外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

「自分探し」と「承認欲求」に関するメモ

「自分探し」や「承認欲求」という言葉は、多くの人間がそうしたものに囚われているという事実を確認する際の社会学的な記述概念としては確かに適切なのかも知れないが、しかし、どうしてそうなってしまったのかを分析する際の社会科学的な分析概念や、あるいは、ではどうすればよいのかを検討する際の哲学的な操作概念としては、やはり不適切だと思う。

「自分探し」と〈感性〉

そもそも「自分探し」とは、価値観が多様化したりあらゆる規範が不確かなものとなった高度消費社会の状況の中で、一人ひとりが自らの〈感性〉というものを覚醒させ、それを柔軟なものにすることよって、一つの価値観に強くコミットしたり、特定の規範を内面化したりせずとも生きていけるようにした試みの挫折の結果、初めてもたらされたものではなかったのではないか。言い換えれば、研ぎ澄まされて柔軟になった自らの〈感性〉のみに依拠することよって、多様な価値観が衝突してやまず、また確固とした規範が存在しないままのアノミー状況にうまく適応していくとともに、その中をしたたかに生き抜こうとする試みが失敗した結果、そこから撤退し、その試みに蓋をするためにこそ、「自分探し」や、その変種である「ありのままの自分の肯定」というものが召喚されたのではないだろうか。

ところで、まさに『感性の覚醒』という名の著作があった中村雄二郎の名は、現在ではすでに忘却され、もはや一顧だにもされなくなっているが(大病のため長く執筆困難な状況に置かれているそうだから、いた仕方ない面もあるのだが)、私見では、彼の思想は、上述のように、人が感性を柔軟にし、そうした感性のみで生きられるようにするにはどうすればよいのか、ということ以外にはこだわっていなかったように思われる。この彼の名前や思想が忘却されるとともに、「自分探し」という言葉(や、80年代から「自分探し」の時代が本格的に始まったという社会学的見方)が定着していくのは、大変象徴的だと思われてならないのだが、果たしてどうだろうか。

もちろん、〈感性〉の覚醒や、それにのみ自己を依拠させるという彼の考え方は、当時の高度消費社会のうわついた豊かさを前提としていて、その中で「消費者」としてどう成熟すればよいのかという、これまた当時の社会的課題に応えようとしていた面が強かったから、後から見れば、ただ消費社会を肯定しただけの、ありがちなイデオロギーの一つに過ぎなかったのかも知れない。しかし、〈感性〉にのみ依拠しようとした試みの挫折と、「自分探し」というもの・言葉の蔓延との間の歴史的関連性、そして、そうした試み自体の困難さをしるしづけるものとして、彼の名前と思想は長く記憶にとどめられてよいと思う。また、こうした中村の思想を今後も生かしていくためには、当然、主体を〈感性〉にのみ依拠させようとしたことに関わる着眼点を、消費社会を肯定したイデオロギー的側面から区別して、それだけを救い出していく必要があるのだが。

「承認欲求」と〈ナラティヴ〉

一方「承認欲求」というものも、権威を持った既存の専門家のディスコースが、当事者の実態やニーズをまったく反映していなかったがために、そうしたディスコースに不信を持った当事者自身が試みた、〈ナラティヴ〉という実践が挫折・失敗した結果、そこから初めてもたらされるものであると思われる。その挫折・失敗を糊塗したり、それを隠蔽するようなものとして*1。「ナラティヴ」とは言葉の文字通りの意味では、ただ「自分たち自身のことを語ること」(自分‐語り)に過ぎないのだが、〈ナラティヴ〉という実践は単にそうしたものに尽きるわけではなく、自分たちについて語ることを通して、それと同時に、専門家の対応から距離を取って、自分たちの実態やニーズについて自らで追求できるような機会・場を開いていくとともに、さらに、専門家の分析や規定と競合しながら、実態やニーズに関する自分たち自身の側の認識や分析を絶えず対抗-提示できる*2ような力(力能、力量)を獲得していこうとする試みのことである。つまり、自分‐語りを通して、自己追求できる機会を開き、(専門家や一般社会に対して)対抗的な*3自己呈示をできる力を獲得していこうとすること。

こうした、自らで機会を開き、力を獲得していくという意味での〈ナラティヴ〉実践が挫折・失敗してしまうと、自分‐語りは、他者の事情を考慮したり、他者の要求に応えるよう努力することなく、自分の存在が無条件で完全に受容されるという意味での「承認」なるものだけをもっぱら求めてなされるようになってしまうのではないか。こうして、世に言われる「承認欲求」なるものが頭をもたげてくることになると思うのだが、実際のところはどうなのだろうか。また、この承認欲求というものにはよく「居場所」への欲求というものも付随しているが、この「居場所」というのは、こちらが他者の事情・要求に対して何の考慮・努力もしないまま全面的な受容を獲得できるような、存在すること自体が大変稀な、特権的な空間のことを指しているのだろう(いわば、親密圏/公共圏という区別自体が撤廃された空間)。

なお、最近「つながり」や「絆」というものの重要性が各所で叫ばれているが、それらのもの形成するための、現在有効な唯一の紐帯原理は、互いに共通の実態やニーズと、各人で異なるそれらとを共に絶えず追求・検証・尊重していくような姿勢や手続き以外にあり得ないのではないだろうか。同一の帰属先や共通の価値観に訴えていくこととなどもはやできる筈がないのだから(有力な共通の「利害」としては、「地域・地元住民」としてのそれというものが挙げられるが、当然その共通性にも限界があるわけだから、それを人々がつながるための紐帯原理として高く掲げていくことなどできないだろう)。そして、〈ナラティヴ〉の実践による共同性(というより、ただの「集まり」と言った方が正確か)の形成こそが、そうした姿勢や手続きを肉付けしていくための有力なものになる筈だったと思うのだが、どうもあまりというか、ほとんど定着しているようには見えない。

「傾聴」と「承認欲求」

ところで、ナラティヴ的な共同性の形成の代わりに最近とみに注目されるようになってきたものとして、「傾聴」の原則というものが挙げられる。特に鷲田清一などが、臨床哲学的な知見を背景にしながらそれを強調してやまないのだが、正直言って傾聴原則だけを強調することは、ナラティヴ的な共同性の形成という課題にとってはかなり微妙であると言わざるを得ない。というより、明らかに大きな問題があると言った方がよい。確かに聞き役が「傾聴」という姿勢に徹しさえすれば、当事者の自分‐語りは促され、そのことを通して自己追求も深まり、従来よりも自分のニーズや、自らが置かれている実態をより的確に認識できるようにはなるだろう。しかし問題なのは、こうした自己追求や自己認識が展開される機会・場が、聞き役の側の配慮やふるまいによって一方的に与えられ、お膳立てされるに過ぎず、語る当事者は一切そうした機会、場の設定、創設には関与できないままにとどまるという点である(聞き役と語り役の立場が自由に交代できるような関係があらかじめ形成されていれば、また別なのだろうが)。また、語りによって得られた新たな自己認識をこちらから提示し返して、それを共同的な語り合いによってさらに別のものにしていくような機会も奪われたままだ。これでは、語りによって自らで獲得した新たな自己認識を、こちらから他者や社会に対して有効に提示し返していくような力も、いつまでも身につかないままに留まるだろう。

こうした「傾聴」という聴き手の側の配慮は、当事者の語りにきっかけを与えたり、それをさらに促していくことしかできなかったわけだから、本来は、〈ナラティヴ〉という実践の出発点にのみ存在しただけの、あくまでその一構成契機に過ぎなかったと思われる。ところがそれだけが一方的に強調されて、ナラティヴ実践から分離して自立してしまう現象を前にすると、やはりそこには、「承認欲求」というものや言葉が蔓延した現代の状況が深く関与していると思わざるを得ない。他者の前でいくら自分‐語りをしたとしても、自己探求を深めていくことができるような空間がそこで開かれなかったり、新たな自己認識をその他者に対して提示し返していくことができないままであるならば、実質的にはその他者と何の関係も形成していなかった、つまりまったくつながっていなかったことになる。にもかかわらず、そこで無理矢理目の前の他者とつながろうとすれば、あとは、自分の存在をまるごと無条件に受け入れる―‐すなわち「承認」する――よう強引に迫っていくことしかできなくなる筈だ。このようにして、自分−語りをしたにもかかわらず〈ナラティヴ〉というものが立ち上がらずに、他者との関係が成立しないままになってしまったところでこそ、まさにこの関係の未成立という事態を糊塗するために、強引に自分の存在を相手に受け入れさせようとする、「承認欲求」というものが頭をもたげ始めるのではないだろうか。

そして、聞き役に一方的に「傾聴」という姿勢を求めることは、承認欲求に足を掬われたこうした語る側の躓きやこわばりを、そこでそのまま受け入れ、あくまで耐え忍ぶよう要求していくことに他ならないと言えるだろう。確かに聞く側が傾聴に徹すれば、語る側のそうした躓きやこわばりもいくらか緩和され、自己認識が少しは深まることがあるかも知れない。しかし、傾聴という姿勢だけで達成できるのはしょせんそこまでであり、自己追求ができるような空間を共同で開いて維持していったり、また、そこで得られた新たな自己認識(新たな自己アイデンティティ、自己ストーリー)がヨリ説得力のあるものになるよう、共同で吟味して語り直していくようなプロセスは決して生起しないままである。それゆえ、「傾聴」という原則だけを一方的に強調することは、まさにこうしたナラティヴ実践の失調状態をそのまま受け入れ、語り手がいつまでも承認欲求なるものに囚われたままであるような現実に耐えよと、聞く側に強要しているに等しいことになる。こうして「傾聴」の重要性の強調は、実は、まさに「承認要求」という言葉やものが蔓延している現在の状況を追認し、ただそれを補完するようなものに過ぎなかったことになるわけだ。

〈市民〉概念の深化?

さて、以上のような、失敗することによって「自分探し」というものが浮上してしまう、自らの生き方を〈感性〉にのみ依拠させようとしたことや、同じく、失調することによって「承認欲求」というものが立ち上がってしまった、〈ナラティヴ〉のみによって他者とつながろうとすることは、私見では、(いわゆるリベサヨではなく)オールド・リベラルの市民社会派が求めていた、〈市民〉概念をさらに深化させ、複雑なニュアンスを与えていくものだと思われる。

もちろんコミュニタリアン的に言えば、まさに〈感性〉や〈ナリティヴ〉にのみ依拠したあり方を求めようとすること自体が、いわゆる「負荷なき自我」を求めることに等しく、それゆえ挫折するのは必然的だったことになるのだろう。コミュニタリアンからすれば、現代人が「自分探し」の迷路にはまり、「承認欲求」の隘路に陥ってしまうのは、まさに自我の負荷性を認めることができず、その負荷を与えるような特定のコミュニティに自発的に帰属して、その中で開かれた共通善を求めていくことができなかったからだということになる。確かにそうなのかも知れないが、しかし、帰属先になるようなコミュニティを形成したり、あるいはいったん形成されたコミュニティを帰属先にし続けることが益々難しくなりつつある現状では、〈感性〉や〈ナラティヴ〉というものにのみ基づいてコミュニティを形成・維持していこうとする試みは、やはり決して無意味なものではなかった筈である。多分それは、非コミュニタリアン的な仕方で、コミュニティという存在の重要性や、その形成の仕方について考えていくことを促していくのだろう。

「自分探し」や「承認欲求」という言葉の氾濫にいかがわしさを感じている者たちの一部は、これらの言葉の由来や系譜を突き詰めることによって、そのいかがわしさの正体を突き詰めようとしていた。そうした試みはもちろん大変有益なのだが*4、さらに上に見たような背景事情にこだわっていくことも、決して無意味なことではない筈だ。

*1:それゆえ、排外主義的主張の根底にただ承認欲求の存在だけを見て取って、その欲求さえ満たしさえすれば排外主義的主張自体は消え去る筈だとする見方は、極めて不充分で不適切なものと言わざるを得ない。承認欲求の存在自体が、ナラティヴ実践の挫折を示している、一種の症状のようなものでしかないのだから。多分その欲求自体を満たしてやろうと試み始めると、却ってきりがなくなって、逆に当の欲求自体を肥大させていくことにしかならない筈だ。さらに言えば、たとえナラティヴ実践がうまく行ったとしても、排外主義的主張がきれいに消え去るとは限らない。やはり排外主義に対しては、余計な迂回路などは設定せずに、あくまで正面から反対していく仕方を模索していくしかないだろう。

*2:このことを敢えて「アイデンティティ」という問題含みの概念を用いて言い換えれば、専門家や社会が強制した、既存の固定化されたアイデンティティに対抗しながら、自分たちでもう1つ別のアイデンティティを構築していくことができるようになるとともに、さらに、自分たちで常に任意にアイデンティティを組み替えていくことができるようにもする、つまり自らのアイデンティティ自体を柔軟に組み替え可能なものに変貌させる、ということになる。

*3:なお、この場合の「対抗的」という表現には、専門家や一般社会から不当に無視・黙殺されるという意味はまったく含まれていない。それでは「対抗」としての意味自体がなくなってしまうだろう。そうではなく、完全には納得・理解されないままも、専門家や一般社会がそれなりに一目置き、尊重するようになるという程の意味である。

*4:たとえば長谷川晴生氏のこうした指摘など。