外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ギブアップ、あるいはどうしようもない生真面目さについて

*一度削除したものを、訂正・加筆のうえ再アップしました。

二人の生真面目さ

基本的に時事ネタやトピックには反応しないんですが、今回だけはもうギブアップ。2週間前に自殺した、華やかな女性アナの世界を体現していたかのような某フリー・アナの、(死ぬまでは知らなかった)いかにも努力が空回りしがちな、不器用で頑なな生真面目さを知るにつけ、身近なところでいろいろ思い当たる節があったので複雑な感慨にふけっていたところ、また今回の悲惨な事件が起こってしまった。メディアからの断片的な情報では、どうやら容疑者の彼も極めて地味で目立たず、生真面目に見える者だったらしい。また識者によれば、彼のやったことは、生真面目な者の暴発として間々起こる、周りを巻き込む「間接自殺」ということだそうだ。

となれば、ホントこれはたまたま時期が重なっただけで何の根拠もなく、また不謹慎なことなのかも知れないが、どうしても自殺したアナと、今回の事件の容疑者がイメージの上でだぶってしまう。どちらも境遇の不安定さに対して生真面目さでしか対応できなかったから、ただ追い込まれていくだけだったというべきか。というわけで一瞬、二人とも真面目な「プレカリアート」の典型的な行き詰まり方を体現していたのではとも思ったけども、こんなレッテル貼りは空しいだけなので即撤回。また巷間では、事件の容疑者の方は客観的には典型的なプレカリアートだったようだから、永山則夫などに重ねつつ、彼を派遣社員格差社会のダーティ・ヒーローとして持ち上げる動きも出てるみたいだが、多分それは正しいのだろうから、特に自分には何も言うことはない。というのは自分は、人々のあり方に社会の歪みが反映されていること自体よりも、自他のうちに潜む、社会の歪みが反映されたそういうあり方と改めてどうつき合い、また、それとつき合うことによって、どうその社会の中でなおも生き続け、リアクションしていくのかという仕方の方にしか興味がないからだ(というより、社会分析に関してはこちらから何か言える程の見識を持ち合わせていないというのが正直なところ)。この観点からどうしても躓きの石になってしまうのは、やはり異様な生真面目さ・愚直さということでしかなく、あくまで二人のイメージが重なるのは、不安定さや先の見えなさに対して、生真面目な対応しかできなかったがゆえの苦しみにさいなまれていたのでは、という点だけなことをあらかじめ断っておく。

というわけで自分は、どうしても二人の間に、目の前に与えられたことをこなしたり、周りの期待に応えることで常にいっぱいいっぱいで、しかもいつまでもそれしかすることができない、どうしようもない「生真面目さ」というものの存在を見てしまう。さらに言えば、目の前に与えられたことや周りの期待がなくなるというか見えなくなると、ただ今までのやり方をムキになって繰り返すことしかできずに(これが致命的だ)、そうして努力が空回りし始めて周りからも疎んじられるようになり、しまいには孤立状態の中で、ひたすら自分か社会のどちらかを責めさいなむようになったという点までも共通していたのでは?(こういうのは精神医学的に言うと、挫折や行き詰まりに対して最悪の対応をすることからもたらされがちな、「適応障害」ということになるのだろうが)。

思うに、この種の生真面目さに対しては、オルタな世界を示しつつ、戦略的な不真面目さや、いじめに負けないような自由闊達な境地を対置させても何の効果もない。また常識的な大人の立場に立って、上から目線で、もっと大人になって「強さ」や「したたかさ」や「図々しさ」を持てよと諭しても同じくまったく無意味(自分もそれらの言葉は大嫌いですが)。ただ、彼/女たちの生真面目さのうちに存在していた、何らかの誠実さに触れてそれを救い出していくため、こちら側もある種の「しなやかな誠実さ」を示していかなければいけないのだが、これまた難しい。下手するとすぐに、やればできると空疎な念仏を唱えるだけの、ただの時代錯誤な熱血漢の役回りを強いられ、煙たがられるだけで終わってしまう(そもそもいじめられた傷を持っている者に対して熱血漢的にふるまうのは、最悪のことなのだが)。

ちなみに自殺したフリー・アナも、メディアによると、仕事上の上司(もっぱら♂)に色々相談してたみたいだが、しょせんそんな奴らは自分をひとかどのものと思っている、面の皮の厚いマッチョなギョーカイ人でしかないから(偏見アリアリの見方しかできなくてスイマセン)、もっと頑張れよと一方的に叱咤激励したり、あるいは、君は能力に恵まれてるからもっと自信を持っていいなどと、毒にもならない仕方でしかなだめることができなかったのだろう。

じゃーお前は相談されたらどうなんだと言われるかも知れないが いや、正直言ってこの手の人間はかなり苦手だ。もしかしたら面倒くさく感じ、悩んでても見て見ぬふりをしたかも知れない(それこそ典型的ないじめなのだが)。この種の人々は、常に自分の問題を解決することで頭がいっぱいだから、たとえこちらから似たような悩みを持ち出して共感を求めても、あまり乗ってこない(自分を全面的に救ってくれるような他者は常時求めてるみたいだが)。どうも、「あー、それそれ!」「私もそれわかるぅー!」という、話を展開するための糸口となるような盛り上がりが中々生じてくれないのだ。普段は一見打ち解けてるように見えても、どうやらいざというとき頑なになってしまうようだ(多分だからこそ、人間関係でトラブルを起こしがちになるのだろう)。正直言って、「共感」という糸口が通用してくれないのは、ホントしんどい(…って、自分が今まで出会った者を単に自殺したアナに投影させていただけなのが見え見えでした。というより、多分に自分自身にもそういう面がありマス)。

ところでタイトルにある「ギブアップ」とは、昔TBSの番組「うたばん」でTBSの女性アナとSMAPがゲストで出たとき、そのフリー・アナ(当時はTBSの局アナ)が恋愛話を突っ込まれてすぐ降参してしまい、思わずそう言ってしまった言葉をそのまま使ったものだ。あまりにも降参が早いので皆から天真爛漫だとからかわれ、自分もその様子をTVで観ていたときはそんなものかと思ったのだが、今改めてウェブ上の画像を見直してみると、どうもその降参というか切断操作の異様な早さは単なる天真爛漫さを越えていて、どうしても引っ掛かってしまう。多分、そういう切断操作内田樹的に言えば「鈍感化の戦略」?)の異様な早さと、どうしようもない生真面目さとは深く関係しているのだろう。どうやら両者のこの関係を明らかにしつつ、それらをともに現実社会でうまく生かすための道を模索していく必要があるようだ。

補足

いかにもくだらない、ありがちな連想の吐露でしかないと思ってこのエントリーは一回削除しました。けれども、事件の容疑者に関する情報にさらに接したら、(あらかじめ予想されたことではあるけれども)彼はホント愚直なほど普通で、感動的な程わかりやすく、その言動にもまったくブレがなかったので、こんな遊びやブレがない状態に私たちを追い込んだ社会というもの*1に対する怒りがこみ上げてきてしまい、思わず再アップしてしまった次第デス。

私たちを、狭い決まりきった生き方に閉じ込めたうえ、さらに、それに対してありがちな憤懣や、いかにもな反発しかできないように仕向けてくるものに対抗するには、もちろん、これまたいかにもありがちな、わかりやすいオルタなものをただ約束通りに対置させるだけでは不十分だというのも百も承知してます。しかしだからと言って、某先生のように、対立しているもの同士は似てくるから、わかりやすい二項対立の罠には気をつけろと恫喝しつつ、おまえらは単純な二項対立では割り切れない、実際の現実が持つ微妙なニュアンスや、逆説が常に伴った世界の複雑な仕組みがわからないのかと、ただいら立ちを募らせていってもあまり意味はないでしょう。

というのは、たとえ容疑者の愚直な程の普通さが、社会から追い詰められた結果初めてもたらされたような不自然な歪みでしかなかったとしても、それでもやはり、人を立ち止まらせるような何かを持っていたのは確かだったからデス*2。――と、こうなると、自殺したアナの生前の凛としたイメージと、事件の容疑者の凶暴だった相貌とのうらには、やはり同じように、思わず人を立ち止まらせてしまうような(孤独を強いた)愚直な程の普通さが潜んでいたことになって、二人のイメージがますますオーバー・ラップしていってしまう…。ここでポイントとなるのは、やはりあくまでもその普通さのうちに潜んでいた、異様な程の生真面目さや頑なさということであって、それをどう掬い取り生かしていくかということが、今後大きなテーマになっていくのでしょう。またそれは同時に、感動的だけれども、いかにもありがちな、決まりきった反応しかできなくなったこの社会の中で、いったい私たちはどう生き続けることができるのか、という問題を考えていくことにもつながると思いマス*3。しかもその際、そこに「ズレ」や「ショック」や「覚醒」などという(全部20世紀美学の残滓だけど)、余計なものを下手に持ち込んだりせずにそれを考えようとするのが大切なのでしょう。昨今ではそんなものを導入しても、ただただ人々の自殺や破壊への衝動を呼び寄せることにしかならないみたいですからネ(この点は本当に微妙な問題がからんでいるので、本来はじっくりと考えていきたいところなんですが、残念ながら生活と心の余裕がないままなので、ずっとペンディングなままになってマス…)。

※ 文章に不明瞭なところが残っていたので改めて手直ししました。(6/12記)

*1:素朴な言い方しかできないけど、ここにはとんでもない構造的な暴力が確実に潜んでいると思う。そういう暴力に刃むかおうとした暴発が、一瞬内輪どうしの殺し合いにしか見えなかった、本来は傷つけ合わなくてよい者どうしの不毛な内戦としてしか顕在化することができなかったのは、いったいどうしてなんだろう。こんな重い問題は自分の手には余るけど(社会科学者の人、頑張って!)、いずれにせよこの事件をきっかけにして、陰惨な殺人のたぐいをネタにしながら萌えを確実に得ようとする、失礼極まりない想像力(ゲーム的リアリズム?)や、希望は戦争しかないなどと煽って、先行世代を挑発するたぐいの性急な試みは、大きく変貌を迫られるのは確実なのでは?

*2:http://www11.atwiki.jp/akb_080608/pages/30.htmlにアップされている、容疑者のものと思われる携帯サイトの書き込み参照。自分が読んだ感想は敢えて言いません。

*3:次のエントリーがこれと近い問題意識を表明していました。http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20080620 ただ「生真面目さ」(真剣さ)自体に関しては、自分よりもはるかに警戒しているようですけども。いわく、「自他の真剣さへのアクセスの仕方が分からない。真剣さはそれ自体ではアリバイにならないのに、『本当に真剣だから承認されるべきだ』では何の批評もない。 自分の真剣さを主張するのに、極端な行為しか思いつけなくなっている。/いっさいを真剣に受け止めない「80年代→社会学」のあと、真剣でありさえすれば何でもかんでも受け止める現在(註アリ)」云々。生真面目さに対するスタンスを除けば、こういう状況認識自体は完全に同意できますネ(ただ註の部分で、「真剣でありさえすれば何でも受け止める現在」のあり方を、性急に「70年代の新左翼主義」の回帰と重ね合わせてしまったのには異論がありますけど。また自分は、彼の言葉で言えば、各世代によって違う「ルーチン化した真剣さのスタイル」のポテンシャルにまさにこだわっていると言えるのかも知れない。ただし、「生真面目さ」や「真剣さ」(=ベタさ)という言葉自体は95年以降のパラダイムのために取っておきたいけれども)。(6/21補足)