外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

ボヘミアン的実践とは

とりあえず再開

わけあって名前を踏足からあしぶみに変えました。

ヤッパ、はてなのカスタマイズの仕方はこれ以上は誰も教えてくれないのか。ウェブの世界はそんな甘いものではない…。

とりあえず理屈モード再開。

*          *          *

自分がやんなきゃいけないことは、大きく分けると次の3つになるだろう。

(1)ボヘミアン的実践そのものの類型学というか系譜学
(2)ボヘミアン「崩れ」たちの生、実存の解明
(3)ボヘミアン「崩れ」たちの生き方の肯定と、その前向きな再構築

まず、それぞれの作業に込めたいモチーフの確認から。

(1)ボヘミアン的実践の類型学

ここには、異世代間交流と、社会学視点と社会思想史的(ユートピア的)視点との間の往還、という二つのものを込めたい。この二つは相互に関連している。前者を実現するための仕掛けが後者だと言ってもよい。

現在の論壇を見ていると、時間軸のパラダイム転換的な切断を重視する(東大社会学の、ダニエル・ベル流の「イデオロギーの終焉論」が加味された近代化論の学統を継いだ)社会学者たちが、時間軸の連続面を重視して、理念的、イデオロギー的な社会構想の歴史汎通的な普遍性を信じてやまない(左翼的な)社会思想史家たちの、新しい(特にウェブ社会の)現実に対する鈍感で的はずれな対応や、その皮相な認識を嗤い、あげつらうという傾向が強い。社会学者たちは言う。時代の変化に応じて、その中を生きる人間性やリアリティ、あるいはそういうものを捉える際の認識枠組も変わっていくにもかかわらず、自分が依拠する理念やイデオロギーの普遍性を疑うことがない社会思想史家たちは、その種の変化を認識することができずに、それによってもたらされた新しい動向や現象を、自らが信じる理念やイデオロギーから、ただもっぱら、反動化や後退や劣化として一方的に断罪することしかしていないと。たとえばプチ・ナショナリズムネットウヨという現象に関しても、左翼イデオロギーやリベラルな信条を無条件に正しいとする先行世代の社会思想家たちは、ただそれをイデオロギー上の右傾化として捉え、一本調子に非難することしかしてない。だが実際は、それはイデオロギーという次元で生じた現象なのではなく、社会構造上の大規模な変動や、現実を捉える際の感性の根本的な変化を如実に反映した、より本質的なものだったのである。――だいたいこんな風に社会学者たちは論じて、理念に囚われた社会思想史家たちの分析力の低さを糾弾してやまない。

ここに見られるのは、時代の最先端を捉えたと称する社会学者の傲慢さと、時代の変化などに左右されずに正しい理念を貫き通していると自負する社会思想史家の頑固さとの間の対立である。この対立は、それぞれの者たちが求めるものが元々異なっていたのだから、或る意味では仕方ないとも言えるが、しかし、現在それが世代間対話を妨げているのは疑いようがない。一方では、時代の最先端を体現しているとして、社会学者たちが、先行世代からは非難されがちな若者たちの行状を擁護し、他方では、世間からはもはや時代遅れにしか見えない生き方やスタイルを変わらず貫き通している者たちの志を、社会思想史家たちが賞賛してやまないという、この構図が改められない限り、生産的な世代間対話は生じないだろう。

さらに事態を悪化させるのが、この対立に対するマスコミの介入の仕方である。格差や貧困の問題が浮上して、最近は左翼運動ルネッサンスぎみだが、そこにマスコミが関わると、必ず、格差や貧困に反対する現在の若者たちの明るくて新しい運動は、古い左翼の重くてダサいノリとは違うのだというたぐいの最低最悪のレトリックを、上で見たような社会学者たちの分析を尤もらしくまぶしながら弄して、左翼運動内部を分断しにかかる(最近の『論座』は本当に最低だ!)。このレトリックに当事者たちが多かれ少なかれ感染してしまうと、新しい運動を牽引する若い側は、自らの新しさに溺れ、古いやり方を踏襲することによって何とか運動を持続させてきた上の者たちを見下すようになり、またその古いやり方を踏襲し続けた側も、若い者たちには動員力があるから、釈然としないながらもマスコミのその肯定的評価を受け入れ、彼/女たちに無理矢理おもねようとしてしまう(もっと最悪なのは、本人は古い体質を温存させたまま、マスコミの眼を気にして背後から新しい運動の新しさを演出している者たちなんだけどネ…)。

こんな感じで現在、中央線沿線では30代前後の者たちが中心となった「素人の乱」が注目されているんだけど(ちょうど10年前に注目されていたのは「だめ連」だった)、マスコミの上のような対応が変わらない限り、また運動の側がその影響をはねつける努力を意識的にしない限り、次のようなパターンがえんえんと繰り返されるだけだろう。

――時代と共振した(とマスコミによって判断された)若い威勢のいい運動がその都度ポっと出てきてはもてはやされ、当人たちもその気になって盛り上がるんだけど、時代が変わればすぐに忘れ去られてしまう。にもかかわらず運動に関わった当人たちは、引き続き、自分たちがよくて正しいと思ったノリを同じように続けようとするから、必ず、何で同じことをやってるのに前とは違って孤立してしまうのか、もしかしたら自分たちは時代との接点を失ってもはや行き詰っているのではないのか、というたぐいの疑念ばかりが大きくなり、疲労困憊していくことになる。言い換えれば、自分たちのやっていることの正しさに対する確信の深さと、時代との接点の見出せなさに対する焦燥感との間の板ばさみで苦しみ続けることになる。

これは何と不毛で無駄なことだろうか。…実は自分は昔、某商業誌に、中央線沿線というトポスの潜勢力とは、決して新しくて威勢のよい文化・政治運動が次から次へと出てくること自体にあるのではなく、そういう運動のフォロワーの一部たちが運動のピークが過ぎた後も、ドロップアウトしたまま仕方なく文化産業底辺の仕事に従事しながら、コジれつつもかたくなにその同じ運動をやり続けることができるところにこそある、また、そういう者たちが幾重、幾世代にも層をなしているという点こそが重要だと主張した文章を書いたことがある。言い換えれば、中央線沿線というのは、実社会に対して不満を抱えつつも、同時にそれにアンチを唱えた運動の方にも疑念や憤懣を抱えてしまい、その結果行き場がなくなってしまった(亜)インテリが宙ぶらりんのままたむろし続ける、一種の「第二世界」であり、そこにこそ可能性があるのではないかと言いたかったのだ。

運動の連続性が新しさを強調するマスコミの皮相な言説によって分断され、また運動の当事者たちも自らの新しさのイメージに足を掬われがちな現状に対しては、こういう視点が絶対に有効だと思ったんだけど、正直誰にも理解されなかった……。

ベンヤミン追想フーコー的自己の倫理

さて現在、くだんの社会学的視点と社会思想史的視点との対立の間を柔軟に往還できて、そこから自由でいられるのは、具体的な政策提言や実効的な制度設計に通暁した、テクノクラート的発想をする者たちだと思われるが(M台とか厨先生とか本田由紀とか)、自分としてはそれ以外の仕方を模索したいと思っている。

まず、社会学者たちの、68年以降の時代区分の3分説(見田宗介大澤真幸の「理想/虚構/現実の時代」という区分。ただし、この区分そのものの生起は、社会学者たちの見解とは異なり、67・68年革命の直接の効果だと自分は思っているが)を取り敢えず受け入れることにしよう。その上で、それぞれの時代(パラダイム)において、所与の運動の中で既成の理論を受け入れながら、どんなよりよい生き方やよりよい人間関係・共同性を追い求めていったのかを、その光と影、成果と袋小路、高みとショボさとを分節化しながら跡づけていく。ここでポイントとなるのは、そこで追い求められたものやその追い求め方自体(新たな実存様式やコミューン様式)は、運動に関わった者たち自身の主張や、彼/女たちが受け入れ従おうとした思想や理論の正しさや整合性によって見えにくくされているという事実である。そこでは必ず、当時流行っていた思想や理論の単なる墨守ではない、バイアスが加わった独自な受容が生じ、また逆に、このバイアスを通して新たな実存様式やコミューン様式が創出されていくのだが、これらのことは後からの解釈によってでなければ見えてこない。

後からの解釈というこの作業は、大げさに言えば、ベンヤミン追想学とフーコー的な自己陶冶の様式の系譜学(倫理の系譜学)とを一つに結びつけるものであると言える。ベンヤミン的<追想>とは、すべての経験を「思い出」に回収することによって、それらのものの裡に初めて首尾一貫した意味を見出そうとするヘーゲル的な<想起>とは似て非なるものなのであり、それは、よりよい生き方・社会を求める運動の只中でほのかに夢見られたり、ほんの一瞬だけ垣間見られた可能性(現実味が乏しいものが殆どである)を、その運動が歴史の藻屑と化したあとに落穂拾い的に拾い集め、今度は実際に未来に生かせるよう、それらのものだけを新たにつなぎ直し、組み合わせ直していくことである。またフーコー的な自己倫理の系譜学とは、よりよく生きようとする、つまり自分自身や他者との関係をよりよいものにしようと試みる際の、そこに込められた特有のこだわりや、それ固有の実践スタイル、そしてそこで用いられる特殊なスキルや鍛錬方法たちの変遷や、相互関連を跡づけていくものである(フーコー自身は、特にそれらのものと、その時代時代で「真理」とされたものとの関係と、その関係様態そのものの変遷に焦点を合わせていたのだが)。なおこれは、臨床社会学の一分枝である「セラピーの社会学」とは似て非なるものなので注意が必要だ。セラピーの社会学は、さまざまなセラピー技法の興隆を、ただ社会の心理学化や(人々を社会的に分断させる)個人化の表れとして捉えてネガティヴに批判する作業以上のことは決してせず、それぞれのセラピーがどんな自己(実存)を構成したり、新たな自己陶冶の実践をもたらしたのかというポジティヴな点に関しては、無頓着なままである。

このような、それぞれの時代に垣間見られたよりよい自己、共同性のあり方の、ベンヤミン追想による解明=救出と、そういうものを追い求める際の特有の実践の仕方の、フーコー的系譜学による明確化=再構成こそが、時代の先端にばかりにこだわる社会学者と、理念の変わらぬ正しさに固執し続ける社会思想史家たちとの対立を解きほぐし、ひいてはそのことによって世代間対話を促すことにもなっていくと思われる。

なおこの作業をする上での最大の問題は、言語というか文体の選択である。その作業はアカデミックな理論的分析というかたちを取るわけでも、時代の文脈に敏感な批評的注釈というかたちを取るわけでもないから、その文体は見当がつかないままである(もしかしたら寓意や説話という形態になるのだろうか?)…。

(2)ボヘミアン「崩れ」たちの実存解明

ここの第一のモチーフは、何らかの政治的・美的運動の昂揚を経験し、それが終わった後の生き方の選択肢として、運動の最良(高み)の部分だけを維持継承しようとすることや(必然的にこれは、その昂揚の何らかのかたちでの再現を希求することになる)、もっぱら運動の否定面や軽薄な部分を批判して、元からあった現実に還帰しようとすること(必然的にこれは、運動の昂揚をただの若気の至りとみなし、苦渋に満ちた懐古の対象に貶めてしまう)以外の、「第3のもの」を提出しようとすることにある。それでは、新しい運動を担ったリーダー層の多くが求めた、運動の最良部分の維持継承でも、後からのフォロワーの多くが陥った、既成制度内の散文的日常・現実への還帰でもない、第3の道とはいったい何なのだろうか? それは、運動の昂揚に安易に足を掬われて何らかの「エアポケット」にはまってしまい、それ以降、そこから外に出られなくなってしまうというあり方のことである。それゆえ、そういう生き方を強いられたボヘミアン崩れたちの実存解明は、同時にこの「エアポケット」空間の解明ということにもなる(その一例が「第二世界としての中央線沿線」ということなのだった)。

ところで、一般名称としては「崩れ」よりも「なれの果て」の方がいいかも知れない…。急に気が変わった。まあ、あまりこの種の和語の曖昧なニュアンスに拘泥しても仕方ないけど…。

で、この種の人たちは、大きく分けると2種類になる。

「崩れ」→ 何らかの<極限>な状態や<極端>な実践を目指したためにコワれてしまった人々(元気があれば、俺たちは「フリークス」だなどと嘯いて、後悔や悔悟を超えて飄々と生きていくことができるのだが…)。

→別名「死屍累々系」。傍からは「すでに終わってしまった人たち」と見なされがち。

★「なり損ない」→ 何らかのボヘミアン的実践に憧れ、模倣したものの、いつまでもそれを自らのアイデンティティのよりどころにしたり、そこから独自のスタイルや路線を確立することができずに、もはや引こうにも引けなくなって、素人のオーディエンス意識と、プロとして創作・演奏する側の意識との間でいつまでも折り合いがつけられないままでいる人々。

→別名「中途半端系」。傍からは「モノにならなかった人たち」と見なされがち。

つまり、

ボヘミアンの「なれの果て」=ボヘミアン「崩れ」ボヘミアン「なり損ない」>

ということになる。

或るものの<なり損ない>がそのまま或るものの<なれの果て>になるというのは何か変な気もするが、そこに逆に意味があるような気もするので、取り敢えずこのままで…。

それから(1)でちょっと触れた、社会学的観点からする68年以降の時代変化の3段階説をここに当てはめると、2×3=6というかたちで、都合6つの<ボヘミアンなれの果て>の実存範疇(類型)が抽出されることになる(その中身については次の機会で)。

あと、ここにはもう一つモチーフがある。それは、思春期に罹患したメンヘルが中年過ぎても寛解しなかった人々(「終わらない思春期」状態)や、精神的に大人になれなかったまま老いを迎えざるを得ない人々は(かつて鎌田東二は『翁童論』[asin:4788507293]ユング的な観点から、成長の極致として幼児性と老人性は一致すると説いたが、これはいわばその裏ヴァージョンとなる)、いったいどーすればよいのかという問題。しかしこれはストレートに問うとあまりにもアレになるので、いわば隠された第2のモチーフのままにしておくつもり。
ボヘミアンの「なれの果て」=ボヘミアン「崩れ」ボヘミアン「なり損ない」>

ということになる。

或るものの<なり損ない>がそのまま或るものの<なれの果て>になるというのは何か変な気もするが、そこに逆に意味があるような気もするので、取り敢えずこのままで…。

それから(1)でちょっと触れた、社会学的観点からする68年以降の時代変化の3段階説をここに当てはめると、2×3=6というかたちで、都合6つの<ボヘミアンなれの果て>の実存範疇(類型)が抽出されることになる(その中身については次の機会で)。

あと、ここにはもう一つモチーフがある。それは、思春期に罹患したメンヘルが中年過ぎても寛解しなかった人々(「終わらない思春期」状態)や、精神的に大人になれなかったまま老いを迎えざるを得ない人々は(かつて鎌田東二は『翁童論』[asin:4788507293]ユング的な観点から、成長の極致として幼児性と老人性は一致すると説いたが、これはいわばその裏ヴァージョンとなる)、いったいどーすればよいのかという問題。しかしこれはストレートに問うとあまりにもアレになるので、いわば隠された第2のモチーフのままにしておくつもり。

(3)ボヘミアン「なれの果て」たちの生き方の肯定と、その前向きな再構築

ここに是非込めたいモチーフは、いわゆる「スピサヨ問題」(左翼運動とスピリチュアル志向との生産的な分節−接合とはどのようなものか?)である。宗教をリスペクトし、また自身がその信者である左翼のアクティヴィストってことの他多いような気がするけど、伝統的な世界宗教の枠組に入らない、神秘主義的な色彩の濃いものになると(たとえばダライラマとか、アルカイックな先住民のシャーマニックな知恵とか)、それを担ぐ人たちがおもにプチブル階級だったことも影響してか、前衛志向の強い左翼運動(思想)に携わる者たちは途端に一方的に見下し、ただ軽蔑するようになる。

とはいえ、実は歴史的に見ると、政治的な解放運動と、宗教制度やその教義よりも個人の内的経験やその自由な探求(クエスト)の方を重視してきた神秘主義とは、ともに社会の(西欧)近代化を推進してきた、いわばヤヌスの顔とも言える間柄だった(中世から続く、強い社会解放志向に裏づけされた神秘主義運動については、池上俊一『ヨーロッパ中世の宗教運動』[asin:4815805547]参照)。このことは、エンゲルスの古典的なトマス・ミュンツァー論を待つまでもなく、実は左翼の側でも意識されていたのであり、たとえばディアマート的な教科書的定式では、中世末期から近代初期にかけて頻発した、終末待望的な神秘主義的な運動は、よりよき社会のイメージを観念的に、つまり空想的に先取りしたところに意義があるのであって、その先取りを科学的・合理的に実現する運動が登場して以降は、その歴史的役割を終え、後はもっぱら古い階級の利害擁護する反動的なものに落ちぶれていった、という筋書きになっている。

しかしこれでは、啓蒙期に市民革命に触発されるかたちで、後の時代(ロマン主義の時代など)に影響を与えた、さまざまな新しいかたちの神秘主義が生まれていったことや、19世紀後半から20世紀中頃にかけての、さまざまな美的前衛運動やユートピア的な構想が、常に神秘主義的運動をその源泉としていたという事実が評価できなくなる。そしてフランクフルト学派の一部(ベンヤミンブロッホなど)も、早くからこのような事実に気づいて、ロシア・マルクス主義の硬直性を乗り越えるために、神秘主義にはらまれた、よりよい別の社会を夢想する奔放な想像力を、新たに唯物論に積極的に生かしていく仕方を模索・実践していたのだが(その蒙昧な頽落形態である、プチブルのオカルト趣味やナチズムを常に睨みながら――このあたりの詳細は、深澤英隆『啓蒙と霊性[asin:400022753X]参照)、この点も見過ごされてしまうことになる(ちなみにベンヤミンを「唯物論神秘主義の対立・総合」という観点から捉えるのは、デリダ以前的な、70年代的な古いベンヤミン読解のパラダイムに過ぎないのかも知れないが…)。

ここから判るのは、スピ的なものというのは19世紀後半以降、一方では美的前衛や社会解放の新しい発想の源泉と化し、その意味では社会解放の潮流にとって順機能的に働いたのに対して、他方では、現実の社会関係が不可視化されたブルジョワ社会の、虚偽意識的な孤立意識や、また全体主義的な妄想の依り代とも常になっていたから、その意味で同時に逆機能的にも働いていたということである。そして、この両者は常に弁証法的に一体化していたからこそ、ベンヤミンブロッホは批評的営為によってそれを解きほぐし、その可能性を救出しようとしていたという点も看過することができない。しかし問題(というより疑問)なのは、彼らがそういうことを行ったのは、当然同時代である2〜30年代の(ドイツの)社会状況に限られていたのであって、「68年」以降――この場合は厳密には67年サンフランシスコ以降と言った方がいいのだろうが――の状況に対しては、寡聞にして似たようなその種の試みがなされないままになってしまったという事実である(D‐Gが、戦後のアメリカ社会が持った<ポップ>という潜勢力を評価するというスタンスの一環からか、カスタニェダ[ドン・ファン]を肯定的に評価したことがあったが、もっとこのことをまともに受け取り、それを発展させる必要があったのだろうか――しかしこの路線の延長には、絶対に関わりたくはない、あの中沢新一という目の上のたんこぶが控えている……)。

で、いずれにせよ、自分としては、(67もしくは68年以降の)スピ的なものを社会解放にとって順機能的に働かせるための探究の拠点、もしくは実際にそのように働かせる担い手として、(それ自体、67年もしくは68年的なものの産物である)くだんのボヘミアンなれの果てという実存様式を評価していきたいと思っている。

…とその前に、こういう作業を始めるためには、そもそもボヘミアンなれの果てとスピ的なものとのつながりの必然性を証さなければならない。うーん、どうなんだろう…。別にボヘミアンなれの果ての者が、すべてスピ的なものにアクセスするわけでもないし…。もちろん、その一部が自らの生を肯定=受容することで何とかサバイブするための戦略の一環として、スピ的なものを選択するということはあったのだろうが…。まあ、彼/彼女たちというのは、木村敏の古典的な実存的な時間構造論からすれば、多分抑うつ的な「ポスト・フェストゥム」(後の祭り)体制の実存時間を生きているのだろうから、それ固有のスピ的なものへの関わり方というのもあるのかも知れない(ちなみに木村の図式では、統合失調型の「アンチ・フェストゥム」(前夜祭)の時間を生きる者は(悟りへの期待で満たされる)禅仏教に、「ポスト・フェストゥム」の時間を生きる者は、もう遅すぎるという悔悟の意識の処理に重点を置く浄土系仏教に、そして境界例的な「イントラ・フェストゥム」(祭のさなか)の時間を生きる者は、今ここでの即身成仏を旨とする密教に相性がよいということになっているが、まあこんなことはどうでもよいか…)。…うーん、このあたりの問題はペンディング!

リベラルなエートスの更新

ボヘミアン「なれの果て」の肯定・構築の探究に込めたいもう一つのモチーフは、一言で言えば(67、68年以降の)、革新リベラルな生き方、メンタリティ更新のための、<突端となれの果ての媒介>ということである。

ここで言う「革新リベラル」とは、狭義の左翼ではなく、まさに67年、68年にヤング・ラディカルズたちが解き放った、欲望の全面解放、その多様性・多方向性の全面肯定、もしくは個人の自由や快楽の果てしない探究、固定化された伝統や規範の拒否、あるいは、リアル・ポリティークや経済的実効性の優先に対抗して、すみやかに地上への善の実現(暴力や不平等の全面的除去)を求める人道主義精神などといったメンタリティというかエートスのことを指していて(リベラルと言うより、気分としてのアナーキーと言った方がいいのか?)、これは、新左翼とリベラルな市民運動に携わる者たちが、(正しいのが)当たり前なものとして漠然として共有していたものだと思う。

そして今や、このエートスそのものが深い危機に瀕しているように思われる。一方ではそれは、ボボズに典型的に見られたように、現在ではすでに資本をなりふり構わず加速する側のメンタリィと化し、もはや体制側に奪い取られてしまったに等しい(受動革命によるネオリベ化)。また他方では、ネオコンを初めとする、人間のふるまいの「美徳」や人格の「品格」を重視し、共同体やそれを支える政治にそういうものの涵養を期待した保守的な潮流が現在力を持ち始めているのだが(現在進行中の教育改革なんかは、完全にこういう考え方に基づいている)、この種のものはいずれも、68年革命以降社会に広まったリベラルなエートスを眼のかたきにしてやまなかった(同時にネオリベの経済至上主義にも反撥することが多いのだが)。この保守的な潮流はいずれも、68年的なエートスの蔓延こそが、人々を個人主義者にして共同体を崩壊させ、またそのエートスは、欲望の解放や快楽の強化だけをもっぱら求めたがために、人々が美徳や品格の陶冶・向上について真剣に考えることを不可能にしてしまったと強く断罪しているのであり、現在、その種の主張は社会にじわじわと浸透しつつある。

実はこういう批判に対処するために、スピ的なものとの節合によって革新リベラルなエートスを更新、もしくは更に深化させようとした試みは、すでにいくつか存在していた。その一番大規模なものはケン・ウィルバーの思想であって、彼は自分たちのベビー・ブーマー(団塊)世代が60年代に、スピリチュアルなものに触れることを通して精神の解放を目指しながらも、結果として消費社会のミーイズムしかもたらすことができなかったという事実を深刻な問題と見なし、60年代的な解放の精神を継承・深化させる仕方を模索していった。そこで全面的に導入されたのは、19世紀の倫理思想において、功利原理に対する歯止め、あるいはその昇華として導入された、精神的な<成長>、<進化>という観点なのだが(実はネオコンも19世紀倫理思想の、精神の向上、陶冶を重視するこの観点を肯定的に評価していた)、しかしこういう観点を選んでしまうと、理論の包括度が高まる一方で、もっぱら自らが正しいと信じる評価基準によって、ものごとを進化の度合の位階秩序のどこかに位置づけることしかできなくなるから、他の理論との対話・交流が難しくなって孤立しがちになってしまう。もちろんウィルバー自身もこのことには気づいていて、彼の思想が常に変動しつつあるのも、この問題に対する対応の結果であると解釈できなくもない。

…というわけでいずれにせよ、彼の理論の有効性や、ボヘミアンなれの果ての立場からするその評価に関しては今後の課題ということで…(もしかしたらウィルバーよりも、スピリチュアルなものとの接触による成長と、中年期の鬱や幼児期への退行との本質的な関係を重視するM・ウォシュバーン『自我と「力動的基盤」』[asin:4876720525]の方が、ボヘミアンなれの果ての立場にとっては重要なのかも知れない…)。

一方日本でも、似たような試みをしている者たちは存在する。例えば、戦後の進歩的知識人の代表の一人と目された坂本義和は、多分70〜80年代の地域での反公害、反基地、そして反原発闘争における、スピリチュアルな命の尊厳の目覚めの経験に触発されてか(彼自身は自衛隊の存在は認めているのだが)、典型的に近代的な自らの市民社会の構想を、その18世紀啓蒙主義的な理知中心の限界を乗り越えようとして、市民社会を担う成員たちのスピリチュアルないのちの目覚め、自然との一体感という新たな感性によって補完していく、という立場を取っていた。

そして、こういう発想を継承するかたちで、現在スピ的なものと革新リベラルなスンタスとの自覚的な節合を試みているのが、ジェンダーフリーな「スピリチュアル・シングル」の立場を標榜する伊田広行である。彼の立場に関しては、ボヘミアンなれの果ての視点からすれば、ある程度明確なコメントができるかも知れない。

――ぶっちゃけ一言で言ってしまえば、彼の言動では、<正統>的なスピのスタンスと、同じく<正統>的なリベラルなスタンスとが、その<正統性>を相互に強化していくというかたちで一つに結びついている(<正統性>ということについての説明は次回)。革新リベラルな原理・原則を実践面でぶれることなく押し通すために、その正しさに対する確信を保障する担保、もしくは強化する駆動因としてスピリチュアルな経験や感性が動員されているのではないか。また反対に、スピリチュアルな潮流に絶えずつきまとう、オカルト的な迷信への逸脱や、成功哲学的な通俗化から自らを峻別する原理として、リベラルな信条が活用されているのではないか。こういう、ブレずに双方の<正統的>なあり方を体現しようとするパフォーマンスは、それぞれの運動「内部」にとっては、妥協や逸脱を諌めるというかたちになって、大変実践的な有効性を持つようになると思われる。しかし、双方の運動「外部」からすれば、それぞれの原則的な主張やあり方をただ墨守、反復強化しているようにしか見えなくなるから、あまり生産的な対話ができる相手と見なされることはないだろう。…チトきつく言ってしまえば、彼の場合は、スピとリベラル(サヨ)の従来の原則的で正しい(<正統的>な)あり方をただ強化し合っているだけなのだから、革新リベラルなエートスの更新、深化という課題に対してはあまり役立たないのではないかと思われる(ちなみに自分は、<ラジカル>であることと原則的に<正しい>こととは、まったく別のことだと思っている。これまた詳細は次回)。

それに対して、「ボヘミアンなれの果て」の立場から、リベラルなエートス更新のためにスピ的なものにアクセスするというのは、「なれの果て」という、いわばリベラルなエートスの闇、その否定面から、改めてそのラジカル化を(単なる過去の再現、ノスタルジーというかたちではなく)試みようとすることになるわけだから(これが、ラジカル志向という<突端>と、その否定的な産物である<なれの果て>との間の媒介ということの意味である)、双方の正統とされたあり方に固執することよりも、より前向きというか、少なくとも生産的な理論的交流ができるようになると思うんだけども、果たしてどうだろう…。

また伊田と同じように、ある種の経験を特権化して、それを革新リベラルな感性の正しさの担保としようと試みている者に、荷宮和子がいる。彼女の場合は、80年代消費社会に培われた「繊細で柔らかい」消費者の感性を特権化し、それをよりどころとしながらリベラルな主張を展開している。そして面白いことにこの荷宮も伊田も、特にこういうかたちのスタンスを取るようになったのは、80年代にある程度実社会に(と言っても今から振り返ると、中産階級の上の方の一部に過ぎなかったわけだが)定着したフェミニズム的な意識や作法を、ジェンダーフリー・バッシングから守るためであった。自分としては、この面では確かに妥協の余地はなく、フェミの成果を守って、そこから後退しないようにと断固とした姿勢を取るのはいた仕方ないのかなとも思っている(ただし伊田は、80年代フェミの感性や、それが追い求めた主体のあり方を理解しているとは言い難いところがあるのだが…)。

*         *         *

それでは次回から、(1)〜(3)の項目について、それぞれ現在構想していることをスケッチしていきたいと思う。