外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

「自分探し」と「承認欲求」に関するメモの追記

前日のエントリーの追記です。

錯覚とジレンマ

〈感性〉にのみ主体を依拠させる試みと、「自分探し」との関係は、土井隆義の次のような議論が参考になるかも知れない。「現代の若者」は*1、そのときどきの自分の感情、感覚、気分――まさに〈感性〉的世界――に敏感になって、ひたすらそれらに忠実になれば、自分の「心の内面」の奥底に存在する、不変で確固とした実体としての「本当の自分」を見出せる筈だという錯覚に囚われている。そのため、流されない、不変で確固としたそうした心の拠りどころを見出そうと努めれば努める程、逆に、とりとめない、そのときどきの感情や感覚の移り変わりに左右されるようになって、却って自らを見失ってしまうことになる。これは現代の若者の殆どが免れることができない、深刻なジレンマなのではないのかと *2。このような錯覚やジレンマは、実は、〈感性〉というものが本来持っていた流動性に主体を依拠させて、そのあり方を柔軟にすることに失敗してしまったからこそ(言い換えれば、そうしたことを可能にする〈生の技法〉が欠けたままだったからこそ)、生じてしまうのではないだろうか。

一方、〈ナラティヴ〉と「承認欲求」との関係を見てみると、そこには、自分−語りを他者に対して一方的に行い続ければ、あるいは、自分のあらゆる面をひたすら他者の前に曝し続ければ――それらはいずれも、本来の〈ナラティヴ〉の不完全な、失敗した形態ということになるわけなのだが――、そのことによってだけで、他者との不変で確固としたつながりが実現される筈だ、という錯覚が存在していることが見て取れる。こうした一方的な語り方や自己暴露を続けていると、(それらは、いわば「痛く」て「気持ち悪い」だけのふるまいにしかならないから)当然他者の方はウンザリし始めて、後はひたすら引いて、避けて、敬遠していくことにしかならない。それゆえここには、他者との確固として安定した関係を求めれば求める程、逆に孤立してしまうという、深刻なジレンマも発生することになる。多分この種の錯覚やジレンマもまた、ナラティヴという実践を通して共同で自己探求や自己変容を模索していくということに失敗したことから(言い換えれば、そうするための〈つながりの作法〉が欠けたままであったということから)、生じてきたものだと思われる。

また、以上のような「自分探し」と「承認欲求」とを一つに結びつけているのは、決して存在しないがゆえに人を魅了し続けるマヌーバーとして機能する、不変で確固とした、実体としての自己という観念なのだろう。そうした自己は、「自分探し」の中では「心の内面」の奥底に存在しているものだと錯覚されていたのだが、「承認欲求」が蔓延すると一転して、自分−語りに徹すればそれは実際に他者に伝わり、しかもそのことによって、その他者との安定して確固としたつながりが実現される筈だという、また別の錯覚が広がってしまったわけだ。

好奇のまなざし

さて、その種の錯覚に足を掬われ、生じてしまったジレンマを何とかしようとしてもがいていると、そこから色々な悲喜劇が生まれてくることになる。特に、いくら心の内面を追求しても「本当の自分」が見つからないのは、何かに妨害されているからだ、あるいは、いくら自分を曝してもいっこうに誰からも相手にされないのは、人々の目が何かによって曇らされているからだなどと一方的に考え、勝手に妄想的な敵をでっち上げて、それとひたすら戦っていくような姿は確かに痛々しいのだが、しかしその一方で、気になって決して目を離せなかったりもする。そこには、真剣さと滑稽さとが一つに結びついてしまうという、あまり見たくはなかった人間の生の姿が露呈されているからだ。多分多くの者が、「自分探し」や「承認欲求」という言葉に強く魅かれるとともに、そこに言いようもない胡散臭さを感じてしまうのは、まさにそれらの言葉が、こうした人間の悲喜劇や生の姿を強く喚起してやまないからだろう。

けれども、前面に現れ出た限りでの、派手な悲喜劇や印象的な生の姿にしか着目しないのは、しょせん好奇のまなざしに流されただけの、本末転倒のふるまいに過ぎないのではないだろうか。やはり、「自分探し」や「承認欲求」というものがそこから生じてくる、主体を〈感性〉のみに依拠させるための〈生の技法〉の不在、もしくは、〈ナラティヴ〉を通して共同的な自己探求、自己変容を実践していくための〈つながりの作法〉の欠如という、ヨリ根本的な問題の方に焦点を絞っていくべきだと思うのだが、果たしてどうだろうか。

真の検討課題とは?――倦怠と幻滅の中から

ところで「自分探し」や「承認欲求」に足を掬われた者たちは、ほぼ例外なく、やがては徒労感を覚えて、そうしたものの追求をやめてしまうことになる。もはや、そのときどきの自分の感覚や感情に敏感になってそれらに忠実になろうとしたり、また、自分の心の中に何か大切なものを探していくこともしなくなるのだ。あるいは、もはや人前で自分のことについて、しつこくかつ熱く語ったり、他人との強くて深い絆を求めることも断念してしまう。そして、あとにはただ深い倦怠と幻滅が残るだけになる。

どうも自分としては、そうした倦怠と幻滅こそが実はとても大切なものに思えて仕方ないのだが、それは単なるルサンチマンというか、負け惜しみの感情に過ぎないのだろうか。この倦怠と幻滅というあり方の方から、「自分探し」や「承認欲求」という厄介なものを生み出してしまった、あの〈生の技法〉の不在や〈つながりの作法〉の欠如という問題を振り返り、また、まさに倦怠と幻滅というあり方の中で、もしくはそれらを通してこそ、改めて〈生の技法〉や〈つながりの作法〉を模索していくこと。――自分としては、このことこそがどうしても真の検討課題に思えてならないのだった。

こうした課題は、一見すると、単に過去の失敗を反省して、二度と同じ失敗をしないよう、改めて一からやり直そうとすること(いわゆる「失敗学」的試み)と区別がつかないかも知れない。しかし実際はそうではない。失敗を避けることができたものと見なして、改めて最初から物事をやり直そうとするのではなく、まったく逆に、過去の失敗は不可避であり(だからこそ、常に同じ失敗を繰り返す危険性が存在している)、しかもその失敗がやり直しの効かない、とり返しのつかない状況を生み出してしまったことまで認め、そのうえで何とかその状況に対応しようと画策していくことである。ただしそのためには、まずは、動きが取れない膠着状態に何とか働きかけ、その中でかろうじて何らかの対応が取れるような隙間や余白自体を、そこに作り出していく必要があるのだが。

つまり、ここで言われている課題とは、〈生の技法〉の不在や〈つながりの作法〉の欠如は避けられなかったといったん認めたうえで、倦怠や幻滅の中で、あるいは倦怠や幻滅を通して、それらの不在や欠如がもたらしてしまった否定的影響や帰結に対する、適切で効果的な関わり方を模索していくということである。このことは単純に考えれば、単に〈生の技法〉や〈つながりの作法〉をこれから新たに作る際、それらのものが存在しなかったり欠けていたことによって生じた問題にも対応できるようなものにしていく、ということしか意味していないかも知れない。もちろんそれでも間違いではないが、しかしより厳密に言えば、それは、技法や作法の不在や欠如がもたらした否定的影響、帰結それ自体を「素材」*3にして、新たな技法や作法を作っていくということこそ意味している。しかもそれらの技法や作法は、その否定的影響、帰結そのものを生きられるようにする、というかその影響、帰結自身を、懸案の問題がすでに解決された、よりよい生の姿に高めていく変容させていく)ようなものでなければならない筈だ。新たに求められている〈技法〉や〈作法〉は、あくまでこうしたことを実現するためのものになるのではないか。

過去の失敗へのまなざしのむけ方――ハイデガーベンヤミンの場合

こうした過去の失敗や、それがもたらした否定的影響へのまなざしの向け方や関わり方の問題は、実は30年代のドイツの思想がおもにこだわっていたものである。たとえばハイデガーは、一般に何らかの物事が〈始まる〉場合、そこには常に性急さや一面性というものが伴っているから、それらが原因となって、その物事から生じる結果には、必ず人々を苦しめる否定的影響、帰結が余計なものとしてつきまとうことになると述べていた。それゆえ、改めてその〈始まり〉のもとに立ち戻り、始まり方が性急で一面的であったためにそこで取りこぼされてしまった問題を新たに拾い上げたり、そこで解決されないままだった問題を改めて解決する必要が出てくることになる。そのようにしない限り、否定的な影響や帰結を払拭することなど決してできないからだ。過去の〈始まり〉へのこうした独特の関わり方が、単に過去のよかった点を「回復」させようとする後ろ向きの姿勢とは区別された、取りこぼされたものを後からどんどん拾い直していく、「回収」という意味での「反復」(Wieder-holung)というものになる。ハイデガーにとっては、それこそが過去の失敗に対する前向きな姿勢なのだった*4

一方ベンヤミンにとっては、一般に新たな何かが〈始まる〉のは、従来の何かが行き詰って、そこで「破局」というものが生じたからに過ぎないのだった。つまり始まりには常に破局というものしか存在せず、言い換えれば始まりというものは常に、破局から/破局としてしか始まらないことになる。それゆえ〈始まり〉というものに一種の性急さや一面性が伴うのは、彼にとってはあまりも当然のことだったのであり、決してそうしたものは後から取り除いたり、贖うことができるようなものだとは考えていなかった。またそうだったからこそ、新たに始まった物事が行き詰まり、再び別の破局をもたらすことになるのも極めて当たり前のことだと見なしていた。こうした見方をする彼にとって重要なのは、むしろ、次々に新たに物事を始めようとする(近代特有の)強迫的なふるまい自体から距離を取って、歴史上の様々な破局がもたらした否定的な影響や帰結の集積のもとにあくまで留まろうとすることだったのである。否定的な帰結が集積する場所は、前へ前へと突き進もうとする歴史の進行の傍らにひっそりと存在していて、そこではそうした帰結が、いわば打ち捨てられたゴミや残骸と化して、沈黙したまま存在し続けている。彼はこの沈黙が支配した空間の中で、それらゴミや残骸を丹念に拾い集め*5、しかもそれらを色々な仕方で並び直し、積み直していくことにあくまでこだわっていた。そうしたことをしていれば、もしかしたら、並び直され積み直された否定的帰結の集積から、新たに物事を始めようとする近代特有の強迫観念から完全に解放された、もはや新たに物事を始める必要などない、破局の反復から完全に免れた、まったく別の生のあり方に関する手掛かりやビジョンが浮かび上がってくるかも知れないからだ。このように、歴史の進行の傍らに存在する時間が停止した空間の中で、歴史の進行からこぼれ落ちてくる、様々なその否定的帰結を拾い集めて並べ直し、並べ直されたその姿から、〈始まり〉への強迫から解放された別の生の姿を何とか浮かび上がらせようとする試みが、「静止状態の弁証法」と言われるものである。

思わず「自分探し」や「承認欲求」というものから遠くに離れてしまったのだが、いずれにせよ、「自分探し」や「承認欲求」という言葉の氾濫にいかがわしさを感じて、ただそれに反撥したり、あるいは逆に、そうした言葉が示唆している現象に一方的に好奇の目を向けるだけではなく、ハイデガーベンヤミンが示していたような、過去の失敗への独特な目の向け方などを参考しながら、看過されがちなより本質的な問題の方に焦点を合わせていくのがとにかく大切だと思っている。

*1:漠然と一般化されているが、本来は、特定の時代の特定の階層のという限定がつく筈。

*2:土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)など。

*3:この「素材」という独特な表現は、特に上山和樹氏の議論を踏まえてのものです。また「生の技法」や「つながりの作法」という、ある程度流通した表現を取り上げたときも、彼の議論を意識しています。ついでに後期フーコーの議論も。両者ともまだ自分の手にはあまりまくりですが。

*4:ハイデガーのナチへの加担に、このハイデガー自身の論理を適用すると、新たに色々なことが見えてくるらしいのだが、果たしてどうなのだろうか。

*5:このようにハイデガーベンヤミンでは、「拾い集め」ようとしているものがまったく対照的なのだった。ハイデガーの場合は、拾い集めようとするのは物事が始まったところで取り残されてしまったものであり、それに対してベンヤミンの場合は、拾い集めようとするのは逆に物事の進行からこぼれ落ちてしまったものである。