外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

生きることと、戦うこと その1

そもそも人は、生きるために戦うのか、あるいは戦うために生きるのか、いったいどちらなのだろうか。――端的に言ってしまえば、前者を選んだ者が(言葉の一番広い意味で)右派となり、後者を選んだ者が左派となると言って構わないだろう*1

生きるために戦う:右派における戦いの物語

前者を選んだ場合、本当は戦いたくないのだが、仕方なく否応なしに戦わざるを得なくなったという、不本意感を引き摺ったままの不可避性こそが、その戦いに陰影や深みを与えていくことになる。そしてそこに存在していた、戦いたくないのだが戦わざるを得ないという、マゾヒズム的な精神のねじれが亢じて、倒錯的な快感にまで変質していくと、右派にとってお馴染みの過激で行き過ぎた態度が帰結することになる。それは、自らを祖国や家族を守るために犠牲にしてしまう態度のことであり、さらには、祖国というものの理念的抽象化の度を強め過ぎて、それが完全に非実在的な観念と等しいものと化してしまうと、観念化したその祖国を守るために自分自身どころか、自らの身近な家族や友人までも進んで犠牲にしてしまい、結局は後には何も残さないことになる。確かにかつては、こうした倒錯的な行き過ぎを無理やり一個の崇高な悲劇に仕立て上げることが好んで行われてはいた。過剰な逸脱行為を一個の悲劇と見なして記念、想起し続けることによって、生きるために戦おうとしたら、その逸脱行為に巻き込まれて犠牲にされてしまった命の数々を、祖国というものを形成する、過去からの無数・無名の人々の生の連続性のうちに何とか回収しようとしたわけだ。そして、そうした犠牲者たちをこそ、むしろ祖国の連続性を特権的に体現するものとして称揚していくのだった。しかし現在では、行き過ぎを何とか正当化するために、以上のように倒錯に倒錯をさらに重ねていくふるまいに取って代わって、倒錯に到るかろうじて一歩手前で、ただ生きることと、何かを犠牲にして戦うこととの間でどうにか折り合いをつけようと苦労する姿勢の方が、多くの人々の支持や共感を得られるようになったのではないか。生きることと戦うこととの間でかろうじてバランスを取ろうと色々努力して苦悩している姿こそが、どうやら、戦いというものにリアリズムヒロイズムを同時に与えることができ、そこから魅力的な物語を色々と紡ぎ上げていけるらしいからだ。

ところで、この種の物語の魅力をさらに高めるためには、生きることと戦うこととが原則的に乖離し、両立不能なままに留まり続ける中で、そこでは両者が例外的に一致するような何か特異点を設定していけばよい。こうした特異点は、たとえば味方の中に敵を設定して、敵を2重化することによって設定できる。味方の組織の上層部が腐っていて保身に走っているから、末端の現場の人間は無理な戦いを強いられ、いたずらに命を落としていく。けれども、ただ駒のように扱われるだけの現場の人間には、今更命令に背いて戦い自体を放棄することなどできないから、もうどうしようもない。仕方ないから、保身に走って腐敗した上層部の人間に密かに抗議し、自分たちの義を人知れず押し通すために、みすみす無謀な作戦にこれみよがしに身を委ね、一見従容としながら自らの命を犠牲にしていこうとする。こうした、これみよがしで不自然に力が入った、自らの生を犠牲に供する一見従容とした態度こそが、実はその生の強烈な自己主張になるわけだ。いつか以上のような経緯や真意を後に残された者たちが知れば、真の敵は外側ではなく内側にこそ(組織や権力の腐敗として)存在していたことを思い知らされることになるだろう・・(今はやりの『永遠の0』も、ウンザリするくらい、こうしたテンプレ的展開を踏襲しているのだった)。このように、戦いを強いられた生の中に、もはや戦わなければ自らの生の義や尊厳が満たされないような特異点を設定し、その特異点上で生きることと戦うことが一致するような奇跡的瞬間をうまく演出すれば、読み手たちに心地よいカタルシスを与えられるのではないか(同じく今はやりの『半沢直樹』も、具体的には「倍返しだ!」という雄叫びによって示される、個人的な憤懣に基づいた復讐の実践が、社会的正義の実現に予定調和的に一致するような特異点をこれ見よがしに描いていた。そこでは、私憤と公憤が一致するというかたちで、生きることと戦うこととが例外的に一致することができたのである)。

戦うために生きる:左派における戦いのスタイル

一方、後者の「戦うために生きる」方を選んだ場合には、ただちに、“よりよき生を未来に実現するために戦う以上、今ここでの現在の生をその戦いに従属させ、ときには犠牲にしてしまうのは不可避だ”というかたちで、生きることそれ自体が2重化・分裂してしまうことになる。この生それ自体の「不幸な分裂」(ヘーゲル)に対する、従来の典型的な対処の仕方は次の2つであった。――(1)未来のよりよき生の実現のために戦うことが、現在のありのままの生を犠牲にしてしまうことを断固として拒否し、その戦いがあくまで現在の当たり前の生のうちに収まるよう、その範囲を逸脱しないよう図っていくこと。つまり生活に根差した地道な闘争の実現。(2)よりよき生を未来に実現するよう戦うことが、今ここでの現在の中で、そのまま先取り的に、目指していた当のよりよき生の(部分的)実現になるよう図っていくこと。すなわち闘争の只中における、ユートピア的生の祝祭的な先取り的実現。

このうち(1)の対処の仕方の方は、未来の生と現在の生との間の分裂を、現在の生である当たり前の生活のうちに回収していこうと試みるものであるのに対して、(2)の方は逆に、その分裂を、未来の生の先取り的実現であった、戦うことの高揚や楽しさのうちに回収していこうと模索するものだと言えよう。より抽象的に図式化して言えば、(1)は、(未来の生と現在の生との間の分裂をもたらす)戦うことと、生きることとの間の対立を、現在の生きることのうちに回収していくのに対して、(2)は逆に、そうした対立を、未来のために戦うことのうちに回収していくことになる。

残念ながらこの2つの対処の仕方は、ともに大きな難点を抱え込んでしまうことになる。その難点とは、一言で言えば、生きることや戦うことが、いったん生じてしまった生きることと戦うこととの間の分裂を自らで引き受け、それを後から修復しようとして、却って当の分裂を深めてしまうということである。それはいったいどういったことなのか。またそうした逆説はなぜ生じてしまうのか。詳しく見ていこう。

生きることの只中で戦うことの難点

まず、生活に根差した地道な闘争を試みるとは、あくまで生きることの只中で戦おうとすることを意味するのだが、それは突き詰めれば、生きること自体が戦うことになること、つまり生きることと戦うこととが一致する事態を追い求めるということになる。この生と闘争とが一致するというあり方は、すでに述べたように右派の人たちも希求しいていたものなのだが、しかし左派が求めるそれは、右派のものとはかなりその中身が異なっている。右派が希求した生と闘争との一致は、両者が文字通り一体化してしまうことだったのだが、左派の場合は、生それ自体がすでに未来の生と現在の生とに分裂していたから、その一致のあり様はより複雑なものになるのだった。現在の生を生きることが、そのまま、よりよき未来の生のために戦うことに重なるとは、言い換えれば、現在の生が、そのうちに、よりよき未来の生への指向をも含み込むようになることを意味している。つまり現在の生を生きることが、そのまま、よりよき未来の生を志向することになること。

しかしこうした生き方は、現実には窮屈なものにならざるを得ない。たとえば普段の生活の中で、より地球環境への負荷が減るよう、いわゆる「地球にやさしい」ものをなるべく使うようにしたり、あるいは、不正な社会秩序を維持に加担しているような(親イスラエル系などの)極悪企業の品物は絶対に使わないよう、常に心がける必要が出てくるからだ。つまり、通常の日常生活がよりよき未来の生の実現にそのままつながるよう、それを丸ごと組織化したり、あるいは、その実現を阻害するような組織や権力には決して加担しないよう、自らの生活をどこまでも監視せざるを得なくなってしまうのだ*2。これは典型的な倫理的潔癖主義(リゴリズム)のあり方だと言えるだろう。さらにそうした日常生活の全面的組織化や自己監視化が、果たして実際によりよき生の実現につながっているのかどうかは本当のところは誰にもわからず、また確かめるすべもないから、判断基準の欠如や確証の不在というこの事実に蓋をするために、組織化や監視の努力自体を闇雲に自己目的化してしまうことも不可避になる。心がける努力をし続けること自体が、ただそれだけで、自らの生が戦いながらよりよき生の実現へと近づいていることの印になるのだと、強弁する他なくなってしまうのだ。また努力の自己目的化は、容易に自己絶対化と他者蔑視を生むことにもなる。よりよき生を目指しているあり方と、そうしたものを目指さずに単に現状の生に満足しただけのあり方とを区別して、両者を線引きしていくこと自体が、ただそれだけで正しいふるまいだと見なされるようになって、現状に満足している人々を一方的に蔑視するようになるのだ。残念ながらここでは、意識的に組織・監視された生と、そうでない生との新たな分裂が生じてしまっていると言わざるを得ない。あるいは、戦うことが単なる倫理的潔癖主義の固持に変質してしまった結果*3、未来の生と現在の生との間の統一を目指していたにもかかわらず、逆に生の中から、現在という時間にコンサマトリーに自足しようとする、楽しみやつくろき、もしくは発散という側面を一方的に排除するだけになってしまったとも言える。

戦いの只中で生きようとすることの難点

次に、闘争の高揚状態の中で、ユートピア的生の先取り的実現を図ることは、戦うこと自体が、当の戦いが求めているよりよき生の実現になるような仕方で戦うことを意味している。それは突き詰めれば、戦うことがそのまま生きることになること、つまり、これまたやはり、戦うことと生きることとの一致を追い求めるということになる。それではこちらの戦い方では、左派特有の、よりよき未来の生と、戦いの出発点となる現在の生との間の分裂に対してはどう対応するのだろうか。戦うことが目指していたよりよき生がすでに戦いの中で実現したとされるのだから、そこでは当然、そうした分裂などもはや重要な問題ではないと見なされるだろう。つまり、現在の通常の生が帯びている不完全さや不十分さがすでに克服された、よりよい理想的な生が闘争の中で実現されているのだから、みすぼらしい現在の生など戦いの背後に取り残したままでも構わない、あるいは、やがてそんな生など見捨てて、闘争の中に実現しているユートピア的でより完全な生の中に自足できる筈だと判断されることになる。

けれどもこうした楽天的発想が、同時にこの戦い方の命取りになる。戦いの中でよりよき生が実現されたと言っても、どのように実現されたのかよくわからず、また本当にそうなのかを判断するための基準もはっきりしないから、とりあえず、戦いの中で感じられた楽しさや、そこで生じた盛り上がりや仲間との一体感を、自分たちが目指しているよりよい生を何らかのかたちで先取り的に実現していることの印だと見なすしかなくなる。するといつの間にか、戦いの中で生じる祝祭的高揚が、そのままでユートピア的生そのものの実現であると誤認・錯覚されるようになり、最初からそれを目指して戦うという深刻な転倒が生じてしまうのだ。いわば闘争それ自体の祭り化、パーティ化。そしてまた同時に、楽しむことや盛り上がることの自己目的化も生じてしまう。

そうした転倒したあり方から形成されてくるのは、楽しく盛り上がって戦うことの方が、そうでない戦い方よりも優れていると勝手にうぬぼれて、旧来の地道で苦しそうな、黙々とした戦い方を一方的にdisるという傲慢な姿勢でしかないだろう。さらに問題なのは、戦う中でとりあえず盛り上がれば、それだけで生の完全な姿が実現されたと見なされるようになってしまうから、戦っていないときの普段の生活の方がなおざりにされる一方になるというという点である。たとえいつもの生活が惨めでパッとしないままでも、運動に参加して盛り上がりさえすればそれだけでOKということになると、却って戦っているときのあり方と、普段の生き方との間の乖離が大きくなり、しまいには両者の分裂に耐えられなくなってバランスを崩してしまうのだ。これはちょうど、生きている実感が週末の場末のクラブでのフロアでしか得られないから、平日は目が死んだまま意味のない労働に何とか耐えて、そこで溜まったストレスをいっきに週末のフロアで発散させるという生活を続けていくと、どんどん生き方自体がすさんでしまうようなものだ。

環境管理権力という問題

しかも、盛り上がることが自己目的化してパーティ化した、こうした闘争形態を何とか維持するためには、二枚舌的で隠微な、いわゆる〈環境管理的権力〉を行使せざるを得なくなるという点も見逃すことができない。このことがもたらす弊害は、思いの他深刻だと思うのだが、余り注目されていないのが正直言って気にかかる。環境管理的権力とは、人々が何らかのふるまいをする場や環境のあり方をあらかじめ設定したり、それがうまく維持されるよう、背後で運営する権力のことである。こうした権力の問題点は、従来は、その場や環境の中でふるまっている人々のふるまいを、当人たちが意識しないまま一定の方向に誘導したり、そこに特定の型を密かに押し付けてしまう点にあるとされてきた。当人たちは自由にふるまっているつもりが、実は環境管理権力によって一方的に操作されるがままになっているに過ぎないため、その自由は錯覚でしかなかったことになるからだ。しかしこうした捉え方では、環境管理権力というものの問題性をまだ充分には認識したことにはならないと言える。というのは、環境管理権力はさらに、(1)場や環境をあらかじめ設定したり、背後から運営し続けるだけではなく、その場や環境で自由の錯覚に浸って盛り上がったり楽しそうにしている人々に対して、もっと盛り上がり楽しむよう、直接働きかけていくからだ。つまりそこには、背後から密かに操作する一方で、人前ではあからさまに扇動するという、権力行使の二枚舌性が存在していることになる。(2)しかもなお厄介なことに、その二枚舌性がたとえ白日の下に晒されたとしても、設定された場や環境でうまく踊らされていた者たちは、決して憤慨したり白けたりすることはせず、むしろ逆に、場がきちんと御前立てされて巧みに誘導されたことに感心して、その事実を意識したうえで益々従順に盛り上がり楽しもうと努め始めるのだった(いわゆる自発的隷従)。そのため環境管理権力を行使する者は、自らが表で扇動するだけではなく裏で密かに人々を操っているという事実を最早隠すことはせず、その事実をそれとなくかつあらかさまに示すことによって、人々の間で主導権を確立し始めようとする。隠微なかたちでの自らの権力性のこうした呈示の仕方こそが、実は環境管理権力の行使をよりスムーズなものにするものだったのだ。いったいこの二枚舌性と隠微性とはどういうものなのだろうか。もう少し詳しく見てみよう。

たとえば志紀島啓は、現代における知識人の歪んだあり方について、次のように述べていた。

欲求で動く動物とアルゴリズムで動く機械との二層構造の社会において知識人の役割は大きく二つ。アーキテクトになるか、ソフィストになるかです。アーキテクトはアルゴリズムを作り、メンテナンスする人間です。(…中略…)またソフィストは一般の人々に動物的な欲求(痩せたい、もてたい、うまいものが喰いたい、楽して金を稼ぎたいなど……)をいかにうまく満たすことができるかを教えるのです。 (対談「アスペルガー化する社会」、12頁)

志紀島自身は気づいてないようだが、環境管理権力をうまく行使させるには、ここで言われているアーキテクトというあり方と、ソフィストというあり方とを両方兼ね備え、しかもその兼務性まで人々に対して示していく必要がある。アーキテクト性とソフィスト性を兼ね備えたそうしたあり方は、一言で言えば〈オーガナイザー性〉と言うことができるだろう。つまり現在では、人々が盛り上がって楽しむことができる運動や闘争を主導する者たちは、音楽イベントやライブ・パーティのオーガナイザーのような存在と化していたのである。人々から支持される優秀なオーガナイザーというのは、ただ本番のときに舞台の上から皆をうまく扇動して場を盛り上げることができるだけではなく、舞台裏での、準備段階や後片付け段階の取り組みや苦労、さらにはそこでの人間関係のトラブルまでをも全て正直に晒して、そのことによって姿勢の誠実さや真摯さを周りに印象付けていくことができる者のことである。つまり、単によい舞台を設定して本番のときに皆を楽しませるだけではなく、舞台裏での密かな工夫やゴタゴタまでをもすべて(わざと)晒して、態度の真剣さや人柄の愚直さによって人々を感化させることまでできるのだった。

ケアによる社会的包摂との類似

こうしたオーガナイザー性というもののいかがわしさは、ケアというものが社会的包摂の機能を引き受けるときに帯びる胡散臭さと限りなく似ていると言える。ケアとは一言で言えば、それが施される者をエンパワーして、自己決定できる主体にまでに高めていくことなのだが、さらにこうしたケアに対して、ケアを施された側がケアを施す側といっしょに、当のケアの関係のあり方自体を、社会の一人前の成員として対等な立場で共同決定できるようにする機能まで同時に求めると、途端におかしなことになる。その人が主体化できたのは、あくまでケアを施す側が一方的に設定した特定の関係性の中でのことでしかないから、形成されたばかりの主体性を用いて、その関係性自体を変更しようとすると、ケアを施す側から頑強な抵抗に出会うのが常だからだ。ケアを施された側は、対等な立場の確立という甘言に騙されて、自由で自立した主体としてケアを施す者との関係を一から作り直すことができると、どうしても過剰な期待を抱いてしまう。けれども実際には、設定された関係の中で獲得された自由からは、その関係自体を変更する自由は、残酷にも除外されているのだった。というのは、ここではケアは単にエンパワーする役割だけではなく、社会の正常な一員になるよう特定の主体化を押しつける役割まで引き受けていたため、ケアを施す側は、そうした主体化を可能にする関係性だけはどうしても守らざるを得なくなるからだ。そのためケアを施される側が、設定された関係それ自体を変更する自由を行使しようとすると、すぐに必死になってそれに対して抵抗し始め、そうした試みを単なる失敗事例や例外的逸脱に過ぎないと強引に見なすことによって、何とか事なきを得ようとする。

ケアによる社会的包摂のこうした胡散臭さに、あのオーガナイザーたちの、舞台裏の仕掛けやトラブルを敢えて暴露していくいかがわしさが対応しているのではないか。オーガナイザーが設定する場で得られる楽しさや盛り上がりからも、当然、その場そのものを覆したり、その設定自体を変更することから生じるような楽しみ方や盛り上がり方は除外というか禁止されている。ちょっとでもそうした楽しみ方や盛り上がり方を求めると、途端ににべもなくその場からつまみ出されるのがオチだ(まぁパーティというのは常にそうしたものなのだが・・)。多分こうした除外や禁止をうやむやにして、皆がそれを受け入れられるようにするためにこそ、舞台裏での苦労やトラブルをことさらに露呈させ、自分は身体を張って場を設定・運営しているのだという事実を突きつけて、有無を言わせぬようにしているのだろう。確かにそうした事実を突きつけられれば、たいていの者は説得させられて、場を支配しているルールを従順に受け入れるようになる。

思わず話が長くなってしまったが、以上見たように、戦いの中でよりよき生を先取り的に実現させようとする試みは、戦いの中で生じる楽しさや盛り上がりを、そのよりよき生そのものと誤認して、楽しさや盛り上がりの追求を自己目的化するという誤りに陥ってしまうのだった。こうしたあり方は、快楽的祝祭主義*4と名づけることができるだろう。この快楽的祝祭主義の姿勢から生じたのは、(戦うことと生きることとの一致を求めた当初の目論みとは裏腹に)楽しい戦いと、楽しくない普段の生との間の分裂だったのであり、また、戦いを楽しい状態に保たせる環境管理権力の君臨でしかなかったのである。

別の対処の仕方の探究

左派特有の戦うために生きようとする姿勢がすぐに突き当る、目指すべきよりよき生と、犠牲にせざるを得ない現在の生との間の不幸な分裂に対する従来の対処法は、以上見たように、いずれも不適切なものでしかなかった。生きることの只中で戦おうとしたことも、戦いの只中でよりよき生を実現させようとしたことも、どちらも、戦うことと生きることとの間の一致や、目指すべき生と、犠牲にすべき生との間の分裂の解消を達成することはできなかったのだ。それでは、いったいどうすればよいのだろうか。端的に言ってしまえば、戦うことと生きることとの一致を直接求めるのは、もはや断念していくしかないだろう。すでに論じたように、右派における戦いの物語の世界の中でも、生きることと戦うこととの間の一致は、例外的事態として稀に生じるに過ぎないものなのだった。正直言って、生と戦いとの一致を、人間が自ら望んで簡単に得られるようなものではなく、世界からの僥倖として一方的に与えられるに過ぎないと見なしていた点で、実は右派の方が左派よりも一段賢かったのではないか。といよりも、生のあり方に関してより深い認識に達していたのではないか。

いずれにせよ、生きることの只中で戦おうとした倫理的潔癖主義に対しては、戦いのために現在の生を犠牲にするのは不可避であり、たとえ普段の日常生活の中で倫理的潔癖性を体現していくという仕方で戦いを貫徹させようとしても、それでは有効な戦い方にはならないのではないかと、忠告せざるを得ない。また同じく、戦いの只中でよりよい生を先取りしようとした快楽的祝祭主義に対しても、戦いの最中によりよい生を実現させることなど土台不可能であり、いくら戦いが盛り上がって楽しいものになったとしても、別にそれで戦いが進捗して、ユートピア的生が到来したわけではないのでは、と釘を刺さざるを得ないのだった。

こうした倫理的潔癖主義と快楽的祝祭主義の限界を乗り越えるためには、戦うために生を犠牲することの不可避性と、戦いの中でよりよき生を先取りすることの不可能性とをいったん認めていく必要があるのではないだろうか。そのうえで、戦いのために毀損された生と、よりよき生が到来しないままに留まることとを一つに結んでいくような別の回路というか経路を設定していかねばならないだろう。すなわち現在の生の毀損と、未来のよりよき生の未到来とを一つにきり結び、そのことを通して、我々がその毀損と未到来を共に受け入れ、あくまでその中で生きることができるようにさせる何かを。

そうした回路のあり方に関してはまだよくわからないままなのだが、その内実はおおよそ次のようなものから形成されるのではないだろうか。(1)法制度の整備を通して法制度自体の廃絶を目論む、一種の謀略工作。それによって左派特有の実効的合理性が確保されることになる。(2)ふんばり、耐えることを可能にさせる知性。それは、運動を維持するために頼りがちな、意地や根性、あるいは気合というものの代替物となる。(3)戦いに従事することによって毀損された生や、戦いが目指したよりよい生が到来しないままに留まること自体が持つ魅力。対外的なオルグをする際は、運動体を魅力的なものにするのが一番手っ取り早いのだが、ここで言われている魅力とはそうしたもののことである。そして、生の未到来態や毀損態が帯びる筈のその魅力は、生自体を心の拠りどころや居場所にしたり、あるいは、その中でアイデンティティを構築しようとする、従来主流のふるまいとは鋭く対立し、むしろその代替物になると言える。

次回以降のエントリーでは、この3つの回路の中身について詳しく見ていくことにしたい。 (続く)

*1:ただし右派にとっての「戦い」が、具体的には国家や地域間の経済競争や文字通りの戦争がイメージされているに対して、左派にとってのそれは、おもに政治闘争や社会運動がイメージされるという大きな違いが存在している。この、〈競争〉や〈戦争〉と〈闘争〉や〈運動〉という、「戦い」に対するイメージの違いには敢えて踏み込まないまま議論を進めていくことにする。議論を進めれば、このイメージの違いに対応した、戦いというものに対する右派と左派の関わり方の違いがおのずと明らかになる筈だからだ。

*2:生活に根差した運動を遂行しようとすると、自らの生を絶えざる管理、監視せざるを得なくなるこうした状態に陥るのは、フーコーの言う、パノプチコン的な規律権力による主体化=従属化をすでに受け入れてしまったからなのでは、という指摘は今まで左派界隈でも散々なされてきたのだが。

*3:誤解なきように言っておくが、倫理的生き方を求めること自体が問題なのではない。倫理性の希求が、自らの清廉潔白さを求め、そのことに固執するだけの単なる潔癖主義的態度に後退・退化してしまうのが問題なのだ。

*4:左派系の運動が求めているよりよい生が快楽的なものになるのは、たとえばフーリエの思想を持ち出してくるまでもなく、それ自体としては決して間違ってはいない。ただ、そうしたものを求める際にいわば副産物的に生じる祝祭性(盛り上がりや一体感)が、求められている当の快楽(が増大した状態)と誤認されてしまうのが問題なのだった。