外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

決意表明というつぶやき

ブログを書く理由を最初に決意表明的に高く掲げ、自らに気合を入れようとするのは、典型的な書き続けられないパターンだと、ドリル氏に言われた。また、言表内容(言っていること)と言表主体の立ち位置や欲望との間のズレに、どれだけ敏感になって意識化できるかに皆日々精進している「はてな」の言説空間の特徴からすれば、そういうのは余りにもナイーブかも知れない。でも、敢えて書く。

決意表明!

もう初老だというのに、本どころかロクな論文一本も書いたことない…。まあそれでもいいかと思っていたところ、去年から今年にかけて、チっとはしのぎ先の仕事で人並みに稼げるようにとした努力がすべて裏目に出てしまい、今や完全に窓際状態。しかも悪いことに親父が急に倒れ、この先マジで不透明になっちまった(特に金銭面のこと考えるとゾッ…)。

で、この親父(ついでに母親も)、アーチストのなり損ないというか、崩れ、なれの果てで、そのさま見て育ってきた自分は、ああオレは、革命だ前衛だと言って舞い上がり、ヘンなエアポケットに入って行き場をなくしてしまったコイツらの、後始末というか尻拭いをやらなければならないんだナと何となく思ってた。かつて大学院に行き損ない、代わりにどうにか就けた編集の仕事も実質すぐクビになり、最近は予備校の仕事も査定が悪くて先細る一方だったので、その思いはゆるやかに強まりつつあったんだけど、ここへ来て、正直ガチに追い詰められたワ…。

というわけで、このブログは、ボヘミアン的実践に何らかの前衛性(美的、政治的、それからスピ的?――当然これらを安易に一緒くたにするナという声もあると思いマスが…。ていうか、これら3つを自覚的に一緒くたにしたのが、むしろ典型的な20世紀的ボヘミアンの姿なのかも知れない)を読み込んで勝手に突っ走り、しめしが付かなくなってしまった人たちの生の軌跡(実存様式)と、前向きで望ましいその落とし前のつけ方(オルタな「生存の美学」?「自己の倫理」?)について解明していくためのものデス。つまり、そういうことについて(「生きた証」として?)何とかまとまった文章を書くためのメモ、ノートなわけなんデス。

ボヘミアン崩れって?

で、こういう問題意識って、フツーはウェルベック素粒子[asin:4480421777]なんか典型だと思うけど(って、まだ読んでないんですが…)、68年革命の挫折やその皮肉な結果(受動革命:資本主義に対抗するかたちで欲望の全面解放目指したら、逆に資本主義の方がそれを取り込んで自らの駆動因としてしまった云々…)に対するニヒッった意識をただ亢進させていくことにしかならないんですよネ。80年代的な「ポストモダニティ」(思想としての「ポストモダニズム」と区別するために、社会状況や社会意識の方を指すときは、以後この言葉を使いマス)特有のシニカルな意識の出所って、多分ここら辺だったと思うんだけど、自分としては逆に、行き場をなくしてしまった人たち固有の空回りや停滞の経験を、そこに孕まれたものの可能性を未来へと開発していくというかたちで、ポジティヴに生かす仕方を考えていきたいと思っている訳デス。

(ちなみに話ズレますが、上の「皮肉な結果」に対してニヒることなく、逆にそこに希望を見出そうとしたのがハート=ネグリですよネ。また彼らのこのモチーフを全面展開させることによって、リベラル保守の思想を更新しようと目論んでいるものに、橋本努『帝国の条件』[asin:4335460279]がありマス)。

最近では、ポスト・フォーディズム体制化における中流階級の分極化に応じるかたちで、カタカナ業界(知識産業&情報産業)の下層化が著しいので、その種の労働者を新たに名づけることばが出てきました。下流インテリと訳された「アンテロプレケール」*1しかり、上で触れた「受動革命」の結果生じた「ボボズ」(ブルジョワボヘミアン)の(再?)窮乏化を表している「ダンビー」(下降移動しつつある知的専門職たちの群れ)しかりデス。

で、自分の言う「ボヘミアン崩れ」と、これらの新下層階級の関係というのは、中々錯綜していマス。

典型的な「ボヘミアン崩れ」というのは、70年代に、学生運動が高揚した後、居場所がなくなって仕方なくアングラ文化産業や新興の教育産業に従事しながら、消費社会化や偏差値社会化に反撥しながらもそれらに現場で加担し、コジれていってしまった人たちだと思いマス。

ところがこれ以降も、たとえば80年代的なサブカルにハマって美的・知的先鋭性を目指して行き詰まり、メンヘルになってしまった人々や(≒自分)、さらに90年代後半のストリート・カルチャーにハマって(取り敢えずその代表は、出版そのものは90年代前半だけど、鶴見済氏の『完全自殺マニュアル[asin:4872331265]ということになるのかナ)、コンサマトリーな快楽を大胆に肯定したり、単なる個人的な実感を、「僕たちにとってのリアル」だなどと嘯きながら突き詰めっていった結果、島宇宙的な個人妄想の外に出られなくなって孤立し、常に欝と戦わざるを得なくなってしまった人々など(鶴見氏も、こういう人たちの存在には責任の一端を感じるなぁというようなことを言ってました、確か)、まだ色々いマス(ちなみに00年代の文化に煽られた人たちは、これからどうなるんでしょうネ?)。

多分これらの(異なる世代の)行き場のなくなった、中途半端でショボい文化資本を持て余している人たちの流れつく先が、現在、客観的に(日本版?)アンテロプレケールというかたちとして表れているのでしょう。

…いやこれではまだ不正確だ…。アンテロプレケールというものを一枚岩的に捉えてるだけに過ぎない…。

うーん、運動論的・実践的により詳しく言えば、現在、物質的窮乏化に直面化することでコジれてしまった若者たち(その代表が赤木智弘ということになるのか?)に新たに手を差し伸べようとしている側(元気を取り戻しつつあるサヨク?)が、すでに今までの運動で色々精神的に傷つきコジれているのは確実なのだから、新たに窮乏化した若者たちを性急にこっちの味方につけようとする前に、自らの足元を見て体勢固めをするためにも、自分たちが「ボヘミアン崩れ」でしかないことを深く噛み締める必要がある、という感じになるのかナ?(あるいは言い換えれば、糸圭秀実の言う「プチプル急進主義」を、その影の面を反動化に陥ることなく弁証法的に想起していきながら継承・変形させていくということになるのか?)

とはいえいずれにせよ、「ボヘミアン的実践」やその「崩れ」と言っても、まだあまりにも雑駁なので、さらにその中身を詳しく分節化していく作業をしていかねばならない…