外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

〈究極の流動性としての戦争〉についての覚え書き(2)

覚え書きのその2です。こっちの方がいくぶんとっつき易いかも…(後半がクドめですが)。

*        *        *

「希望は、(極限の流動性としての)戦争」というキャッチフレーズは、赤木氏本人が否定するにもかかわらず、彼を支持する者たちは、それは単なるレトリックに過ぎないから真に受けるなと釘を刺し*1、むしろ、そういうことを言わざるを得ない根っこの窮状の方に注目しろ、あるいは、文句があるなら彼を戦争へと向かわせないような具体的で有効な対案を出せ、としきりに強調していた。確かにそうかも知れない。しかし依然として、

(1)流動性が加速化すると一番損をする貧者(という自覚を持った者)が、なぜその加速化や極限化を求めたのか。
(2)流動性の極限にどうして「戦争」という表象が与えられたのか。
(3)現在はすでに実質的な〈戦争状態〉にあるにもかかわらず、その事実を見ようとせずに、なぜ改めて戦争の勃発を求めたりするのか。

という点は疑問のままだ。なおここでの〈戦争状態〉とは、一言で言えば、生きるよう促され支えられる者と、死の中に遺棄しても構わないと見なされた者とを分断していく〈生権力〉と、そこで死の中に遺棄される側に分類されてしまった者を、レッテル化・カテゴリー化によって特定の空間に囲い込み、丸ごと排除していく〈セキュリティ権力〉とが、二つ共に肥大化した状態のことである。この状態のもとでは、法に基づいた通常の平和な秩序と、法が停止し、秩序が解体した全面戦争という例外状態との間の区別が無効化して(いわゆる〈例外状態の常態化〉)、市場における競争と、戦場における殺戮との間の区別が限りなく曖昧になり、両者の間が連続的になるとともに、互いが互いを呼び求めるようになってしまう(いわゆる〈グローバルな内戦状態〉)。

窮状に対する理解や有効な対案の提示の方は、もっと適任者がいるだろうからそちらに任せるとして、自分としては、あくまで戦争をめぐる上記の疑問にこだわっていきたい。

フリーター層は小泉改革に騙されていたわけではない

まず(1)に関しては、すでに小泉政権構造改革をめぐって同じようなことが言われていたのが忘れられない。どうして構造改革によって一番損をするはずの、フリーター層(不安定雇用層)が一番小泉政権を支持するのかと、当時もしきりに問題とされていた。それに対する左派の側の答えは、だいたい、古い自民党をぶっ壊すと言う小泉の威勢のよさや、その権威主義的な手法に、フリーター層は見通しがない閉塞感のうさを晴らしてくれるものや、自らの無力感を埋めてくれる力強さを見出し、彼/女たちはいわば小泉のイメージ戦略に騙され、自らが置かれた状況から目を反らされていた、というものだった(これは、客観的な階級規定と主観的意識との間のギャップを突く、古典的な虚偽意識論に基づいている)。

ところが、世代間格差や不公平の深刻さを踏まえた赤木氏の主張をそこに当てはめてみると、小泉政権がぶっ壊そうとした自民党守旧派既得権益と結びついて、まさに氷河期世代の人々を蹂躙していたわけだから、その同世代の多くが小泉を支持したのは、決して間違いではなかったことになる。つまり、彼/女たちは決して騙されていたわけではなかったのだ。――こうして、貧者の側がなぜわざわざ流動性の上昇を求めるのか、という疑問に対する答えは、彼/女たちにとっては、富を不当に独占した先行世代という、眼前の富者を何とかする方が取りあえずは先決だったのであり、しかも、社会のグローバル化にとって不可避な流動性の上昇こそが、そういう富の不当な独占をチャラにする一番の近道に映ったのだ、ということになる。

とはいっても、流動化が激化すると一番損をするのが貧者である点は何ら変わりはない。というわけで、依然として、なぜ貧者を自覚した者が流動性の上昇や、戦争を求めるのかという疑問は残ったままだ。

(↑の議論は、下のコメント欄の指摘にあったような、小泉という存在固有のいかがわしさを見ていないから一面的だ。というより、小泉を支持した者の実感をただなぞったことにしかなってない。 NakanishiB氏によると、激しくいがみ合っている筈の都市と地方の双方から小泉は支持を受けたのだから、彼は、双方が直面しなければならない真の課題から、有難くも、それぞれ目をそらさせてくれたということになるのだろう。本来は利害が対立する者どうしを、その対立から目をそらさせることによっていっきに一つに糾合するなどとは、まさにポピュリスト政治家の面目躍如だと言える。しかし、なぜ小泉政権で急にこういうことが可能になったのかは依然として謎だ。というわけで、「小泉」という特異点の分析をきちんとしていかねばならないのだろう。10/6記)

戦争状態の中で「希望は戦争」になるのは当然

そこで次に、(2)のどうして流動性と戦争を結びつくのか、という点が問題となる。確かに、赤木氏が持ち出した「戦争」という表象は真に受け取っても意味はないという主張には根強いものがある。たとえばd:id:chaturanga:20070910氏は、流動性が高まった状態は何も戦争に限られるわけではないと指摘したうえで、

これ[戦争という表象]は、純粋に国内的な想像力なのです。/ここで「戦争」とは、単に国内において「流動性」を高める象徴としてあげられているのです。

と述べていた。しかし自分としては逆に、流動性の上昇を戦争と結びつけた点にこそ、単なる「国内的な想像力」には収まらない、グローバルな社会状況のある反映を見てしまうのだが、果たしてそれは正しい認識と言えるだろうか(今一つわからないのだが)。そして、このことはただちに(3)の疑問にも関わってくることになる。端的に結論を言ってしまえば、流動性の上昇を戦争に結びつけたのは、上で指摘したような〈グローバルな内戦状態〉に現代社会がすでに陥っていることの正確な反映だったのであり、しかも、そういう状況下で改めてわざわざ戦争(の全面化)を求めるのは、前のエントリーd:id:ashibumi68:20070930で指摘したように、現在の〈戦争状態〉が、まだ完全には顕在化してはいない、言い換えれば、そこで生じた暴力的な流動性が、まだ全面化するまでには到っていない状態だったからなのだ。

つまり、現在のグローバル社会はすでに実質的な〈戦争状態〉にあったのであり、そこでは市場における競争と、実際の戦争(戦闘行為)とが連続化し、かつ互いが共犯関係を結んでいたのだから、流動性の上昇を戦争に結びつけたのは、極めて当然のことだったことになる。それゆえ左派の側は、「希望は戦争」という挑発に拒絶反応を起こす前に、それを〈グローバルな内戦状態〉の如実な反映として認識して、出るべくして出てきたものだと冷静に受け止めていくべきだった。「戦争=絶対悪」という譲れないドグマの提示は、本来その後にすべきだっただろう。つまり、赤木氏を擁護する者たちは、世代間格差、不公平という、規模としては中範囲の事実をもっぱら強調しがちなのだから、それに対して左派の側は、グローバルな戦争状態(ドゥルーズ的に言えば、「戦争機械」の内部化)という、違う規模(次元)の事実を対置させることによって、視点や観点の複数化・複雑化がもたらされるような介入の仕方を本来していくべきだったのだ。

(↑の主張は、下のコメント欄での議論にあったように、〈戦争状態〉というものをもっぱら「潜在化した不活性状態/全面的に顕在化した活性状態」という軸でのみ捉え、全面的顕在化の[原理的な]不可能性というモメントを考慮に入れなかったから、非常に表面的である。戦争状態の全面的な顕在化――総力戦化――がもはや不可能であるからこそ、その効果として、「革命[暴動]か戦争か」などという、戦争状態の全面化を煽る言説が過剰に意味を持ってしまう空間と、そういう煽りがまったく意味を持たず、逆に闘争すること自体に対する軽蔑ばかりが蔓延する空間とへの分断が生じていく。本来、この事実をきちんと押さえていくべきだった。ただ、不均衡なこういう空間配置をどう捉えるかに関しては、多分、アメリカのヘゲモニー体制とその綻びなどを分析した、社会地理学の議論を援用すればさらに何かわかるのだろうが、正直言って今の自分には手が負えないままである。

その点は措くとしても、やはり次のことを理解できたのは重要だった。つまり、〈グローバルな内戦状態〉というコンセプトにこだわる以上、そこに、既得権益固執して〈戦おうとしない者〉や、既得権益から排除されても〈戦い方がわからない〉まま、もっぱら戦いの全面化を煽ることしかできない者たちだけではなく、さらに本来は、戦えば戦うほど自らの権益を失うため、もはや戦うことに疲弊・ウンザリして、これ以上〈戦いたくない者〉や、またそれゆえ、はっきりと〈戦うこと自体を軽蔑・拒否する〉ようになった者たちをも登場させねばならなかったのだ。というも、これら後者の者たちこそが、実はグローバル化した社会では一番の多数派だったのだから。

――ついでに言えば、そういう者たちをただ「文化資本」が乏しい者たちと決めつけるのも、大きな問題である。こういう選択をせざるを得なかったのは、文化資本の有無とは直接関係がなかったからだ。また〈戦いたくない〉という姿勢を、もっぱらすでに乗り越えられた「95年のひきこもりの思想」だと見なして、切って捨てる宇野常寛氏の議論も、以上のような人々の存在を無視していたことになるから、その点では不十分だったことになる。

…ところで、〈戦うことを拒否するための積極的な戦い〉という自分自身のこだわりと、この〈戦うこと自体を拒否するという受動的な戦い〉との間の関係は非常に微妙である。「貧困」の解消や、エコロジカルな調和の達成という課題に関しては容易に共闘できるかも知れないが、すぐに双方の間に大きな溝が生じ始めるのではないか。10/6記)。

貧者は戦争と〈ともに〉安定を求める

しかしそうは言っても、やはりまだ疑問は残る。それは赤木氏が、自らの破滅も覚悟したうえで、あらゆるものが殺戮の渦に巻き込まれる、究極の流動性としての戦争を志向する一方で、平凡な生活を求める安定志向をも、決して手放さないように見えるからだ(d:id:kurotokage:20070917氏も、流動性志向と安定志向との間の対立を問題にしていた)。そこで、さらに

(4)なぜ赤木氏の中では流動性志向と安定性志向とが矛盾したまま両立していて、しかもその両方を気がねなく曝け出すことができるのか。

という疑問が浮上してくることになる。

この疑問に対する答えは一見、流動性を高めて先行世代の既得権益を破壊しなければ、自分たちの世代の安定が得られないからだという、しごく単純なもののように見える。しかしそうなると、なぜわざわざ赤木氏が、すべてがチャラになる究極の流動性としての戦争を求めたのかがわからなくなってしまう。そこで重要になるのが、赤木氏の中では、安定した平凡な生活や私生活の充実というものも、実は「戦争」と同じように具体的なイメージを結ぶことができず、抽象的なままに留まっているという点だ。多分彼は、そういうものの獲得可能性すら信じることができずに、苦しんでいたのではなかろうか。

なぜそうかと言えば、充実した私生活に埋没できる安定した生活と言われても、私たちはもっぱら、終身雇用・年功序列のような、既得権益を維持する制度に守られたものしかイメージできなかったからだ。私生活への埋没は、そういう擬似社会主義的な制度(d:id:kuriyamakouji:20070928氏によれば、それは「1940年体制」と言うべきものなのだが)に支えられて初めて可能だったのであり、自分のような(赤木氏の言う)「経済成長時代」に属する者すら、そんな生活はもはや不可能だと思っていたし、ましてや彼のような、遅く生まれたがゆえにそういう体制からはじかれて辛酸を嘗めさせられた者たちになると、まさにそれこそが憎悪の対象だったのであり、しかも「安定成長世代」の既得権益を壊そうと意志すると、必然的にその種の生活を断念せざるを得なくなる。――こうして、安定した生活を求めても、それに関して唯一イメージできるのが、自分たちが倒そうとしている当の体制に支えられたものでしかないという深刻なディレンマが生じるようになり、それに悩まされることになる。

このディレンマを解決するには、既存体制をチャラにして、皆を平等なスタートラインに立たせてくれるものに対して、同時に、いっきに新しい安定した生活をも人々に与えてくれるよう求めるしかないだろう。つまり、究極の流動性の実現としての戦争に対して、さらに、(新しい形態での)生活の安定がそこから得られることまで期待するわけだ。この期待は一見むちゃくちゃなように見えるが、実はそうではない。それは、具体的には、戦争を雄々しく遂行しできる〈強者〉である支配者が、激しい戦争状態の只中で、貧者である〈弱者〉を「思いやり」によって守り、彼/女たちが「自由」を享受できるよう、つまり私生活の充実に専念できるよう配慮することに対する期待というかたちを取る*2d:id:ashibumi68:20070924#c1190834197で示唆したように、実はこれは〈下からのネオコン〉という、まったく新しい形態であると言える。

ネオコンとは、まさに全面戦争を待望するとともに、その只中で、卓越した支配者が雄々しく正しい秩序を設立する力技のうちに、政治の理想形態を見て取ろうとする思想なのだが、普通はこれは、愚かな大衆を支配し、自らの力を存分に発揮して世界を変えていきたいという傲慢な思いに駆られたエリート層から、つまり上の方から出てくる種類のものだった。ところが赤木氏の場合は、貧者という意識を持って、わざわざ下からそういう政治を求めているように見えるのだから、その点が異例というか新しいのだが…。そして、ここではまさに、全面的な刷新を求める「戦争志向」と、その中で新しい安定が上からいっきに与えられることを願う「安定志向」とが両立するようになり、貧者が戦争と〈ともに〉安定をも求めるという、まったく新しい事態が生じてしまった。

(戦争志向と安定志向が矛盾なく両立しているというのは、一方的な深読みでしなく、両者の間の葛藤に苦しんでいるというのがやはり素直な読み方ではないか、というもっともな異論が存在する。確かにそうかも知れない。しかし、いくら葛藤に苦しんでいるといっても、二つの志向が一人の人間の中に長く共存し続けられるということ自体が、自分には新しい現象だったので、敢えてその意味を読み込んだまでのことである。10/6記)

セカイ系〉的想像力の桎梏

ところで、この〈下からのネオコン〉という新しい形態は、ある種の〈セカイ系〉的想像力と関係しているように思えてならない*3。すべてがチャラになる、究極の流動性としての戦争を自らで求めながらも、そこでの戦い方がわからないどころか、最初から特に戦う気もなく、それどころか、そんな中で一方的に安定を求めるという我がままさ(失礼!)は、〈セカイ系〉の物語に出てくる、自分に自信がないだめな男の子主人公の身勝手さと、どうしても重なって仕方がないのだ。そういう主人公たちは、世界そのものの命運がかかっている戦い(最終戦争)に巻き込まれ、しかも自らがその戦いの当事者になってまでも、あくまでウジウジしたままだったり文句ばかりつけることに終始して、決して自分からは戦おうとはしないのだった。この種の主人公が例外なく、既存の社会の中に居場所を見出したり、そこで当たり前の幸福な生活を送ったりするのをすでに断念して、そういう既成の生き方に対して強い不信感を抱く点もまた、赤木氏のスタンスと共通していたと言える。

セカイ系〉の物語では、男の子の代わりに戦って世界を救ってくれるのは、トラウマを抱えたため、だめな主人公を予定調和的に必要とせざるを得ない「戦闘美少女」になるのだが*4、そうであるならば、赤木氏が求めた、全面戦争状態の只中で皆を庇護して、生活の安定をもたらしてくれる〈強者〉もまた、そのように都合よく各人の面倒を見ると同時に、荒々しい戦場で代わりに必死に戦ってもくれる、慈愛に満ちた存在となるのではなかろうか(彼の専業主夫志向の根底には、そういう「戦闘美少女」への願望が控えているのかも知れない)。多分、イメージされている〈強者〉がそのように女性的で〈弱者〉には優しい存在だったからこそ、〈下からのネオコン〉などという、〈弱者〉である貧者自らが戦争の全面化を期待し、しかも、そこで自分のために(代わりに)勇ましく戦ってくれる〈強者〉を待望してやまないというような、新しい形態が可能となったのではないか。

過渡期の生きづらさ

宇野常寛氏によれば、「戦闘美少女」がだめな主人公の代わりに戦うという、この種の〈セカイ系〉の物語は、傷つかないために戦うのを回避した「95年の思想」と、対照的に勝ち負けの戦いに耽溺する「ゼロ年代決断主義」との間に存在した、あくまで過渡的な形態でしかないそうだ*5。この指摘は充分に納得できる*6。それを自分がかつて示した図式d:id:ashibumi68:20070807#1186522026に即して言い直せば、自らが心地よく感じる快楽の世界にハマって実社会との接点を失ってしまった「団塊ジュニア世代」の者が、追い詰められて、実社会の中で生きる(サバイブする)ための戦いを新たにせざるを得なくなってしまったにもかかわらず、その戦い方がまったくわからないままでいる状態だと言うことになるだろう。そこでは戦い方がわからないからこそ、かえって、万人が強制的に戦わせられるような限界状況(全面戦争)をいっきに夢想してしまったり、また逆に、そんな状況の只中でも自分は戦わなくて済むような生活の安定を、あくまで期待してしまうわけだ。それに対して、より下の「ポスト団塊ジュニア」の世代は、自分が心地よく感じる快楽の世界を求めて、あるいは、そういう世界にすでに基づきながら実社会の中で戦うという事態を、極めて当然なことだと受け止めていた。

とすれば、過渡的で中途半端な状態に置かれていると言える赤木氏は、下の世代を見習って真剣な戦い方を学んでいけばよいことになるのだろうか。いや、そんなことはないだろう。宇野氏自身が自戒してやまないように、この世代は戦うことにすぐに足を掬われてしまい、それを実効性が何もない、単なる勝ち負けや、互いを排除し合うだけのゲームに矮小化してしまうからだ。赤木氏が抱え込む過剰な情念は、決してそういう矮小化されたゲームのうちには解消されないと思われる。そしてこの点をめぐってすぐに思い出されるのが、彼と同年齢の雨宮処凛氏のスタンスだ。彼女は本来、非政治的なメンヘル的情念の持ち主だと思われるが、現在は、そういう情念をすべて戦うことのうちに、しかも一番地に足がついた戦い方である、実際の権利保障の獲得や、法制度の具体的な改善のための闘争(現実的な社民政治)のうちに注ぎ込もうと努めてやまないでいる。多分、そういうところに注ぎ込めきれない過剰な情念を、赤木氏が体現していたのだろう。

いずれにせよ彼らは、非政治的な情念への没入が当たり前だった世代のノリと、政治的な戦いを当たり前とする世代のそれとの間のちょうど狭間に位置した、過渡的な存在であると思われる。それゆえ、非政治的な情念を、政治的な戦いに何とか接続させるという固有の使命を帯び、さらに、その接続が絶えずうまくいかないという特有の困難、つまり生きづらさにさいなまれる筈だ。こういうあり方は、(80年代的な〈サブカル−左翼〉のなれの果てでしかない)自分自身のこだわりとも大いに重なるところがあり、しかも彼らは、「自らの快楽(情動)に忠実になることによって社会性を喪失していくことと、逆に快楽に忠実になることによって社会性を獲得していくこととの間にある対立」という、〈快楽−政治〉の中心問題(d:id:ashibumi68:20070807#1186522027)に絶えずアクセスせざるを得なくなるだろうから、今後の動向が気になってやまない(多分激しい変転を繰り返すのだろうが)。

(↑の分析は、下のコメント欄の指摘にあったような、「具体的な分裂や敵対性」の排除の上に成り立つ、「短絡的な世代論」に加担しているのではないか、という疑念が存在する。その疑念は確かにもっともなものである。というのは自分は、世代間対立を煽りながら増殖する――社会学的な――世代論的言説に対して、真の敵対性なるものをぶつけてそれをいっきに粉砕していくような戦略など、別に選んではいないからだ。もっと穏健に、世代論的な言説をいったん受け入れたうえで、横軸の世代間対立とは別の、縦軸の新たな対立[それは、左右の対立と完全に重なるわけではない]をそこに接木していった方がよいと考えている。本来は、このこと[のみ]を検討するためにブログを開設したのだったのだが…。10/6記)

*1:某編集者によると、それはただの「ツリ」でしかないそうなのだが。

*2:「思いやりのある社会」や「強者に道徳を/弱者に自由を」という目次のタイトルは、そういう考え方を表しているように思えてならない。ハズれているかも知れないが。

*3:セカイ系〉という日本独自のものと関係するとなると、やはり「希望は戦争」という挑発はもっぱら「国内的な」想像力に基づくと言えるかも知れない。しかし、果たして〈セカイ系〉的な想像力は「国内的なもの」でしかないのだろうか。今の自分にはよくわからない。

*4:宇野常寛ゼロ年代の想像力」第4回

*5:同上

*6:彼が「00年代の想像力」を「決断主義」として捉えたことや、さらに自らが提示しようとしているその克服の仕方に関しては、いろいろと異論が出ているが、今回はそれらについては省略。