外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

〈究極の流動性としての戦争〉についての覚え書き(1)

以下で示す覚え書きは、赤木氏の例の2つの文章や、特にhizzz氏の

「とまれポモ後、個別ライフスタイル=私的ストーリィ確立がままならない者に残された唯一の大ストーリィは戦争問題で、(加戦・反戦かかわらず)それに収斂していくなんて、どーかとはおもうけど」http://d.hatena.ne.jp/ashibumi68/20070911#c1189559966

というコメントに触発されて書いたものです。典型的な屁理屈でしかないので、あまりマトモに受け取らないで下さい…(自分でも書いててゲンナリした)。
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赤木氏や、彼に共感を寄せる者たちを見ていると、どうしても、赤木氏が待望してやまない「究極の流動性」としての戦争なるものの中身のない空虚さ・抽象性と、彼らが実際に巻き込まれている、現実の<グローバルな戦争状態>の具体性(複雑性)との間のギャップが気になって仕方がない。そのギャップは言いかえれば、後者の状況の具体性に対する鈍感さでもあるのだろう。そして実は、こういうギャップ、鈍感さ自体が、彼ら自身が置かれた状況をよく指し示している、一つの<症候>に他ならないのではないか。

それはいったいどういうことなのか。以下ではそのことについて少し説明してみることにする。

かつての「ポモ」の時代では、人々は、大きな物語が喪失した結果、紛いものの小さな物語ばかりが跋扈し始めた、消費社会という未来が見えない不透明な閉域に<閉じ込められ>、そこでは多くの者たちが、「個別ライフスタイル=私的ストーリィ確立がままならないまま」空回りして、<嗜癖>状態に陥っていったのだった(それを形象化したのが、ギデンズの<再帰的>な人間像だったのだろう)。

それに対して現在では、人々は、同じく大きな物語が喪失したまま、世代間格差のような(規模としては中範囲の)理不尽な不均衡や不公平ばかりが跋扈した、グローバルな戦争状態という大状況へと、今度は一方的に<投げ捨て>られるようになった。そこでは、戦争状態というただ一つの<大状況>が存在するにもかかわらず――それは<内なる無限>として複雑性の総体に過ぎないから――、それとアクセスできるようないかなる<大きな物語>も、いやそれどころか、その中で自足するための<小さな物語>すら調達することができずに、多くの者が「個別ライフスタイル=私的ストーリィ確立がままならない」まま放り置かれるようになってしまったのだ。唯一そこで可能なのは、所与の不均衡の中で偶然有利な配分を得ることができた者にすれば、いつまでもその配分にしがみ続けることしかなく、また、偶然不利な配分しか回ってこなかった者になると、自らの眼前に存在する、有利な配当を得た者たちをただ恨み続けること以外、いったい何ができると言うのだろうか。

そしてここが重要なポイントなのだが、後者の不利な配分に苛まれている者は、この現状を改めるには「戦う」必要があるのをよく知っているにもかかわらず(万人が戦うよう急き立てられている、グローバルな戦争状態の中にすでに私たちは置かれているのだから)、その戦い方がまったくわからないのだ。すでに戦いに巻き込まれているにもかかわらず、戦い方がわからないまま、眼前の情勢に受動的に翻弄されるがままになっているわけだ。一方有利な配分を得た者の方は、すでに戦いの中にあるにもかかわらず、すでに与えられた報償に目がくらんで、決して積極的に戦おうとはしない。

というわけで、ここから浮かび上がってくるのは、《潜在的にはすでに誰もが戦いに巻き込まれているにもかかわらず、現実に存在するのは、戦い方がわからない者と戦っていない者ばかり》であるという、とても奇妙な光景だ。戦いたくても戦い方がわからず、自らの不利な配分に苛まれているだけの者は、当然こんな奇妙な光景に耐えられなくなって、次のように叫ばざるを得なくなるだろう――“誰もがちゃんと平等に戦える、もしくは誰もがちゃんと平等に戦っている状態にしろ!”と。実際に赤木氏自身も次のように述べていた。

誰かに安定性を欠くギャンブルを分配しなければならないのならば、ある一部の人たちだけではなく、全員にギャンブルを分配するべきであり、それは極力平等でなければならない。/だから「あなたが戦争に巻き込まれるのだ」と言われたところで、それは当たり前だとしか思わない。自らが自らに不利益を配分することを了承して初めて、他人に対しても不利益を分配することができる。それが私の考える社会に対する責任の取り方だし、不利益を分配せざるを得ない時代の「平等」のありようではないのか。

しかし、こう述べても何の問題の解決にもならないのは火を見るよりも明らかだ。というのは、万人が平等に戦っている(「ギャンブル」をしている)状態を実現するための戦い方も、またそういう状態が実現された後で、実際に戦いそのものに勝つための戦い方も、まったく不明なままに留まるからだ。それゆえ唯一できることは、誰もが潜在的に置かれている戦争状態を理念的に抽象化して(「戦争」を流動性の極限が実現された状態として改めて設定し直して)、戦い方がわからない無能な者と、戦いたくない無力な者としか存在しない、この腑抜けて脱臼させられた現実に対して、そういう理念化・極限化された戦争を対置して恫喝していくことでしかないだろう。しかしこの恫喝は、自らが享受できなかった配分を貪り喰っている眼前の者たち(「ポストバブル世代」の赤木氏にとっては「経済成長世代」)に対する恨みを晴らすには、余りあるものである。というのはそれは、潜在状態にある戦争状態がまだ完全には顕在化してはいないという真実を突いて、強い覚醒機能を持つことができたからだ。「希望は、戦争」という扇動が激しい共感や反撥を伴って多くの者を巻き込んでいったのは、このためだったのだろう。そういう覚醒機能を用いて先行世代への恨みを晴らすのは、必然的に多くの者が注目せざるを得なくなるから、確かに大変効果的だ。

だが、戦い方が皆目わからないという自らの無能な状態は何も改善されないのだから、その無能さを糊塗するために、理念的に抽象化された、グローバルな戦争状態の完全な顕在化というものを、この現実に対してますます対置させ、現実世界とは全く別のものとしてグロテスクに強調していくしかなくなっていくのではないか。

以上の分析(思弁)からわかるのは、赤木氏が求めた、究極の流動性としての「戦争」というものは、私たちがすでにその中に置かれている、実際の具体的な戦争状態とは決して別のものではなく、ただそれが理念的極限化されたものに過ぎないという点である。そして、彼や、彼の支持者の多くの間で、現実の戦争状態が視野の外に置かれてしまうのは(言い換えれば、本人の目の前に存在する特定の不公平状態ばかりが前景化してくるのは)、グローバルな戦争状態に関わっていくための仕方が、言い換えればその中で戦っていくための仕方が、まったく見えないままに留まるからだ。また理念的に極限化された、一切の硬直性を欠いた純粋な流動性としての「戦争」というものが、いかなる具体的な像も結べずに抽象的なままなのは、ただそれが、戦い方がわかならない無能な者と、戦かいたくない無力な者しか存在しないという、この腑抜けた現実というものの、論理的な反照規定として召喚されたものに過ぎなかったからだ。戦争状態のそういう極限状態(完全な顕在化)を実際に実現するための方途は、まだまったく見当もつかないままなのである。

こう見てくると赤木氏というのは、グローバルな戦争状態になすすべもないまま投げ出され、ただ、何とかしてくれと叫ぶ情動の強さだけでそれと関わろうともがいているから、もはや安定した居場所の獲得が期待できない中で、ただ情動の強さと、コミュニケーションの濃密さと、そして感情の豊かさだけでグローバル化に対抗しようとしている、<マルチチュード>(ハート・ネグリ)の一人だと言えるかも知れない。その意味で、やはり彼はある種の左派なのだろう。しかしその一方で、彼が危険な右派と言わざるを得ないのは、抽象的で無内容なままに留まった、究極の流動性としての「戦争」というものを現実化するための方途を、模索する方向にも傾きかけているからである。

こういう議論の傾斜に対しては、自分としては、ただ次のように言い返すことしかできない(しょせん原則論の確認にしかならないが)。

まず<原則的な左派>として。グローバルな戦争状態という土俵の中で思い存分戦うのを求めることはやめよ、また、誰もがその中で思い存分戦わざるを得なくなる状況を到来させようと目論むのもやめよ、それはただ悲惨な状態しかもたらさない、と。戦争状態が完全に顕在化した状態の中では誰も勝者になることはできず、むしろ全員が、その戦争状態それ自体の敗者となって滅び去っていくだけだ。逆に、世代間の格差を是正し、生存権すら脅かされている氷河期世代の生活保障や社会参加を促進させる、実効的な政策を練り上げていく中で、グローバルな戦争状態の中ではもはや戦わなく済むよう、そこから逃げる道を、また、たとえ逃げられなくとも、その中で戦わないままでも生きのびることができる道をこそ模索していくべきだ*1

また<へたれリベラル>として。グローバルな戦争状態という「大状況」に積極的に関わることができず、その中での戦い方がわからないまま途方に暮れているという、自らのへたれた無能状態から目をそらすな、と。もちろん平凡な生活や私生活の充実を求めるのは構わないけれども、そういうことの追求によって、「個別ライフスタイル=私的ストーリィ確立がままならない」という自らの欠損状態から目を反らしてしまうことがあってはならない。あくまで、そこから生じる苦しみやいら立ちと付き合っていくための仕方をこそ模索していくべきだ。

――うーん、やはりまだポイントをはずしているような気がする。また、<グローバルな戦争状態>というものもよくわからないままだ。というわけで、覚え書きのその2をすぐにアップします。

*1:d:id:chaturanga:20070910氏は、流動性の上昇を前提としたうえ、むしろそれを生かすための知恵の開発や伝達の方が大切だと述べているが、ここで言われている、流動性の上昇に加担するなというは、それとは異なるスタンスである。稲葉振一郎は左派流の「権力の極小化」という戦略に対して、「権力のエレガントな使用」という戦略を対置させていたが、ここに見られるのは、強いて言えばそういう対立に相当するのだろう。もちろんこの対立の根底には、グローバル経済の促進による流動性の加速は、必然的に戦争に行き着くのか、つまり、グローバル経済の狂騒は果たして戦争状態と常に表裏一体のものなのか、という点をめぐったグローバル資本主義に対する見方の対立が控えている。流動性の上昇を前提にする者たちは、現在のグローバル市場が暴力的になって戦争を呼び寄せてやまないのは、決してその本性からしてそうなのではなく、ただそこでの競争が公平になるための制度や技術がまだ未開発だからなのだ、と主張するのだろう。