外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ヘンタイ・パフォーマーたちの存在と機能

もてあました自分の存在をどう受けとめてよいかわからず、また世界に受け入れられたという記憶が乏しいため、世界にどう関わってよいかもわからない。そのため仕方なく、内から迸り出てくる破壊衝動と表現衝動にひたすら忠実に従っていくことしかできない(それ以外にやることがない)、アート「もどき」(←ここ重要!)のパフォーマンスに勤しむヘンタイ・パフォーマーたち。彼/彼女たちの実践(というよりプラクティス:慣習行動)は、いわばアート・セラピーのセッションが失敗して空転し続けている状態なのだと言える。もう一歩踏み込んで言えば、アート・セラピーが失敗した空転状態そのものの慢性化。(傍らからは意味不明でチープな表現行為にしか見えない)ヘンタイ・パフォーマーたちのこうしたあり方は、当然アートとも政治的プロテスト行為とも、はたまたセラピーの実践とも見なされないだろう。それらのものの狭間に穿たれた空間に落ち込んで、そこで動きが取れなくなってしまった、いわば歴史のあだ花のような存在。

ところでヘンタイ・パフォーマーたちは、当然アート・セラピーそれ自体の可能性も掘り崩してしまうため、アート・セラピー関係者にとってもまた厄介な存在だったのだ。アート・セラピーのワークショップで、やたら元気でよく発言するのも実はこの種の連中であることが多いのだが、たいていの場合は言っていることが余りにも独自(というかひとりよがり)なので、参加者のうちでまっとうにアート活動をしている者と、精神療法の仕事を専門にしている者やその勉強を現在している者は、ただ苦笑いして話を聞いているふりをするか、もしくはひたすら見て見ぬふりをするようになってしまう・・

けれども元々アート・セラピーという存在そのものが、アートとセラピーの間に穿たれた狭間の空間に位置してきたものでしかなく、しかも、アートとセラピーの世界の両方から一段下のものでしかない、もしくは胡散臭いものとして常に見られてきたのではなかったのか。そうであるのなら、アート・セラピーのワークショップにこうした者たちが集まってくるのも、さもありなんということになるのではないか。それならむしろ逆に、アート・セラピーのセッションの失敗形態を日々生きるヘンタイ・パフォーマーたちが、アート・セラピーの場そのものを完全に占拠・占有してしまった方がよいのではないか。なぜならそうなった方が、アート・セラピーはジャンルとしてより自立できるようになるかもしれないからだ。ヘンタイ・パフォーマーたちがアート・セラピーの主な担い手となれば、アートとセラピーのただの中間形態として、完全なアートでもセラピーでもないものとして一段下に見られていた段階から、アートとセラピーの間に穿たれた狭間の空間の上で、独自なジャンルとして改めて自己を打ち立てることができる段階へと移行していくかもしれない。ただこうしたことを実現するためには、現在はアートセラピーの失敗形態をただの症状として慢性的に生きているだけにしか見えない、ヘンタイ・パフォーマーたちの実践(慣習行動)をそれ自体で完成したものとして捉え返し、実際にそうしたものへと内的に変容・昇華させる(=生そのものの作品化)努力を始めていく必要があるのだが・・