというはかない希望を手放せずに、ますます自らの挫折に酔いつぶれていく醜悪な者たちといったいどこが違うのかい?と突っ込まれてしまいそうですナ。が、まさにこういう者たちの境地にこそ新しい言葉を与えていくというか、それを新たに昇華していきたいと自分は思ってやまないのですが…。

*1:ちなみに、否定的に見られがちなクリエイティヴイデオロギーに対する肯定的評価は、すでに上野・毛利『実践カルスタ』(筑摩新書、02年)220〜3頁でやられてましたが。

*2:そういうところからひたすら彼/女たちに苦言を呈したものとして、大野佐和子『アーティスト症候群』(明治書院、08年)がありマス。

*3:自分としてはこういう言い方をすることによって、明確な政治活動と同一視されがちな「アクティヴィズム」という概念を、社会や自分自身のあり方に何らかのかたちで積極介入することによって変えていこうとするという、ヨリ広い意味に拡張したつもりなんですが。

*4:「インディーズ」という言葉はおもに音楽というジャンルに対して使われた言葉だから、それをアート表現一般に拡大して適用するのはチト無理があるけど。特に美術(ファイン・アート)の世界は、食えようが食えなかろうが、とにかくプロと素人との間の厳然とした区別しか存在しないような気もする。

*5:最近は、M台先生や東先生に関しても同じようなことが言われ始めてるようですネ。例の「ゼロアカ批評」も、新たな卓越化のゲームを煽るだけにならなければよいのですが…

*6:このことの言い出しっぺであるリオタール自身は、その後に到来するとされた、ミニマルな「異議申し立て」(クレーム)が世界を覆う一種の黙示録的な光景に人々が耐えられるよう、そういう光景を美しいと思える美的感性の涵養に賭けていたわけだから、決して単純に「大きな物語の終焉」を唱えていたとは言えないなぁ。むしろ彼は、今風の言葉で言えば、クレームが蔓延した「クレーム社会」の到来という「大きな物語」を強く信じていたとさえ言えるかも。

*7:実質的に本エントリーは、高祖氏の次の議論の注釈というか敷衍でしかなかったと言えマス。《「アート=制度」 の中では、ほとんど何が起こっても驚くことがないような予想、そして何を見てもどこかで見たことがあるかのような既視感が、ニューヨークの (そしておそらく世界の) アート界に蔓延している。その意味で 「アートはつまらなくなった」。アートに稀少価値を見ようとする人々にとっては悲劇であろう。だが他方で、それは同時により重要な社会的変化の印でもある。文字通りに誰もがアーティストになりうる/なって来ている状態、つまりアート界が象徴的に示す労働の非階層序列化である。増加し続けるアーティストたちによる増加し続ける新たな実験は、究極的には「作品の凡庸化」とは直接関係はない。それは「百花繚乱の印」たりうるのである。われわれはこの状況を用心して見守らねばならない。/われわれは作品固有の質とそこから来る感動を捨て去るわけには行かない。それは重要なこととして残り続けるだろう。だがアートという容器が拡張の果てに飽和状態に近づいている今日、「作品」 の単独性が――個々の作品の優劣とは別の次元でまた物体至上主義を超えて――究極的に示しているのは、「共通なものを開発する労働」であり「それ自体が喜びである労働」、つまり「共産主義の理想」ではないか? それに向かう希望と趨勢を体現しているのは、もはや数人の有名アーティストではなく、無数の無名アーティストなのである。アートは「世界変革運動」に近接しつつある》(高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』青土社、06年、509〜10頁)。