外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

生きることと、戦うこと その1

そもそも人は、生きるために戦うのか、あるいは戦うために生きるのか、いったいどちらなのだろうか。――端的に言ってしまえば、前者を選んだ者が(言葉の一番広い意味で)右派となり、後者を選んだ者が左派となると言って構わないだろう*1

*1:ただし右派にとっての「戦い」が、具体的には国家や地域間の経済競争や文字通りの戦争がイメージされているに対して、左派にとってのそれは、おもに政治闘争や社会運動がイメージされるという大きな違いが存在している。この、〈競争〉や〈戦争〉と〈闘争〉や〈運動〉という、「戦い」に対するイメージの違いには敢えて踏み込まないまま議論を進めていくことにする。議論を進めれば、このイメージの違いに対応した、戦いというものに対する右派と左派の関わり方の違いがおのずと明らかになる筈だからだ。

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知識人と群衆、あるいは左派亜インテリ

菅原潤『弁証法とイロニー』(講談社選書メチエ、2013年)読了。自分がひっかかっている左派亜インテリの問題と、30年代における、知識人(芸術家)と群衆(大衆)との間の異同をめぐる思索、問題設定が直結してることがよくわかった。この本の著者によれば、ヘルダーリンとシュレーゲルの影響を強く受けた若き保田與重郎は、知識人=芸術家が愚劣な群衆を見下し、それを乗り越えようとして、却ってその群衆に復讐されるかたちで没落してしまうという点に一貫して固執していたそうだ。その没落こそ、逆説的な仕方で芸術家の崇高さ=勝利を証すのだが、しかし同時に、没落はしょせん愚劣かつ矮小で目も当てらない状態しかもたらさないから、軽蔑していた群衆と自らが実は同一の存在だったという事実が突きつけられてしまうことでもある。保田が使う「内なる大衆」という表現の意味は今一つ曖昧なところもあるのだが、著者である菅原は、それはどうも、自らの存在との同一性が明かされた後者の群衆のあり方を指しているのではないかと推測していた。

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「自分探し」と「承認欲求」に関するメモの追記

前日のエントリーの追記です。

錯覚とジレンマ

〈感性〉にのみ主体を依拠させる試みと、「自分探し」との関係は、土井隆義の次のような議論が参考になるかも知れない。「現代の若者」は*1、そのときどきの自分の感情、感覚、気分――まさに〈感性〉的世界――に敏感になって、ひたすらそれらに忠実になれば、自分の「心の内面」の奥底に存在する、不変で確固とした実体としての「本当の自分」を見出せる筈だという錯覚に囚われている。そのため、流されない、不変で確固としたそうした心の拠りどころを見出そうと努めれば努める程、逆に、とりとめない、そのときどきの感情や感覚の移り変わりに左右されるようになって、却って自らを見失ってしまうことになる。これは現代の若者の殆どが免れることができない、深刻なジレンマなのではないのかと *2。このような錯覚やジレンマは、実は、〈感性〉というものが本来持っていた流動性に主体を依拠させて、そのあり方を柔軟にすることに失敗してしまったからこそ(言い換えれば、そうしたことを可能にする〈生の技法〉が欠けたままだったからこそ)、生じてしまうのではないだろうか。

*1:漠然と一般化されているが、本来は、特定の時代の特定の階層のという限定がつく筈。

*2:土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)など。

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「自分探し」と「承認欲求」に関するメモ

「自分探し」や「承認欲求」という言葉は、多くの人間がそうしたものに囚われているという事実を確認する際の社会学的な記述概念としては確かに適切なのかも知れないが、しかし、どうしてそうなってしまったのかを分析する際の社会科学的な分析概念や、あるいは、ではどうすればよいのかを検討する際の哲学的な操作概念としては、やはり不適切だと思う。

「自分探し」と〈感性〉

そもそも「自分探し」とは、価値観が多様化したりあらゆる規範が不確かなものとなった高度消費社会の状況の中で、一人ひとりが自らの〈感性〉というものを覚醒させ、それを柔軟なものにすることよって、一つの価値観に強くコミットしたり、特定の規範を内面化したりせずとも生きていけるようにした試みの挫折の結果、初めてもたらされたものではなかったのではないか。言い換えれば、研ぎ澄まされて柔軟になった自らの〈感性〉のみに依拠することよって、多様な価値観が衝突してやまず、また確固とした規範が存在しないままのアノミー状況にうまく適応していくとともに、その中をしたたかに生き抜こうとする試みが失敗した結果、そこから撤退し、その試みに蓋をするためにこそ、「自分探し」や、その変種である「ありのままの自分の肯定」というものが召喚されたのではないだろうか。

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根本語としての〈居直り〉

一般に左翼理論は、何か特定の抵抗運動や革命運動を分析・評価する際、常にそこへと戻っていくべき出発点というか、もしくは、そこからの偏差で運動の変質や逸脱具合を測るような基準点のようなものとして、或る一つの構えというか態勢を設定している。たとえば<異議申し立て>(ケネス・ケネストン)や<拒絶>(ジョン・ホロウェイ)のように。また、こうして設定された態勢の多くは、基本的に(自分を否定してくるものを否定し返していくという意味で)<否定的なもの>が多かったと言えるだろう。そしてそうであったからこそ、いわゆる「68年の思想」を自認したフランスのポストモダン左翼は、スピノザニーチェ主義を標榜しつつ、従来のように運動の出発点に何か〈否定的なもの〉を置くことに強く反対し、それに対して、自らの存在に固執しながら、今までよりヨリ何かできるようになろうとしている力の横溢や、今とは常に別のあり方を秘めたる生の潜在性の次元を大胆に肯定して解き放っていくような、いわゆる〈ディオニュソス的肯定〉というものをことさらに対置していったのだった。

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「政治/実存」図式の別ヴァージョンの話・他もろもろ

なんてこったい! 上巻をほとんど読み進めていないにもかかわらず、小熊英二『1968』の下巻がもう発売してたのかヨ。ゆっくりした結果がこれだよ! ・・それはさておき、前回の「『政治/実存』という対立図式」の節で論じた、あの有害な「政治/実存」という図式の別ヴァージョン(というより殆どその言い換え)を発見したので、ここにご報告を。

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小熊英二『1968』「著者のことば」に対してコメントをと思ったら

小熊英二『1968年・上』出ましたね。昨日本屋言ったら平積みされてたので、収入が減ってどんどん貯金が突き崩されてく日々が続いているにもかかわらず、思わず衝動買いしてしまいました。税込みでしめて7,140円。あちゃー、買ってから後悔しきりですが、まあ衝動で風俗行ってしまったものと思って諦めナと、まわりから変な仕方で慰められてます。そか、お盛んな世の男性たちは自らの浪費を正当化するためにそんな慰め方をしてたのかw

それはさておき、添付されたパンフの「著者のことば」*1を読んだら、ちょっと疑念というか懸念が湧いてきてしまいました。というわけで、以下それについて少し。まあ、あくまで本文を読む前の、こちらの一方的な懸念なので、読了後は(しかしそれはいったいいつのことになるんだ?)まったく的はずれになるという可能性大ですが。

*1:ネット上にもうpされてました。http://www.shin-yo-sha.co.jp/essay/1968_chosha.htm

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