外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

幼稚さと絶望、あるいはそれらの分けがたさについて

前回のエントリーの続きです。

「書き込み、誰も見てくれない」
http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806110311.html

ネット犯行予告、警察通報を期待
http://mainichi.jp/select/today/news/20080612k0000m040171000c.html

何この孤立スパイラル…。どうしてこんな素直な奴が孤立しなければならないのか。というより素直だから孤立してしまったのか。あるいは、孤立したからこそ、こんな素直な反応しかできなくなるのか。どうも、自殺したた女性アナは前者に、この容疑者は後者のパターンに陥っていたような気がしてならない。ちなみに容疑者が実際に物理的に孤立を強いられていたことは、すでに方々でリンクが張られていた、

人間までカンバン方式
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610

を参照(トヨタですか、やっぱりそうですか…)*1。正直言って、こんな素直な奴にはこっちも素直な共感しかできなくなる。凶悪な犯罪を犯したことに対する度し難い許しがたさと、この素直な共感との間とのギャップ、両立のし難さはもはや誰も埋めることができないのでは? せめて、このギャップに対する適切な耐え忍び方を誰かに教えて貰いたい。

さらに、今回の事件を契機にして、政府も派遣規制緩和見直しに本腰を入れ始めたようだ(6・12『朝日新聞』朝刊14版社会面「派遣規制見直しに言及:官房長官」、ネット上では見当たらず)。これまたやりきれない。地道な社会運動よりも、こんな悲惨な事件*2の方が政治を動かしたなんて…。

幼稚さと絶望

…と、こんな感想をうつらうつら感じていたら、さっそく東浩紀氏が今回の事件について新聞で発言していた。ちょっと早過ぎるような気もしたけど(6・12『朝日新聞』朝刊「絶望映す身勝手なテロ」*3)、これを一読した感想は、社会的地位のある大人としては大変常識的なもの言いだけど、ギャップの耐え方に関しては正直何も役立たないなあ、という感じだった。東氏は容疑者の言動をさっさと「幼稚」の一言で片付けてしまい、そういう幼稚さと、彼が抱いた「社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒り」とはあくまで分けていくべきだと主張している。すなわち、「その幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない」と。そのうえで、容疑者に対するネット上での共感に関しても、「ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ」という一言で切り捨ててしまった。うーん、そうなのかぁ…。東先生自身も、「ギブアップ!」という感じで性急な切断操作を行ってしまったような気がするなぁ…。容疑者の度し難い素直さを、「幼稚」の一言で片付けてしまうことに対して違和感を感じたのはもちろんなんだけど、それよりも、その幼稚さと、社会に対する深い絶望との間には何ら関係がないのだと即断してしまうのは、正直言ってどうなのかなぁ…。なんでこんな即断ができるのかと言うと、どうも東先生にはオタク層とプレカリ層との間の深い繋がりが見えてなかったみたい。いわく、「アキバ系と言われる若者文化の担い手と、絶望した労働者やニートの層は、意外と重なっていた」。え〜、重なっていたのは「意外と」なのかぁ? 階層や階級の方から見ていけば、オタク層とプレカリ層が重なっていかざるを得なくなるのは、かなり明白な事実だったと思うんだけど(まさに赤木智弘氏が、このことを象徴的に体現していたわけだし)。だから自分としては逆に、東先生からは「幼稚」に見える容疑者の素直さと、社会に対する「空恐ろしいまでの絶望や怒り」との間の深い繋がりの方に目を凝らしていきたいですね。やはりどちらも、社会に追い詰められることによって形成されたものだから、その繋がり自身も、簡単には切断操作できない、すでに確固とした社会的産物と化しているのだろうから。そもそもこういうところから始めなければ、当の社会に対して何も働きし返していくことができないと思うし。

東先生の作風

…と、ここで話がズレて、東先生の作風に対するいちゃもんを少し。そもそも東先生が持ち上げる、オタクたちの「萌え」というもの自体がきわめて「幼稚」なものだったと思うんだけどなー。いたいけなキャラのうるうる眼にいったんときめいたら、後はそのときめきをいつまでも反復して、心地よさに浸ろうとうするのが「萌え」という状態(の典型)なわけだから、それは幼稚なものというか、むしろ人を永遠に中二病状態にとどめるものだと思う。そんなものを自らで持ち上げながら、いざ典型的なオタク的な言動をした者に対して「幼稚だ」の一言で切り捨ててしまうのは、果たしてどうなのかなー。

ていうか、東先生の作風っていつもこのパターンなんだよね。「萌え」を持ち上げる自分の評論活動が、世間に対して中二病の蔓延をもたらしてるのを絶対に否認してやまないというか。彼の最新作『ゲーム的リアリズムの誕生』なんかその典型であって、萌えた人間の心理や内面には絶対に踏み込まず、萌えを効果的にもたらすゲームの、メタ・フィクション的で複雑な仕掛けばっかり分析して、あたかもそういう仕掛けに通暁すれば、ベタなオタクたちにもメタな批評意識が得られて、中二病が免れるはずだと言わんばかり(本当にそうなんですかねぇ…)。この著作は、萌えた者たちの(ポストモダンの)「生と実存の問題にはほとんどふみこ」めない(23頁)と言い訳しながらも、結局は最後に少し踏み込むんですが、そこではもっぱら、萌えるヘテロ男たちの、マッチョな「父になるつもりはないけれどオヤジ的な欲望は抑えられない」(316頁)という、幼稚で自己欺瞞的ないわゆる「ダメ」の論理が上から目線で叩かれるだけ。これって結局、自分が出発点としている萌えって、実はしょーもなくて幼稚なものだとしか本人は見なしてないんだけど、その幼稚さを、萌えの心理や内面の内側からダイレクトに乗り越えていく仕方がまったくわからないから、そんなことをベタに言ったら元も子もなくなるので、萌えって幼稚だとストレートに言うことができない、というジレンマを示しているんじゃないんですかね? そう言わないための一種の時間稼ぎとして、ゲームの複雑な構造に関する洗練された分析が積み重ねられていったというか。というわけで東先生は、オタク的な萌えは幼稚なものでしかないと一方で見なしておきながら、ひとかどの「萌えの思想家」としてそれをストレートに認めることができないから、今回の事件のように、(本人にとって)オタク的な幼稚さがあからさまに現れたようなものに接すると、思わず否認の機制が働いて、今回の件ではその幼稚さは事態の本質に関わるものではないと、慌てて切り捨ててしまったのかも。

うーん、そんな姑息なことしないで、ストレートにオタクや萌えの実存に踏み込み、幼稚でしょーもないと思われる面の克服の仕方について考えていって貰いたいよな。もちろん、ベタにその実存に踏み込むとロクなことにならないというのもよくわかるけど(上述の本の最後に出てきた、自己欺瞞的な「ダメ」の論理に対する批判って、そういうことについての弁明だとも受け取れるし)。たとえば、彼の一種の分身である本田透って、まさに萌えの実存にダイレクトに踏みこんでいったわけだけれども、結局は、当人の主観的印象や実感をただ性急に一般化することにしかならなかった。ちょっと哲学的に言うと、実存そのものの構造を解明する、冷静な「実存論的」分析を求めながらも、実は本人の実存の経験をそのまま吐露して一般化しただけの、パセティックな「実存的」分析にしかなっていないというか。けど、こういう個人的な経験の性急な一般化って、一般受けするんだよなー。その典型としては岸田秀の「唯幻論」というのがあったけど、本田透の「脳内恋愛論」ってその直接の後継者なんだろうね(って、こんなことはもうとっくに指摘されているか)。いずれにせよ彼の議論を読んでると、「どうしてこれって凄いんですか?」という理由を聞いてるのに、ただ「これこれは自分にはこういう風に見えて、自分にとってはこんな意味があるんだ」と、個人的なこだわりばかりがマシンガン・トークでまくし立てられて、肝心なことが煙に巻かれてしまう、スカされた感じがするんですよネ。ホント、ちゃんと一回萌えというものが凄い理由をきちんと知りたいですよ。

「だめ」と「ダメ」

さて話を元に戻すと、今度は一転して今回の事件の容疑者をつき放すことになってしまうけど、彼のようなタイプの男性って、10年前だったら、メディアに出た「だめ連」のイメージに魅了されてその交流会に参加し、そこで確実にセクハラ騒ぎを起こすような奴だっただろうな。セクハラ騒ぎを起こす理由は簡単で、「だめでいいじゃないか」という「だめ連」特有のスローガンを、上でちょっと見た、自己欺瞞的なカタカナの「ダメ」の論理を肯定するものとして勘違いしてしまい、自らの「だめ」を受け入れて「ゆるく」生きていくことができないまま(そこで想定されていたのは明らかに一種のヒッピー的な生き方だった)、自らの「ダメ」をますますコジらせて精神的にキビしくなっていくからだ(いわゆる「非モテ」意識の誕生)。本来「だめでいいじゃないか」というスローガンは、自分の何らかの欠陥や不能を認めると同時に、それに対するコジれた劣等感からも自由になっていくことを意味していたんだけど、この種の人たちって、そのスローガンを、コジれた劣等感も同時に認めればいいのだと(さらには他人がそれをそのまま受け入れてくれることもあるのだと←そんなこと絶対にねーよ!)誤解してしまうんだよナ。そうなると、劣等感がコジれたことによって生じる代償的な万能感や、肥大化した性的欲望・恋愛願望までをもそのまま肯定して、さらに、それらをそのまま周りの他人に認めさせようとさえしやがる*4。これではセクハラ騒ぎになるのは火を見るよりも明らかでしょう。こういうのって、もろにDV加害者の行動パターンだったと思うんですけど…。

しかもさらに悲しいことに、メディアに出た「だめ連」のイメージに魅了されてやって来た女性の方や、性的少数者の人たちの多くは、それこそセクハラや虐待などによって精神的に傷ついた者たちだったから、こんな者たちと交流会で同席するというのは、いわば悪夢の再現以外の何ものでもなかったんですよ。「だめでいいじゃないか」というスローガンは、傷ついた女性や性的少数者たちの側には、自らの劣等感や罪悪感を解き放ってくれるような可能性がまだあったとは思うんですが、そんな可能性も、「だめ」ならぬ「ダメ」をこじらせて自らのマッチョ性に居直っただけのヘテロ男性たちのちょっかいによって、すべて台なしにされてしまったわけなんデス…。この問題に躓いたこともあって(今から振り返ると、「非モテ」とフェミニズムの出会い損ないという現象を先取りしてましたね)、「だめ連」の集会は下火になってしまったんですが、これって今風に言うと、まさに、自らのマッチョ性に対する劣等感に囚われることによって逆にマッチョな欲望を肥大化させている、DV加害者はいったいどう変われるのかという問題にかなり等しかったと思うんですよネ(今頃確認するなヨ)。

生真面目さ問題再論

多分、ときには「幼稚」さに見えてしまう、「素直さ」や「生真面目さ」というものが持っていたネガティヴな面を直視し、それを克服してポジティブなものに転化させるには、今見たようにジェンダーセクシャリティの問題に深く関わっていかざるを得ないんでしょう(あーしんど)。今回は、今度の事件の男性容疑者に、自己欺瞞的な「ダメ」の論理を重ね合わせてみたわけなんだけど、一方自殺したフリーの女性アナの方も、下種なかんぐりはいっさい避けるべきなんだけど、生真面目でひたすら素直な「だけ」だったヘテロ女性特有の問題を、なんか深く抱えていたような気がしてなりません。

しかしもう、生真面目な人間が損をしたり、しかもその損の仕方が、無辜の人間の命を奪うという最悪の仕方でなされるようなたぐいの悲惨な事件はいっさい見たくないですね。もうこのことについての(このエントリーのような)おしゃべりにはウンザリ。というわけで精神の健康を維持させるために、今回の件に関してはこれ以上いっさい言及しません。もう終わりにします。

*1:ちなみに、派遣労働の悲惨さに事件の背景を求めつつも、マス・メディアの認識がまだまだであるというのは、http://www.news.janjan.jp/living/0806/0806189981/1.php参照(6/20補足)。

*2:ちなみに、今回の事件をただの通り魔「事件」に矮小化するのはおかしいという考え方には納得できる。しかしだからと言って、後に出てくる東先生のように、それを社会に反撃しようとした「テロ」とすぐに同一視してしまうのもどうかと思う。それでは「テロ」というものが持っている組織性や、意志の持続・継承という面を見くびってしまうことになるからだ。やはり今回のアクションは突発的なものだったことが否めないから、自分としては「一人暴動」という言い方が一番しっくりと来る。本来集団でやるべき暴動を下手に一人でやってしまったがために、社会に対してうまく力を発現できないまま、本来殺さなくてよい者を許しがたいことに殺してしまう、悲惨な内戦の方にズブズブと足を掬われていってしまったような気がしてならない。(6/20記)

*3:http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120251.html

*4:簡単に言うと、「だめ」でいいとは、自らの至らなさを受け入れることによって、それに対する劣等感からも解放されていくこと。一方「ダメ」で文句あっか!は、自らの至らなさに対する劣等感の方をそのまま受け入れてしまい、その結果、その裏側にあった代償的な万能感や、肥大化した性・恋愛欲求に対するタガがはずれてしまうこと。