「自分探し」と「承認欲求」に関するメモの追記
前日のエントリーの追記です。
錯覚とジレンマ
〈感性〉にのみ主体を依拠させる試みと、「自分探し」との関係は、土井隆義の次のような議論が参考になるかも知れない。「現代の若者」は*1、そのときどきの自分の感情、感覚、気分――まさに〈感性〉的世界――に敏感になって、ひたすらそれらに忠実になれば、自分の「心の内面」の奥底に存在する、不変で確固とした実体としての「本当の自分」を見出せる筈だという錯覚に囚われている。そのため、流されない、不変で確固としたそうした心の拠りどころを見出そうと努めれば努める程、逆に、とりとめない、そのときどきの感情や感覚の移り変わりに左右されるようになって、却って自らを見失ってしまうことになる。これは現代の若者の殆どが免れることができない、深刻なジレンマなのではないのかと *2。このような錯覚やジレンマは、実は、〈感性〉というものが本来持っていた流動性に主体を依拠させて、そのあり方を柔軟にすることに失敗してしまったからこそ(言い換えれば、そうしたことを可能にする〈生の技法〉が欠けたままだったからこそ)、生じてしまうのではないだろうか。