外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

小熊英二『1968』「著者のことば」に対してコメントをと思ったら

小熊英二『1968年・上』出ましたね。昨日本屋言ったら平積みされてたので、収入が減ってどんどん貯金が突き崩されてく日々が続いているにもかかわらず、思わず衝動買いしてしまいました。税込みでしめて7,140円。あちゃー、買ってから後悔しきりですが、まあ衝動で風俗行ってしまったものと思って諦めナと、まわりから変な仕方で慰められてます。そか、お盛んな世の男性たちは自らの浪費を正当化するためにそんな慰め方をしてたのかw

それはさておき、添付されたパンフの「著者のことば」*1を読んだら、ちょっと疑念というか懸念が湧いてきてしまいました。というわけで、以下それについて少し。まあ、あくまで本文を読む前の、こちらの一方的な懸念なので、読了後は(しかしそれはいったいいつのことになるんだ?)まったく的はずれになるという可能性大ですが。

まず、気になるところ全文引用。

……著者はあの叛乱を、政治運動ではなく、一種の表現行為だったとする視点から分析を試みた。すると、さまざまなことが明らかになってきた。

 「あの時代」は、それまで発展途上国であった日本が、高度成長によって先進国に変貌する転換点だった。それまでの政治や教育、思想の枠組みが、まるごと通用しなくなりつつあった時代だった。そしてあの叛乱をになった世代は、幼少期には坊主刈りとオカッパ頭で育ちながら、青年期にはジーンズと長髪姿になっていた。都市や農村の風景も、急速に変貌していた。こうした激しいギャップが、若者たちにいわば強烈なアレルギー反応をひきおこし、それが何らかの表現行為を必要としたのである。

 また当時は、貧困・戦争・飢餓といった途上国型の「近代的不幸」が解決されつつあった一方で、アイデンティティの不安・リアリティの稀薄化・生の実感の喪失といった先進国型の「現代的不幸」が若者を蝕みはじめた日本初の時代だった。摂食障害自傷行為不登校といった、80年代以降に注目された問題は、すでに60年代後期には端緒的に発生しつつあったことが、今回の調査でみえてきた。

 そのなかで若者たちは、政治的効果など二の次で、機動隊の楯の前で自分たちの「実存」を確かめるべくゲバ棒をふるい、生の実感を味わう解放区をもとめてバリケードを作った。いわばあの叛乱は、「近代」から「現代」への転換点で、「現代的不幸」に初めて集団的に直面した若者たちが、どう反応し、どう失敗したかの先例となったのである。

「政治/実存」という対立図式

一見政治活動をしてながら、実はそれは「ニの次で」、そういうことしながら皆己れの「実存」確かめているだけだという言い方って、なんか俗流唯物論の裏返されたかたちのような気が・・。ちなみに俗流唯物論というのは、たとえばアルカイックな社会のもっともらしい宗教儀式に関して、そんな儀式は、実は人々の目を曇らす上部構造としてのイデオロギー的な外皮に過ぎず、それを取り払いさえすれば、支配階級が人々を支配して富を独占してるという唯物論的な真実がすぐに見えてくる筈だと言い立てるようなもののことデス。つまり、「イデオロギー仮象/物質的次元=真実」と見立てて、両者を簡単に分離できると考えているわけですナ。小熊氏も、政治活動と、「表現行為」を通しての実存確認との関係をこのように見なしているんですかね? 

あと、「政治」と「実存」をこのように対立的というか、対比して捉えてしまう発想ってどっかで聞いたことあるぞ。 あ、そっか、こういう議論の仕方っていわゆるロス・ジェネ論壇の人たちがやってるんだっけ?(よく知らないので怪しいですが)――いわく、たとえ、ロス・ジェネ世代が苦しんでいる格差や貧困を是正するような、再配分を適正化する政策が実現されたとしても、彼/彼女たちの「実存」が強く求めていた「承認欲求」は相変わらず満たされないままだ。実は彼/彼女たちは、格差や貧困に対して怒りをぶつけることを通して、同時に自らの実存の承認欲求が満たされなかったことの絶望や、そんな社会に対するどうしようもない嫌悪を表明していたのだ。平等の社会の実現のためには、すべての人が巻き込まれる戦争に期待するしかないという、赤木智弘氏の極論も、政治的要求に託して実存の叫びが表明されたものとして理解するならば、もっともなものだと思われる云々・・。

どうもここには、

格差や貧困を是正する適正な再配分のための政策実現・制度設計/その剰余、過剰分としての個々の「実存」の「承認」欲求

という議論図式が存在してるようですね。このように経済的「再配分」とアイデンティティ確立のための「承認」とを二元的に捉える発想って、かつてのナンシー・フレイザーの「再配分と承認をめぐるジレンマ」の議論なんかを思い出させマス*2。まぁあくまで彼女の場合は、経済的平等を実現するための貧困是正の政策と、マイノリティの権利を擁護するための多文化主義政策との間のズレや二律背反に焦点を当ててただけなんですが。

で、こういう議論図式を前提にして議論しているロス・ジェネ論壇の人たちは、

「あれ? 政治活動に託して実存の確認を求めるようなあり方って、何か前にあったゾ。つか、まさに俺たちの親たち・団塊世代全共闘運動がそういうものだったわけじゃん! というわけで、ウチラ今まで、団塊世代既得権益を独占した奴らと見なして敵視してたんだけど、政治に実存を託すという共通点でもしかしたら和解できるんじゃね?」

という風なことを言い始めて、全共闘運動に注目する流れが出来つつあったわけですよね。

もしかしたら、ちょうどロス・ジェネ世代と団塊世代の中間に当たる新人類世代に属してる小熊氏は、こういう空気を絶妙に読み取って、まさにロス・ジェネの世代の↑のような直観に裏づけを与えるために、この本を書いたのではないでしょうか――ていうか、ネットにうpされてる「序論」の一部を改めて見てみたら、まさにそうと取れるような記述が出てきた。

結論からいえば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校自傷行為摂食障害、空虚感、閉塞感といった「現代的」な「生きづらさ」のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象であったと考えている。そしてこれを検証することの意義は、不安定雇用の若者たちから運動がおきつつある現在、ないとはいえまい。

はぁ、やっぱりそうですか。しかしそうだとしたらダメダメじゃん。このブログの昔のエントリーでも(もうどこでだかよく覚えてない)言ったけど、現存社会の不正な秩序に異を唱えるという心情の点だけでロス・ジェネ世代と団塊世代が理解し合うというのは、最悪の野合でしかないと思えてならないんだけど・・。

で、そういう野合を可能にさせてるのが、まさに「政治/実存」という2項対立の図式だったわけなんですが、自分的には、68年の経験の意義というのは――それが「世界革命」だったのか否かといことよりも前に――、逆に、そういう2項対立がもはや成り立たないような次元というか位相をはっきりと示してしまったことにあると思ってるんですヨ。もっと詳しく言うと、単なる政治活動と、個人の実存の自己確認との間に広がっていた特有の次元を解き放ってしまい、しかも、いったんそういう次元に足を踏み入れてしまうと、もはや社会変革のための「政治活動」と、自己確認のための「表現行為」とが絡み合い始め、両者を区別することなどできなくなるという事実を初めて私たちに突き付けてしまったのではないでしょうか。

で、この次元のそういう事実に明確に定位しようとしたのが、30年代にスターリニズムによって途絶させられてしまった「評議会」(コンミューン、レーテ、ソビエト)構築の試みを、文化のあり方を含めたより人間の生き方全体に関わるかたちで受け継ぎ、そういうことを通して平等な人間関係からなるよりよい「共同性」というものを実現しようと模索した、ただの「政治活動」とは区別されるところの、68年的な政治《運動》だったのだと思ってるんデス、あくまで自分的には。そしてこの《運動》は、まさに社会運動の世界に新しい可能性を開いていったと同時に、それ特有の困難を改めてもたらしてしまい、そういう困難こそが、社会運動に関わる者たちを今も呪縛してやまないのではないでしょうか(ネグリの言う「生‐権力」と絡み合った「生⁻政治」というのは、まさにこの次元のことを指していたのであり、またそこでの新たな可能性と、人を呪縛する特有の困難さとの間で折り合いをつける仕方が、ベンヤミンの言う「静止状態の弁証法」だったのだと個人的には思っているのですが・・って、こんなことはどうでもいいか)。

というわけで、以下では、おもにこの「政治/実存」という対立図式がダメな理由を順次述べていくことにしマス。しかしそれでは明らかに、小熊氏の「著者のことば」にコメントするという最初の意図からズレてしまうので、このことと同時に、そういう図式に依拠しながらもっぱら68年というものを、近代から現代への移行期の時代経験としか捉えようとしない小熊氏の社会学的な視点にも、少し疑念を呈していきたいとも思ってマス。

追いつめられたプレカリに上から目線で語る癖をつけさせるのって、どーよ

「政治/実存」という図式がダメなのは、まず、そこでの「政治」というものが、もっぱら政策テクノクラート(エキスパート)の立場から見られた、制度設計や政策実現というものとしてしか捉えられていないからなんデス。それでは「実存」の自己確認という問題は、適切な制度設計や政策実現によってたとえ格差や貧困の問題が解決されたとしても解決されないところの、(政策)政治にとっての単なる残余というか過剰分でしかなくなってしまう。そして――このことが決定的なんですけど――政策テクノクラートの視線がそのままこの問題にも向けられると、何か新たな制度や政策をさらに追加することによってこの問題まで解決しちゃおうという、鬱陶しいお節介が目論まれ始めることとなる。実存の問題まで政策によって解決しようとするなんて、なんか変な感じ・・。けどこれって、政治を政策や制度設計に切り詰めてしまったことから導かれた必然的な帰結なんだと思ってマス。というのは、この種の政策テクノクラートの視線からすれば、人間の主体なんちゅうものは、元々もっぱら与えられた制度に諾々と従うだけの、受動的な存在でしかなかったわけですからね。

しかもこういう言い方に一番強く飛びついてしまうのが、当のお節介が向けられようとしていた、追い詰められたロス・ジェネ世代のプレカリたちの方だったりするから、ホントに困ってしまうんですよ・・。彼/女たちの多くは、自らのどうしようもない境遇(劣悪な労働環境・条件)を何とかしようとすることをすでに諦め、しかもいわゆる自己責任論の影響で、こうなったのはどうせ自分が悪いのだからと思わせられて深くイジけてしまってるのでした*3。つまり、まさに文字通りの意味で孤立化し無力な状態に止め置かれていたわけなんだけど、↑ のような政策テクノクラートのいわば上から目線の言い方に触れてしまうと、そかw、ウチラのような孤立した無力な者=弱者を、単なる物質面ではなく精神面まで適切な社会政策は何とかしてくれるのかと、途端に勝手に期待し始めてしまうんですヨ。で、単に制度に依存して受動的などころか、さらに精神面での飢えまで上から何とかして貰わなければならないとされるようになった、人間的主体のこういう孤立で無力な面というものにことさらに焦点を当てるときに、特に「実存」という言葉が使われるようになったのでしょうナ。うーん、政治の対象を徹底的に無力な存在として見る、この種の「上から目線」って、なんか19世紀末の、金と暇を持て余した豊かなブルジョアの中から出てきた、「救貧」という使命感に駆られて貧者に施しを与えようとする、篤志家のそれと同じようなものを感じるなぁ・・。しかもさらに立ちが悪いことに、施しを受けるプレカリの側こそ、そういう視線を積極的に受け入れてしまってやがる・・

「承認」「承認」ってうるせーんだよ

で、この上から目線を特徴づけてたのが、実は「承認」という言葉の特殊な使い方だったんデス。フリ労のT氏によれば、「自己責任」という言葉の次に、資本の側が我々を手なづける仕方を表しているのが、どうもこの「承認」という言葉なんだそうデス*4。かつてのヘーゲル左派系の理論では、望ましいコミュニケーションや共同体のあり方を指すのに、よく(尊厳の)「相互承認」という言葉が使われてました。ところが80年代の後半くらいから、新たに「承認欲求」などという新しい言い方が出てきて、さらに最近では「承認の供給」などという(多分この言い方を始めたのはM台先生?)、よく考えればとてもグロテスクな言い方がなされるようになっている。いわく、孤立した実存の承認欲求の飢えを満たすためには、そういう者に(上から)承認を供給していかなければならない、と。T氏によれば、「承認」という言葉のこういう使い方が、金融危機以降のポスト・ネオリベ社会における、人間に対する資本の新たな手なづけ方を表しているのだそうナ。そう言えば、「自己責任」という珍奇な言葉が流通することによって、それと類縁の言葉であった「自己決定」という言葉まで迷惑を被り、本来は望ましい主体や共同性のあり方を指していた筈なのに、ネオリベ社会の統治原理を表すものとして受け取られるようになってしまったけど、それと同じように、(かまって貰いたいという意味の)「承認欲求」や(かまってやるという意味の)「承認の供給」とは本来はまったく似て非なるものであった筈の、(相互に独立した人格として対等に尊重し合うという意味の)「相互承認」という言葉まで、それらと同じようなものとしてこれから受け取られることになってしまうのかなぁ? ああ迷惑。

で、あくまで「承認の供給」などという言い方は、エリートの政策テクノクラートの立場からなされていたわけだから、それをプレカリの側が受け入れると、変なねじれが生じてしまうんですヨ。厳しいプレカリの境遇を是正すべきだというこの種の主張に賛同した瞬間、自らも政策を設計するエリートの立場に立てたことになってしまうから、自分の存在に無力さを感じる裏側で逆に肥大化していた、代償的な万能感で自我が瞬くうちに満たされてしまう。これがホントたちが悪いんだわ。もっぱら自己陶酔して舞い上がるだけになって、人と協力しながら自分の境遇を改めていくという地道な努力にまったくつながらない。つか、自分たちから一番遠い、偉そうな為政者の立場に立ったうえで、自分たちのことを何とかすべきだと強く言い立てるなんて、傍から見ればかなり滑稽で痛いだけなんですけど・・

これまたフリ労の知り合いに聞いたら、どうもこの手の者はM台センセの読者に多かったらしい。うーん、自分の世代で言うと、世界情勢の裏側に通暁しながら世界をまたにかけて活躍するという、安っぽい全能感に浸りっ放しだった落合信彦の読者と重なるのかなぁ? けど、そんなものに浸りっ放しだった落合の読者とは異なり、この手の者は「なに上から目線でエラソーにもの言ってるの?」と突っ込まれるというか罵倒されると、すぐに居直って、どーせ自分は「   」(「ねらー」とかの任意の自虐語が入る)でしかないですからw と自虐モードになってしまう。まあ、そうして自己防衛に走るくらいの小賢しさは、一応は持ち合わせているのだろうナ。けどこんな小賢しさなんて中途半端なものでしかないから、結局は何の役にも立たないんですけど・・。で、こういう状態に陥ってしまったのは、やはり当人が、無力とされた「実存」の立場と、そういう実存にいっきに上から「承認を供給」しようとするテクノクラートの立場との両方に同一化してしまったからなんでしょうナ。これでは両者の間で引き裂かれ、あとはその間を無限ループするしかなくなる。「政治/実存」という一見もっともらしい議論図式って、実はこのループ状態に人を陥れさせていくだけだから、ホントたちが悪いものなんですヨ。

予告、あるいは3世代同居の実現?

次回は、(1)原則的な(西欧)左翼の立場や、それとは対照的な、(2)原則的な左翼のマッチョなノリについていくとすぐに息切れしてしまうヘタレの立場から、引き続き「政治/実存」という対立図式が持つ問題点や、さらには、この図式に依拠してると思われる、68年の経験に対する小熊氏の社会学的な捉え方を俎上に乗せていきたいと思ってマス(まぁ予告すると、そのまま立ち消えになってしまうのが常なんですが・・)。

ちなみにここで言う「原則的な左翼」の立場とは、68年の経験というものを、文化と政治が交錯した地点で、「生」(生活、生命)のあり方全体に(いわばホーリスティックに)関わりながらよりよい共同性のあり方を模索していった試みや、そういうことを可能にした力や技を(そして、それ特有の災厄とともに)、私たちに初めてもたらしてくれたようなものとして捉えていく立場のことです。

一方、そういう左翼ノリに息切れしてしまうヘタレの立場とは、↑のようなオーソドックスな左翼の立場が、いわば何かを企て実現していく営み・行動をより活発で力強いものにしていくことによって、自分たちのことを自分たち自身で決めていく、自立した共同性・集団性を形成していこうとしているのに対して、逆に、営みの不在や行為の不活発さというあり方の方にこそ、(単なる現存の不正な秩序ではなく)「世界」そのものと和解した、より平等でより望ましい共同性の影や先ぶれを見てしまい、それにこだわり続ける立場のことだと言えマス。

簡単に言えば、前者が体育会ノリの「運動系」左翼の立場ということになり、後者が、その批判的な同行者というか、実は単なる足でまといにしかなっていない、PCがらみの議論が好きな「文化左翼」ならぬ、メンヘラった「文化系」左翼の立場ということになるのでしょうか。 

さて、「著者のことば」のうちにある小熊氏の社会学的な捉え方というのは、特に

当時は、貧困・戦争・飢餓といった途上国型の「近代的不幸」が解決されつつあった一方で、アイデンティティの不安・リアリティの稀薄化・生の実感の喪失といった先進国型の「現代的不幸」が若者を蝕みはじめた日本初の時代だった。摂食障害自傷行為不登校といった、80年代以降に注目された問題は、すでに60年代後期には端緒的に発生しつつあった

あの叛乱は、「近代」から「現代」への転換点で、「現代的不幸」に初めて集団的に直面した若者たちが、どう反応し、どう失敗したかの先例となった

という部分に顕著に出てると思うんですが、いったいこれは実際にはどういうことなんでしょうかね?

単に、68年を生きた者たちは「近代」から「現代」への転換点にあって「現代的不幸」に史上初めて直面したから、「近代的不幸」を対象とするマルクス主義疎外論の言葉しか持っていなかったこともあって、それをうまく捉えることができずに対応の仕方に失敗してしまったということなの?

もしそうでしかないなら、あまりにもスタティックなのでちょっとガッカリしてしまいますけど・・。そもそも左翼の側には「過渡期の問題」という伝統的な問題設定がありまして、そこでは、二つの時代というか段階の移行期(過渡期)の最中に、いま成立しつつある新しい段階特有の問題に初めて遭遇した者たちは、その段階がすでに成立して確立してしまった後よりも、その問題をより根本的なかたちで経験することができると見なされていました。だから過渡期特有の、混乱して試行錯誤に満ちた経験は、後の時代特有の問題の捉え方や解決の仕方を「先取り」的に示していたことになり、後の時代に属する者にとっては、それは常に導きの糸というか参照枠であり続けているのだと。もちろんこういう見方が無条件に正しいとは思えませんが、果たして小熊氏の68年の経験の見方には、過渡期におけるより根底的で徹底的な仕方での問題の先取りという、この種のダイナミズム(というより弁証法)も兼ね備わっているんでしょうかね?

また、「アイデンティティの不安・リアリティの稀薄化・生の実感の喪失」といった、いかにも80年代的なクリシェの頻用も気になるなぁ・・。こういう言い方って、あくまで豊かな消費社会(成熟社会)という存在や、そこでは若者たちはすでに個人化して決して政治行動に向かうことがなくなってしまった、という事実が前提される限りものでしかなかったんじゃないの? 68年の経験の意義って、豊かな消費社会特有の病理である、実存の不全感というものが史上初めて社会的な規模で登場した、という点にしかなかったということになるのかナ? さらに、そういう80年代消費社会特有の病理が、 若者が貧困化した現在でも引き続き存在しているとされているのも、なんだかなぁ・・

――あっ、そうか。「政治/実存」というあの対立図式をすでに受け入れてしまえば、「貧困」はあくまで片方の項の「政治」に関わる事柄でしかなくなって、実存の承認欲求の問題は、前の時代から同じものとして残り続けていたということになるわけね。確かに孤立した実存のアイデンティティ不全の問題に関しては、こういうことが社会的に初めて大きく問題にされ、そのことに関わる語彙もいろいろ発明されていった(すでに見たように「承認欲求」という言葉もその一つだった)80年代の経験が参考になるのかも・・。

しかしこう見てくると、小熊氏は「政治/実存」という図式に依拠しつつ、ただ団塊世代とロス・ジェネ世代を和解(自分の目からすればどうも「野合」にしか見えないのですが)させようと目論んだだけではなく、さらに、そこでの「実存」の問題を、「アイデンティティの不安」云々などの80年代消費社会特有の問題(設定)と同一視することによって、両者の間に位置する、彼もその一員であった新人類世代までその和解のプロセスに巻き込もうとしていたことになるわけですね。いやぁ、よく練られているというか、悪く言えば狡猾というか・・。

68年の経験を「政治/実存」という図式で捉え直せば、3世代間の和解がいっきに実現されるというわけですか。つか、3世代同居住宅でも建てる気かよw

というわけで、小熊氏は世代間の関係に関して、だいたい次のようなことを言いたかったのかも知れないナ。

――そもそも団塊世代は「政治」を通して「実存」の問題に初めて遭遇したのであり、また非政治的だった(もしくはシングルイシューの「生活政治」にしか関わっていなかった)新人類世代は、もっぱらその「実存」の問題の方を掘り下げていった。そして「貧困による孤立」という境遇に苦しむロス・ジェネ世代は、貧困解決という(制度・政策)「政治」の問題と、承認の供給という「実存」の問題との両方に関わらざるを得なくなってしまったから、両者の切り結び方というか折り合いの付け方を、二つの先行世代から新たにいま学ぶことが求められている、と。

――うーん、もしこういうことなら悪いけど自分的にはアウトですわ。3世代間の和解の仕方というのは、これとはまったく別のものになると常日頃から思ってたので・・

なんか本文を通読してないのにこれ以上gdgd疑念を呈しても、ただただ自分の度量の小ささ・性根の悪さを晒すことにしかならないので、もうやめにしておきマス。続きは、やはりちゃんと本文を読んでからということで。

・・ということで、急遽「3行だけ」読んだ。ウソw。1968年の反乱を「政治と文化の革命」と捉えた酒井隆史氏の記述を、1968年に対するありがちなイメージの典型例と見なして俎上に乗せたうえ、通念とは異なり、日本の68年では政治と文化の遭遇・混淆はほとんど起こらなかったと主張してるとこまで読んだ(第1章「時代的・世代的背景(上)」の「政治と文化の革命という神話」の項、75頁以降)。うーん、実はこの部分で急に筆致が乱れたような気がして、ハタと頁をめくる手が止まってしまったのですが・・。唐突にビートルズの話を出して、日本の全共闘世代はビートルズを聞いてなかったなどという当たり前の事実をわざわざ確認したりするんですけど、明らかに話がズレて本筋とは全然関係ないものになってしまってると思うんですが・・。どうも、68年の反乱は政治と文化を一体化させた文化革命だったという、左翼側の視点に対する反発があまりにも強くて、思わず手に力が入ってしまったような気が・・。これからも、こういう記述が乱れたところがちょくちょく出てくるのかなぁ?

*1:ネット上にもうpされてました。http://www.shin-yo-sha.co.jp/essay/1968_chosha.htm

*2:「再配分から承認へ ナンシー・フレイザーhttp://d.hatena.ne.jp/HODGE/20070504/p3

*3:遠藤公嗣他『労働、社会保障政策の転換を』岩波ブックレット、09年他参照。

*4:この点について何か書かれたものがうpされたらリンク貼っておきます。