外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

哲学、思想、理論、批評

「哲学」とは、自明とされていることを思考によって捉え返し、それが決して自明ではなくなるような次元にまで至ること、またはそうした次元にあくまで留まり続けようとすること。

「思想」とは、物事をより包括的に説明できるよう既存の図式を修正したり、既存の見方ややり方の行き詰まりを打破するために従来の発想を転換すること。つまり、そうした図式の修正や発想の転換の競争やゲームのこと(=象徴闘争、ヘゲモニー闘争)。

「理論」とは、社会的に共有された学問的な手続きに従って、首尾一貫して筋の通った理屈として展開されたもののこと。そうした理屈の展開は、自明なことが本当は自明でないことを説明したり、自明なことが自明でなくなった次元を維持するために行われる。あるいは図式の修正や発想の転換が有効であることを人々に説得するために行われる。

「批評」とは色々なものの良し悪し、出来具合を比較すること。それは以下の3つの段階に区別される。
1) 時代や社会の大きな動向を踏まえながら、特定の作品やコンテンツの良し悪し、出来具合を比較すること。
2) 逆に卓越すると見なされた作品やコンテンツの方から(それを時代や社会の診断基準として設定したうえで)、同じ時代や社会の中に複数存在する様々な動向(流行や潮流)の間の良し悪しや、それらの真正性の度合を比較していくこと。
3) さらに、同じ時代や社会の中に複数存在する様々な動向の間の良し悪しや、それらの真正性の度合の比較を通して、複数ある物事の非自明化の仕方(様々な哲学)の間や、複数ある図式の修正と発想の転換(様々な思想)の間の有効性の度合まで比較していくこと(どんな哲学や思想が、同時代のどんな社会の動向に対応し、それを反映しているのかを指摘していきながら)。

*なお、時代や社会の動向(=歴史)のうちに物事の本質、あるいは本質と非本質との間の絡み合いが表れているという(ヘーゲル的な)前提が社会的に共有されなければ、批評という営みは成立しない。
*さらに(単なる意匠やスタイリングとは異なる)「デザイン」とこれらのものとの違いも明らかにしていく必要がある。