外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

予告

書き続けられる自信は今もまったくないんですが、じきに再開したいと思ってます。で、その予告ということでちょっと印象的な話を。

日芸大のネグリをめぐる講演に行ってきたのですが、遅く会場に着き、しかも疲れていたので殆ど話は聞けませんでした。さてd:id:Z99:20080330さんによると、舞踏家の田中泯氏と、最近ネグリを精力的に訳している廣瀬純氏との間で、次のようなやりとりがなされたそうです。

廣瀬氏は次に、春闘ベーシックインカムの話を始めた。すると、田中氏がいきなり次のような発言をした。
「春にジャガイモの種を蒔けばジャガイモがとれる」
周囲は沈黙している。
廣瀬氏は、目を白黒させていた。何が起こったのか把握できていないような顔をしている。しかし、しばしの沈黙の後、廣瀬氏は、「…ええ。そうですね。で、ベーシックインカムについてですが…」と話を続けようとした。
すると、田中氏が怒りのこもった声で、次のように怒鳴った。
「この話がお前の話のどこに入っているのか。分かるけど、分からないんだよ。」
いきなり喧嘩腰である。廣瀬氏は、どうしたらいいのか分からず固まっているように見える。しかしやがて、次のように返答した。
「…いえ。その話もちゃんと関係してくると思います。」
「階級をときほぐす言語をなぜ持っていないの?」
廣瀬氏の返答と田中氏の言葉が重なった。
「普段からあなたは、そんな話し方をするの?」
田中氏が廣瀬氏に問いかける。
「本当に誰もが分かる言葉を話す人はいないのか? 「内部にすべてがある。外部はない。」と言うが、分かるけど、分からないんだよ*1。分かるけど分からないことについて文句を言うのが「からだ」の権利だから、言うんだけどよ。ネグリがいたら、くってかかったはずなんだけどよ。」

いい話ですね。その場に漂った、一瞬のうちに人々の戸惑いが実体化したような凍りつく感じを充分に味わいたかった。こういう感じははすぐに過ぎ去ってしまうのが常ですからね。そもそも、ヘッドとボディとの間のこの種のディス・コミュニケーションのうちにしか、知性というものは宿らないんだと思うんですヨ。また、「政治とアート」という問題について考えることは、あくまでこういうエアポケット空間の中に留まることだと最近思えてなりません。

*1:ちなみに、この見方が持つ独特のわからなさについては、廣瀬氏自身が『芸術とマルチチュード』の「訳者あとがき」である程度説明してくれてます。いわく、この見方に対する「疑念や反論といったものは、ネグリの仕事を、革命家のそれとしてではなく、社会学者かなにかのそれとして受け取ってしまうことに由来する、いわば、見当違いの反応なのだ」。というのは、たとえ彼が、社会の現状を把握しようとするこの種の社会学的見方を取り入れたとしても、それは「未来の傾向/趨勢をできるだけ先取りするためであって、「現在」あるいは現代社会のありのままをそれとして再提示する(rappresentare)ためではない」からである(訳書226頁)。やっぱりわかりにくい?