外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

メモⅢ

行動経済学進化心理学の覇権?

最近、行動経済学進化心理学が学問上の覇権を取りつつあるように見える。そう見える原因に関しては、すでに次のようなことが言われていた。曰く、昔と比べて現代社会は様々な格差や不平等が是正されたため、その分、人間の生物学的次元に元々存在していた個人の生得的な能力差が表面に現われるようになり、そうした能力差がより強く社会の中に反映されるようになったからだと。また、昔は人間の行動は文化的コードによってがんじがらめにされていたのだが、現在は文化の脱コード化が進み、人々は面倒臭いしきたりや礼儀から解放されてフランクにふるまえるようになったため、その分、人間の生物学的本性がそのまま社会の中に反映されるようになったからだと。

確かにいずれの捉え方ももっともだと思う。とはいえこれらの捉え方は、人間の生物学的本性を捉える自然科学的知の実効性を無条件に前提としたままであったため、フーコー的観点からは不十分だとの誹りを受けてしまうのではないか。フーコー的観点からすれば何らかの知が社会的実効性を持つのは、実はそこに権力の作用が働いていたからであり、特に人間を生物学的次元に還元する自然科学的知の実効性の増大は、生(物)権力による統治の促進と無関係である筈などないからだ。

また自然の次元と社会の次元を整然と区別し、両者の二元性を前提としたままだった点も気にかかる。ラトゥール的観点からすれば、自然の次元と社会の次元との間の画然とした区別を一旦所与の前提として受け入れたうえで、後から他方の次元を一方の次元に強引に還元しようとするふるまいこそ、最早その限界が明らかになった、古色蒼然とした近代特有の身振りそのものでしかないからだ。ラトゥールにとってはそうした身振りは、自然でも社会でもない、準オブジェたちの媒介を無際限に増殖させながら、その媒介の過程をまるごとなかったかのように否認したことによって初めて可能になる、一種の砂上の楼閣のようなものでしかなかったのだ。そのため彼は、近代特有の身振りを可能にしている、準オブジェによる媒介の無際限化とその過程の否認というあり方を正面から学問の対象にしようとして、新たに対称性人類学というものを提唱したのだが、まさに現在の行動経済学進化心理学の覇権という現象こそ、この対称性人類学の分析対象としていくべきだろう。自然の次元と社会の次元との間の画然とした区別が前提とされたまま、行動経済学進化心理学が新たに力を持ったことによって、現在後者の次元が新たなかたちで前者の次元へと還元され始めたわけだが、こうした趨勢をもたらした、準オブジェの媒介とその過程の否認のあり方とはいったいどのようなものだろうか。やはりそこには、(理論の次元というよりも)まさに準オブジェたちの実際の媒介の過程で「統治」と「功利」というものが強く結びつき始めた、統治功利主義という特有の統治形態が深く関わっていたのではないだろうか。