外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ひきこもりと抵抗Ⅱ:生きられた現象学的還元

前回の続き。

現象学的還元と決意

さて、メルロ・ポンティは「現象学的還元」について次のように述べていた。


ここで言われている「私がそのなかで生きている一切の自然的断定」とは、人びとが現実社会の中を生き続けるために設定せざるを得なかった、様々な暗黙の想定のことである。前回のエントリーで論じたように、ひきこもり経験者の多くは、明示されるルールと区別された暗黙のルールや、明文化された公式的な方針とは別の、その場を密かに支配している隠されたしきたりや慣習などの、様々な「自然的断定」を前にして常に躓いてきたのだった。特に、明示的ルールと暗黙のルール、公式の方針と隠微なしきたりとの間を何らかの仕方で使い分けるのを可能にさせている、いわゆるダブルスタンダードという存在こそ、ひきこもり体質のある者にとっては一番謎で納得がいかない、現実社会の「自然的断定」だったのだが。

こうした暗黙の想定群を理解するためには、その「作動」をいったん「停止」させる必要がある。作動を停止させて効力をなくし、いわば凝固した状態にしてしまえば、凝固したその姿を白日の光(=明証性の光)の下に曝して(「顕在化」)、暗黙の想定群の組成や構造を自分の眼でありありとじっくり見て取る(「理解する」)ことができるからだ。この操作がいわゆる「現象学的還元」と呼ばれるのだが、それを発動させるのは、「決意」という、もっぱらとても心もとないものでしかなかった。この決意によって初めて現象学的還元は発動され、「自然的断定」の作動が強制停止させられる。しかし当のその決意自体は起こったり起こらなかったりする、あるいは続いたり続かなかったりする、極めて不確かなものでしかなかったのだ。現象学的還元はそうしたものによってにしか発動しないと強調したのは、現象学創始者である当のフッサールだったのだが(上のメルロ・ポンティの発言は、そうしたフッサール自身の発想を忠実に再現している)、どうして彼は、わざわざそこまで不確かなものにしか依拠することができなかったのだろうか。それは、現実社会を生きるために不可欠な暗黙の想定を敢えて作動停止させることが、極めて不自然で無理な行為でしかなかったからだろう。また、そうした想定が通用していた現実世界そのものの外にいっきに出る必要があったからだとも思われる。だからこそ、決意などという、毅然としているが(まさにそうであるがゆえに)当てにならない立ちふるまいに頼らざるを得なかったのだ。

さらに還元によって到達された、現実世界の外に確保される領野が、何も寄る辺がない孤独で寂しい場所でしかなかったという点も重要である。フッサールは、自分がこの目で見たもの以外は信じない/信じられないという信念を強く持っていたため、現象学的還元によって獲得される(場所なき)場所が、逆にそうしたところでなければ、作動停止して凝固状態になった、現実世界を成り立たせていた暗黙の想定群の複雑な絡み合いのありさまを、じっくりとこの目で確かめることなどできないはずだと考えていた。現実世界との煩わしい関わりを一切遮断して、孤独のうちに、複雑な構築物のその組成をじっくりと調べる作業に没頭するというのは、いかにもASDの者が好みそうなあり方なのだが*1、いずれにせよ還元によって得られたこうした境地は、現実世界の中を何気なく(現象学的な言い方をすれば「自然的態度で」)生きている限りは決して到達することができない、異様で例外的なものでしかなかったのだ。こうした境地は、意識的な決意によってかろうじて維持されるしかなく、またそのたびごとに新たに獲得し直されていくしかない。

還元不可能な残余への着目

ところが、還元という営みに対する以上のようなフッサール自身の捉え方は、彼の弟子たちや後継者からはあまり評判がよくなかった。還元を遂行し終えた者を、まるで世界の中に何の足場を持たない無世界的な傍観者のようなものだと見なすのは、一種の極論でしかなく、かなり非現実的な見方でしかないと受け取られたからだ。そもそも現実世界を成り立たせている暗黙の想定を作動停止させたくらいで、いっきのその世界の外に出ることなどできるのだろうか。また、すでに作動が停止した暗黙の想定の姿をいくら詳しく眺めたところで、本当にその実際の作動の仕方を理解することなど可能なのだろうか。さらに言えば、実際に暗黙の想定を完全に作動停止させることなど本当に実現できるのだろうか。凝固状態にある暗黙の想定の絡み合いを詳しく調べ、その組成を理解しようとした途端、現実世界を成り立たせていた当の想定群は再び作動し始めてしまうのではないか。何かの姿を見てその仕組みを調べ、その構造を理解しようとすることは、たとえ還元が遂行された後のことであれ、現実世界の中を疑問なく生きている人々が普段行っている何らかの調査や理解の営みと、しょせんはそれ程変わらない営みなのだろうから。

フッサールはこれらの疑問に対しては断固として反論し、還元によって確保される領野の世界外部性や、精査される対象である、暗黙の想定群(意味付与作用群)の作動停止性(中立変様性)にあくまで固執し続けたのだった。そうした彼の頑なな姿勢を見て、まず直弟子のE・フィンクが、それではまるで、現象学的還元によって成立した超越論的主観性は、「未だかつて世界信憑を生きたことがない」(『第6省察』)ような者に等しくなるのではないか、言い換えれば、還元を遂行した者は、現実世界を成立させている暗黙の想定群を今まで一度も受け入れたことがなく、それゆえ、現実世界が現実世界として存在していること自体に実はピンと来ないままでいるのではないか、と指摘したのだった*2。こうした超越論的主観性のあり方は、いかなる居場所も得られない「異邦人」というよりは、むしろ地球上の人間社会に今までなじんだ経験がない「異星人」に相当すると言えるだろう。

以上のようなフィンクの指摘に刺激を受けるかたちで、現象学的還元に対するフッサールの自己解釈に不満を抱いた彼以降の現象学者たちは、むしろ決意に発動された還元の不完全性、不徹底性の方に焦点を合わせていくようになった。つまり、還元の完全な遂行に対してまさに「抵抗」してやまない、還元しきれない何らかの「残余」の方に着目していったのである。いくら還元によって暗黙の想定を停止させ、その想定の作動によって成立していた現実世界の外に出ようとしても、決してその外に出尽くすことなどはできない。何らかのかたちで、世界とのつながり(というかしがらみ)が残り続けているのだから。またそもそも、暗黙の想定の作動を完全に停止させること自体も不可能だ。還元によって確保された領野の中で、作動が停止した暗黙の想定群の凝固した姿を自分の目で確かめた途端、自分の目で見て確かめるという営みを可能にする何らかの想定が、再び作動し始めることになるからだ。さらに言えば、還元を決意によって遂行し、超越論的領野を維持すること自体が、しょせんは、現実世界の中で起きている常の多くの出来事のうちの一つに過ぎなかったのだった。それならば当然、何らかの暗黙の想定によってすでに支えられていることになる。

フッサールの次世代の(特に存在論への指向を持った)現象学者たちは、こうした事実を踏まえたうえで、現象学的還元の意義を、暗黙の想定の全てを自分の目で確かめられる対象に還元することではなく、逆に、当の還元に根強く抵抗してそれを不完全なものにする、還元しきれない何らかの残余物の次元を際立たせていくことの方に見出していった。還元によっても遮断されない、そうした次元こそが、人間と世界、さらには存在や自然との間の何らかの存在論的で根源的な関係を指し示しているはずだと同時に期待しながら。この発想の転換を通して、たとえばハイデガーは、人間(現存在)は世界の中に「常にすでに」放り出されてしまっているという「事後性」を、またメルロ・ポンティは、世界に意味を与えて構造化していく暗黙の想定の作用が「絶えず新たに」立ち上がり、作動し始めてしまうという「懐胎性」を、それぞれ新たに重視していくようになったのである *3。彼らからすれば、われわれはどこまで行っても世界の外に出ることなどできず、また、いつまで経っても世界に意味を与える作用を止めることはできない。そしてこの事実こそが、実は人間というものの根源的な存在論的条件だったのだ。

決意による還元と生きられた還元

とはいえ、還元の完全な遂行に抵抗する残余の次元の存在によって、本当に当の還元が不完全で不徹底なものにされていたのだろうか。また現象学的還元というものの唯一の意義は、還元によっても遮断されないそうした残余の次元を際立たせることにしかなかったのだろうか。多分そうではないだろう。そもそも還元という営みが不完全になるのは、それが「決意」という、極めて不自然なふるまいからしか始められなかったからだった。メルロ・ポンティが敢えて「決意」という言葉を用いて現象学的還元について説明した際にも、明らかにそのように考えていたはずだ。けれども彼を始めとした多くのフッサールの後継者たちは、決意という、いかにも頼りないふるまいによってしか還元を始めることができなかったのは、何らかの残余物によって当の還元の完全な遂行があらかじめ妨げられていたからだと、常に見なしていた。残余物によって還元の遂行が妨害され、抵抗を受けていたからこそ、そうした妨害、抵抗を性急にスキップというか否認するために、決意などという当てにならないものにすがるしかなかったのだと。

だがしかし、そうした決意などなしに、現象学的還元をいわばそのまま生きるというかたちで、還元が遂行されることもあったのではないか。もちろん、その場合には厳密な意味でそれが完全に遂行されることなどはなかっただろう。とは言っても、フィンクが言っていた、無世界的な傍観者にほぼ近い境地にまではたどり着いていたとは思われるのだが。実はこの、いわば生きられた現象学的還元こそ、ひきこもり経験の核に存在しているものだったのではないか。ひきこもり経験は、おのずから遂行されてしまった、この生きられた現象学的還元と深く関係するものだったのではないか。ひきこもりを経験した者たちは、現実世界を成り立たせる暗黙の想定がどうしてもピンと来ず、またそれを自明のものとして受け入れることもできなかった。そこで仕方ないからひきこもったのだが、ひきこもったその先から改めて現実世界の方に目をやると、もはやそこは、その中でどう生きればよいのかわからない、よそよそしいものとしてしか立ち現れなくなってしまった。そこで今度は、これまた仕方ないから、よそよそしい状態のままでその世界のあり方を何とか理解しようと努め始めようとする。よそよそしいままで理解するとは、現実世界の中を自然に生きることを可能にしていた、暗黙の想定群(「自然的断定」)の作動が停止したままの状態で、停止して凝固したその姿の組成や構造を精査して細かく分析していくということなのだが、いくらこうした努力をしたとしても決して現実世界で実際に自然に生きることなどできないだろう。というより、ただ作動停止した状態のあり方に詳しくなっていくだけなのだから、「自然的断定」が実際に作動している現実世界を生きることが逆に困難になり、ますますそこから浮いていくことになるはずだ*4

そのため前回のエントリーで見たように、一部の者たちは、現実世界で自然に生きることができずに場から浮いたり、人間関係でトラブルを起こしがちなひきこもり経験者のこのありさま自体を、コミュニティのあり方や人間関係の紡ぎ方をよりよいものに変えていく、攪乱や生成変化の運動を引き起こすトリガー(場を活性化させる異端者)として捉えようとしたのだが、結局はその試みもうまくいかなかった。であるならば、やはりひきこもり体質のこうしたありさまは、攪乱や生成変化の運動を引き起こすものではなく、決意がないままおのずと生きられてしまった、現象学的還元の遂行として捉えた方がよいのではないか。ひきこもった経験がある者たちは、現実世界と触れると、その世界を成り立たせていた暗黙の想定を作動停止させ、それを凝固した状態にさせてしまうことしかできなかったのだから。あるいは、世界を成立させていた暗黙の想定を作動停止させ、それを凝固させるという仕方でしか、もはや世界と関係することができなくなっていたのだから。

還元への抵抗それ自体への抵抗

従来の(存在論を志向する)現象学的理論は、「決意」という不自然なふるまいによってしか始まらざるを得なかった、現象学的還元という営みの不完全性と、それを不完全なものにしていた、還元しきれない何らかの残余物の方にばかり焦点を当てていた。還元の完遂に抵抗するそうした残余物の方が、還元それ自体の営みよりもより根源的な次元に存在するはずだと想定しながら。けれども、上に見たようにひきこもり体質というものが、決意というものを介さずにおのずと生きられてしまった現象学的還元であるならば、こうした理論的見立てはかなり修正が必要になるのではないか。従来は「自然的断定」という暗黙の想定群の作動を停止させるのは、決意による意識的努力だけだと考えられていたのだが、ひきこもり体質はわざわざ決意など介さずに、作動停止状態をおのずと実現させてしまっていたからだ。もちろん、想定群の作動をほぼ完全に停止させたとしても、それだけですぐに世界そのものの外に出ることはできないだろう。しかしながら、目の前の現実世界になじむことができない状態に留め置かれたわけだから、今まで一度も現実世界を生きたことがない異星人とまではいかないとしても、世界のどこにも居場所を見出すことができない、異邦人の境遇にまで追いやられたのはまた確かなことなのだった。

では、そうした異邦人性によって/として遂行された、生きられた現象学的還元とは実際にどのようなものなのだろうか。多分それは、主体の側の生の諸作用があらかじめ何らかの仕方で作動停止していたからこそ生じたものなのだろう。生の側のその作動停止に応じて世界の側の暗黙の想定群(「一切の自然的断定」)の作動も停止してしまうのだと思われる。つまり、主体の側の生の作動がすでに停止していたからこそ、その影響で、世界の側の「自然的断定」を作動させるスイッチも切られてしまうのだ。この生きられた現象学的還元特有の起動の仕方とその仕組みに関しては、また機会を改めて詳しく見ていくことにしたい。ただその際には、同時にそれを捉えるための特有の方法論について検討する必要も出てくるだろう。実はそれは大変難しいことなのだが。すでに作動が停止している状態を、作動状態にあるものを新たに停止させることしかできない、通常の現象学的還元によって把握できるかどうかはまったく不明なままだからだ*5。この問題についてはここではこれ以上踏み込まないことにするとして、それでは生きられた現象学的還元は、果たして何も残さずに還元を完全に遂行することはできたりするのだろうか。これまでの記述から予想されるように、当然それは無理な注文である。やはり、常にすでに世界の中に投げ出されているという、ハイデガーが強調してやまなかった事後性、被投性や、絶えず新たに意味付与の作動が始まり、不透明でニュアンスに満ちた世界が立ち上がってしまうという、メルロ・ポンティがいつもこだわっていた懐胎性、両義性を完全に遮断、払拭させることなどできないだろう。

とはいえ、だがしかし、生の諸作用が何らかの仕方であらかじめ停止状態にあるという、ひきこもりのこの存在論的核心は、まさに、そうした事後性や懐胎性のような還元しきれない残余物にこそ抵抗していたというか、抵抗せざるを得なかったのではないだろうか。――すなわち、還元の完全な遂行に抵抗していた、還元しきれいない残余の次元それ自体に対する頑なな抵抗。従来の現象学の理論では、還元不可能な残余の次元へのこうした抵抗の存在は殆ど看過されてきたのではないかと思う。けれども実際には、ひきこもりというものの核心は、まさにこの抵抗のうちにこそ存在していたのではないだろうか。では、その正体とはいったい何なのだろう?――この問いに対しては、それはシェリングの言う「収縮への意志」であると、ひとまずは暫定的に答えておきたい。というわけで次回は、その収縮への意志のあり方について見ていくことにしたい。

次回に続く。

*1:フッサール自身がASDであったか否かという問題は今は措いておく。

*2:ただしフィンク自身にとっては、超越論的主観性のこの「未だかつて世界信憑を生きたことがない」程の傍観者性は決して否定的なものではない。この点は注意したい。彼にとってはその傍観者性は逆に、フッサールが創始した現象学的還元というもののラジカルさを示していたのだった。また後年のフィンクのいわゆる「世界遊戯」の思想でも、この徹底した傍観者性は重要な役割を果たしていたと言える。世界それ自身の無慈悲な運動に巻き込まれる人間は常に悲劇的な生を生きざるを得ず、なじんでいた世界の従来の相貌に絶えず裏切られ、新たな世界の未知の相貌を前にしてその都度途方に暮れるしかないのだった。そこでは人間は、まさに「未だかつて世界信憑を生きたことがない」寄る辺のない境地にたえず追い込まれていくことになる。こうして、世界それ自身の運動に巻き込まれることの悲劇性は、常に「未だかつて世界信憑を生きたことがない」境地に人間が引き戻されるという事実によって証示されるようになるのだ。

*3:ただし前の註でも少し注意したように、フィンクの場合は少し事情が複雑だ。還元の完全な遂行に抵抗する残余の次元に注目したというよりは、逆に還元を完全に遂行できてしまい、その結果、未だかつて世界を信用したことがない寄る辺ない状態にまで追いやられてしまったという事実の方に注目していたのだから。彼は、還元の遂行によって人間がそうした境地に追いやられることのうちにこそ、世界それ自身の運動の効果を見て取ろうとしていたのだった。つまりフィンクにとっては、還元が完全に遂行できて人間が無世界的な傍観者の境位にまで追いつめられてしまうことこそが、還元を遂行した者が、世界それ自身の運動に服従してただそれに翻弄されるだけになるという意味で、逆に還元それ自身の限界を指し示していたのである。

*4:こうした事態を避けるためにこそ、ソーシャルスキル・トレーニング(社会生活技能訓練SST)というものが存在するのだが、しかしそれをいくら実践したとしても完全にこの状態が克服されることはないだろう。もちろん実践すれば或る程度改善され、負担も軽減されるだろうから、ソーシャルスキル・トレーニングは実施するに越したことはないのだが。ちなみに「べてるの家」は早い段階から、ソーシャルスキル・トレーニングの意義を、それを実践して、うまくいかない、失敗してしまうという経験をすることのうちの方に見出していた。いくらやってもうまくいかない、失敗してしまうという経験の中からこそ、当事者研究が追究すべき、既存の社会とうまくつながれない自らの当事者性を取り出していくことができたのだから。

*5:これは、現象学的還元を遂行している超越論的主観性の「視る」という作用自体を、超越論的主観性は果たして視ることができるのかという、フィンクがフッサールに突きつけた難問に似ていると言えるだろう。