外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅥ

ポスト構造主義の隘路?

68年の思想としてのポスト構造主義は、元々は倫理的なものと美的なものとの間の対立を、欲望や快楽というものに依拠することによって乗り越えようとするものだった。しかし現在では、ポスト構造主義は単なる社会/言語構築主義へと矮小化されたうえで、もっぱら倫理的なものを擁護するものでしかないと見なされつつある。そのためか、美的な次元での表現の自由をあくまで堅持したい者たちや、倫理的な次元に押し込めることはできない人間の生物学的な側面を重視したい者たちからは特に敵意を持たれるようになり、「ポモ」などと蔑称で呼ばれるようになる始末である。

また、こうしたたぐいの矮小化にはどうしても耐えることができなかった、一部のポスト構造主義支持者たちが、現在次のような点をやたら強調するようになっている。すなわち、欲望や快楽に依拠することは、倫理的な次元には収めることができない人間の過剰な/かつ残余である部分に依拠することに等しいから、決してポスト構造主義は(一部のリベラルに見られるように)声高に倫理的な裁断をするようなリゴリスティックなものなのではないと。しかしこのように強調する者たちは、もっぱら倫理的な次元に対して美的な次元を単に対置させることしかできていなかったから、結局は、倫理的なものと美的なものとの間の既存の対立を(表現の自由を重視する者たちと、倫理的な配慮や規制を重視する者たちとの間の対立に加担するという最悪のかたちで)ただ反復強化させていただけだと思う。

正直言って、これは明らかに理論的な後退なのではないか。そしてこの理論的な後退が指し示していたのは、倫理的なものと美的なものとの間の対立は、そもそも欲望や快楽などによっては乗り越えることなどできないという、冷酷な事実だったのだろう。それゆえ、この対立を新たに乗り越えることを可能にさせるような、欲望や快楽以外の「何か」を改めて探さなければならないことになる。あるいは、倫理的なものと美的なものとの間の対立を乗り越えるという、この問題設定自体をそもそも再検討しなければならなくなるのかもしれない。