外付脳内そっ閉じメモ

脳内に澱のように溜ったものの単なる置き場デス。そっ閉じ必至。

無関心、触媒、受動的攻撃性

第1段階:〈無関心、鈍感さ〉の確立。資本の自己増殖がない方がよい立場(オルタ志向の〈非〉のスタンス)でも、資本の自己増殖があった方がよい立場(ネオリベ、金融資本主義)でもない、自己増殖があろうがなかろうが「どっちでもよい、どうでもよい」、〈無関心、鈍感さ〉の立場の確立*1

第2段階:〈触媒〉作用。その立場が、「資本の自己増殖があった方がよい/ない方がよい」という対立に囚われているままの者に対して、自らは何も変わらない、何も動かないまま相手に対しては大きな変容を強いる、〈触媒〉として作用するようになる。その対立に囚われている限り行き詰まって最早先が見えなくなってしまったという、自らが置かれている現実や、また、そんな対立に囚われ続けていた自らの了見の狭さ、底の浅さを相手に察知させ、根底から崩れ折れさせることになるわけだ。こうして、資本主義に対する抵抗実践における〈非〉のスタンスから〈卒〉のそれへの移行が開始されることになる。

第3段階:〈受動的攻撃性〉の実践。資本の側からの、資本の自己増殖があった方がよいという立場の押しつけと、資本の自己増殖に参加しろというそそのかしに対して、そんなことには関心がない、そんなことは大切なことだとは思えないという無関心さ、鈍感さの立場を意識的に対置させ、いわば「能動的に」受動的攻撃を仕掛けていく。なおこの場合の主要敵は〈金融資本主義〉ではなく、資本主義のその次の段階である〈信用信用度、信用評価資本主義〉になると想定される。資本によってせき立てられた、信用度を評価するための複数の基準の間の闘争(たとえば、民主的な価値観の内面化の度合の高さによって信用度を計る基準と、国家権力に対する忠誠度の高さによって信用度を図る基準との間の闘争など)が生じている只中において、どれかの基準に特に肩入れすることなく、そうした闘争そのものや信用度の高さをめぐる競争それ自体*2にリアリティを感じない、ピンと来ないという自らの〈無関心、鈍感さ〉の立場をことさらに対置させていくわけだ。〈信用〉の実践。またそのようにしながら、いわゆる〈共産主義〉とは、互いに信用したり尊敬したりせずに、最大限に助け合ったり、最大限に互いの自由を尊重していくことであるという点をも強調していく。相互信用、相互尊敬と、(信用、信頼や尊敬の有無に関わらず成立する)相互扶助、相互尊重との間の峻別化。

*1:この立場は、複数あるセクシャリティの種類の中での「全性愛」(パンセクシャル)の特徴と対応するかもしれない。「両性愛」(バイセクシャル)と「全性愛」(パンセクシャル)との区別は元来微妙なのだが、強いて言えば、前者が男性的特徴と女性的特徴の両方に魅かれるセクシャリティであるのに対して、後者のセクシャリティでは、男性的特徴と女性的特徴との間の区別自体が最早どうでもよくなり、人を好きになる際にいかなる男性らしさや女性らしさも求めたりしなくなる。人を愛することにとって、性の区別などそもそも「どっちでもよい、どうでもよい」事柄でしかなくなるわけだ。また「非性愛」(ノンセクシャル)と「全性愛」の区別も同じように微妙なのだが、やはり重要である。非性愛が、性的欲求というものが重荷になって余計なものと化したため、性愛の領域をまるごと恋愛の領域から切断して無関連化しようとするセクシャリティだったのに対して、全性愛は、性愛の領域を支配していた性差の区別や規範など最早どうでもよくなったため、そうした区別や規範自体に無関心、無頓着になってしまったセクシャリティだと言えるだろう。つまり非性愛が、恋愛から性愛の領域自体を切断しようとする、〈〉のスタンスのふるまいだったのに対して、全性愛は、性愛の領域を支配していた性差に無頓着になり、性愛における性差への拘泥や留意自体から離脱した、〈〉のスタンスのふるまいであると見なせるわけだ。言い換えれば、恋愛から性愛の領域をまるごと切断して排除してしまうか、それとも恋愛と同時に性愛を引き続き求めつつも、既存の性愛のあり方の中に存在していた性差への拘泥、留意自体からは最早離脱していくかの違いとなるだろう。

*2:特定の信用度を計る基準をすでに受け入れたうえでの、信用度の高さそのものをめぐるベタな競争と、複数の信用度を計る基準の間での、妥当性や適切性をめぐる言論上でのメタな闘争とを区別する必要があると思われる。

批評と思想、運動とデザイン

こちらのエントリーの続きデス。

①かつて(吉本隆明ヘゲモニーを握っていた頃)

「思想」と「運動」の間に挿入される「批評」

「思想」と「運動」の結びつきが前提とされ、両者の結びつき自体が疑われることはなかった。人々に向かうべき方向や目指すべき理念を示す「思想」は*1、世の中をよくしようとする「運動」を「理論」を通して導こうとするのだが、その導きが一方的なものになったり、「思想」と「運動」との結びつき方が硬直したものにならないようにするために、「理論」と「運動」との間に、時代の最新動向(=状況)を認識することを通して、既存の「運動」や「思想」のあり方に絶えず反省を迫っていく、「批評」というものが新たに差し挟まれるようになった。

*1:前回のエントリーと今回のエントリーを比べると、「思想」という言葉の意味が少し変わっている。前回のエントリーでは、「思想」とは、図式の修正や発想の転換の競争やゲーム(象徴闘争、ヘゲモニー闘争)に参加し、新たな図式や発想を提示していくことを意味したのだが、今回のエントリーではこうした意味は背景に退き、むしろ、人々に進むべき方向や目指すべき理念を明らかにしていくという、より一般的な意味の方が前面に出ている。また新たな方向や理念を明らかにする際、それらに説得力を与えるために、同時に一種のレトリックとして(たとえば、これから示すような)歴史哲学的図式も提示されるのだが、むしろこの歴史哲学的図式の提示の方が、象徴闘争、ヘゲモニー闘争への参加を意味することになる。

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〈間〉〈隙間〉〈閾〉〈狭間〉

〈間〉という特有のポジションは、システムの硬直性から自由になることによって、、当のそのシステムの発生現場にあくまでとどまり続けようとする/システムの発生現場にあくまで留まり続けることによって、当のそのシステムの硬直化から自由になろうとすることである。

まずこの〈間〉というポジションから、〈隙間)(余白)というそれが派生してくる。この〈隙間〉というポジションを重視する立場は、システムの発生現場にとどまり続けることによって初めて可能になる創造性や創発性というものを、高コンテクストで閉鎖的なシステムの内部でしか可能にならない、微妙なニュアンスの世界にただ遊ぶこととを混同してしまうことから生じてくるものだ。残念ながらこの立場は、たとえシステムが硬直していても、そのシステムが高コンテクストなものであるなら、その内部で創造性や創発性の発揮させることは相変わらず可能だという深刻な錯覚を、われわれに与えてしまうことになる(松岡正剛の日本論)。

次に〈間〉というポジションから派生してくるのは、〈閾〉(敷居、境界線上)というそれだ。〈閾〉とは、或るシステムが別のシステムに変化する際の、ちょうどその変化が生じている飛躍点、特権的瞬間のことである。またその特権的瞬間の前後には、一時的で例外的な時空間も成立する。この例外空間まで〈閾〉の一部に含まれることがある。大きな変化、飛躍が間近に迫り、それが生じる直前の時空間では、既存のルールや規則が全て無効化するとともに、これから新たなシステムが到来するという期待感に満たされる。また、すでに変化や飛躍が生じて新たなシステムが立ち上がったばかりの時空間では、人々は古いものの桎梏から自由になったという解放感に満たされ、これからは、従来よりもっとマシなシステムを構築していこうという希望に満ち溢れることになる。このような〈閾〉というポジションを重視する立場は、システムの硬直性からの自由というものを、システム自体の変化の単なる目撃や経験と混同してしまうことによって初めて成立してくるものだ。残念ながらこの立場は、たとえシステムの発生現場に常に留まり続けたり、システムを常に新鮮な発生状態に留める粘り強い努力をしなくても、既存の硬直したシステムが崩壊して新たなシステムが立ち上がる歴史の転換期にたまたま遭遇することができさえすれば、それだけでわれわれは人間の根源的な自由な触れ、あらゆる桎梏から解放を経験できるのだ、という有害な錯覚をわれわれに与えてしまうことになる(アガンベンの時間論。革命がまさに閾=敷居を跨ぐこととして捉えられている)。

一方自分は、〈狭間〉というポジションを重視する立場に立つ。〈狭間〉というポジションは次にような経緯で成立してくるものだ。まず、いくら閉鎖的なシステムの〈隙間〉に留まり続けても微妙なニュアンスの世界に遊ぶことができないままだと、ただ単にとりとめない感覚が氾濫するとうになって自我が不安定になり、身を持ち崩してしまうだけになる(サブカル疲れ)。そこでこんな閉鎖的なシステムの終焉、解体を願うようになるのだが(ヤケクソ的な破壊願望)、いざ実際に閉鎖的なシステムの解体、終焉が始まって新たなシステムの到来が展望されるようになったとしても、既存のルールや規則の無効化対して特に解放感を覚えることもなく、また新たなシステムの到来に対しても(どうせまた同じように特定にルールや規範によって人々を縛るようになるだけだろうから)別に期待を抱くこともなく、醒めたままの状態に留まってしまう。ところがこのように醒めた姿勢を取り続けていると、システムが解体、終焉していざ実際に新たなシステムが成立したとしても、新たなシステムにシンパシーを感じられないままになるから、その結果として、古いシステムから新しいシステムが移行する途中に開かれた空虚なエアポケット空間の只中に取り残され、そこで途方に暮れてしまうことになる。システム更新の最中に開かれるこのエアポケット空間こそ、実は〈狭間〉に相当するものであり、それは、本来は特権的瞬間として時空的な延び広がりを全く持たなかった〈閾〉が変容して、弛緩しながら延び広がってしまったものだと言える。また同時に、〈閾〉の近傍に存在していた、解放感と期待感に満たされた例外空間がだらしないかたちで日常化して、一種の慢性症状へと劣化、変質してしまったものだと言える*1

この〈狭間〉というエアポケット空間に閉じ込められた、身を持ち崩して‐醒めて‐途方に暮れてしまったあり方においてこそ、システムの破壊と再生(に対する熱狂と期待)というものから充分に距離を取ったまま、システムが生成しつつある渦中の状態の傍らにあくまで留まり、そのことを通してシステムの硬直化から自由になっていくことを実現できるのではないだろうか。もちろん、こうしたことを本来実現するとされた〈間〉というポジションと、〈狭間〉というそれとは、あるいは、あくまで〈間〉に留まり続けて瑞々しさや柔軟性を維持しようとするあり方と、仕方なく〈狭間〉に取り残されて身を持ち崩したり途方に暮れてしまうあり方とは、むしろ対極的なものに見えてしまうのだが。

多くの人々が気づかない、〈閾〉と〈狭間〉との間の決定的な違いや対立に拘泥しながら、同時に、これまた多くの人々が陥っていた、〈隙間〉と〈間〉との有害な混同を強く諌めつつ、さらに、一見対極的なものに見える見かけを乗り越えて、〈狭間〉と〈間〉とを新たに関連づけていくこと。こうした作業に勤しむのが、取りあえずは自分の基本的立場なのだろう。

*1:なおアガンベン『開かれ』の訳者解説では、わざわざ〈狭間〉という表現が使われていたにもかかわらず、アガンベンの言う〈閾〉とこの〈狭間〉というものとが終始混同されたままだった。

〈反〉〈脱〉〈非〉〈卒〉

現在、〈非〉(無関連化・切断操作)というスタンスを重視する者たちの間では、システムを否定しようとする〈反〉というスタンス(解体、拒絶)が持っていたポテンシャリティを一番継承できるものこそが〈非〉というスタンスだという見方と(おもに運動系)*1、いやそうではなく、〈非〉というスタンスは、システムが強要するものの見方から自由に距離を取ることを可能にする、〈脱〉というスタンス(出し抜き、掘り崩し、骨抜き化)が帯びていたアティテュードを一番継承できるものなのだという見方とが(おもに批評系)、互いにせめぎ合っている*2

それに対して自分の立場は、〈非〉というスタンスと〈卒〉というそれ(無関連化ならぬ無関心化、出し抜き化ならぬ手放し化)との間の違いや対立に拘泥しながら、実は〈卒〉というスタンスこそ、〈反〉というスタンスが持っていたシステムを否定するポテンシャリティと、〈脱〉というスタンスが持っていた、システムから距離を取るアティテュードを一番継承できるものだ、というものである。これからこのことを詳しく裏づけていく必要がある。

ちなみに〈反〉というスタンスは、システムを正面から否定することによってシステムの外部に出ようとする試みのことであり、他方〈脱〉というスタンスは、システムの内部に留まったまま、そのシステム自体の効力を骨抜きにできる自らの肯定性(力の過剰性)に依拠することによって内破の運動を生じさせ、何とかシステムを内側から消滅させていこうとする試みのことである(ネグリ=ハートのマルチチュード論などがその典型)。また〈非〉というスタンスは、いっきにシステムとの関係を切断、無関連化できるような自らの肯定性(意味や言葉の世界から取り残された残余享楽の執拗さ、除去不能性)に依拠することによって、システムの外部に一挙に脱出しようとする試みのことである。他方〈卒〉というスタンスは、システムの内部に留まったまま、システムからの要求に反応したり、システムに依存することをこちら側から否定し(無関心化)、そうすることによってシステムの機能を停止にもたらそうとする試みのことである。

*1:特にティクーン派の日本における受容において。

*2:なおA・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』に関して言えば、それは、今更ながらに〈脱〉というスタンスが〈反〉というスタンスの継承者だった点ををただ確認しただけのものに過ぎなかったのではないか。この本がわれわれに突きつける、つながりか切断(による破壊)か?という二者択一は、一応〈非〉というスタンス特有の問題構制に属してはいるのだが。

ヘンタイ・パフォーマーたちの存在と機能

もてあました自分の存在をどう受けとめてよいかわからず、また世界に受け入れられたという記憶が乏しいため、世界にどう関わってよいかもわからない。そのため仕方なく、内から迸り出てくる破壊衝動と表現衝動にひたすら忠実に従っていくことしかできない(それ以外にやることがない)、アート「もどき」(←ここ重要!)のパフォーマンスに勤しむヘンタイ・パフォーマーたち。彼/彼女たちの実践(というよりプラクティス:慣習行動)は、いわばアート・セラピーのセッションが失敗して空転し続けている状態なのだと言える。もう一歩踏み込んで言えば、アート・セラピーが失敗した空転状態そのものの慢性化。(傍らからは意味不明でチープな表現行為にしか見えない)ヘンタイ・パフォーマーたちのこうしたあり方は、当然アートとも政治的プロテスト行為とも、はたまたセラピーの実践とも見なされないだろう。それらのものの狭間に穿たれた空間に落ち込んで、そこで動きが取れなくなってしまった、いわば歴史のあだ花のような存在。

ところでヘンタイ・パフォーマーたちは、当然アート・セラピーそれ自体の可能性も掘り崩してしまうため、アート・セラピー関係者にとってもまた厄介な存在だったのだ。アート・セラピーのワークショップで、やたら元気でよく発言するのも実はこの種の連中であることが多いのだが、たいていの場合は言っていることが余りにも独自(というかひとりよがり)なので、参加者のうちでまっとうにアート活動をしている者と、精神療法の仕事を専門にしている者やその勉強を現在している者は、ただ苦笑いして話を聞いているふりをするか、もしくはひたすら見て見ぬふりをするようになってしまう・・

けれども元々アート・セラピーという存在そのものが、アートとセラピーの間に穿たれた狭間の空間に位置してきたものでしかなく、しかも、アートとセラピーの世界の両方から一段下のものでしかない、もしくは胡散臭いものとして常に見られてきたのではなかったのか。そうであるのなら、アート・セラピーのワークショップにこうした者たちが集まってくるのも、さもありなんということになるのではないか。それならむしろ逆に、アート・セラピーのセッションの失敗形態を日々生きるヘンタイ・パフォーマーたちが、アート・セラピーの場そのものを完全に占拠・占有してしまった方がよいのではないか。なぜならそうなった方が、アート・セラピーはジャンルとしてより自立できるようになるかもしれないからだ。ヘンタイ・パフォーマーたちがアート・セラピーの主な担い手となれば、アートとセラピーのただの中間形態として、完全なアートでもセラピーでもないものとして一段下に見られていた段階から、アートとセラピーの間に穿たれた狭間の空間の上で、独自なジャンルとして改めて自己を打ち立てることができる段階へと移行していくかもしれない。ただこうしたことを実現するためには、現在はアートセラピーの失敗形態をただの症状として慢性的に生きているだけにしか見えない、ヘンタイ・パフォーマーたちの実践(慣習行動)をそれ自体で完成したものとして捉え返し、実際にそうしたものへと内的に変容・昇華させる(=生そのものの作品化)努力を始めていく必要があるのだが・・

哲学、思想、理論、批評

「哲学」とは、自明とされていることを思考によって捉え返し、それが決して自明ではなくなるような次元にまで至ること、またはそうした次元にあくまで留まり続けようとすること。

「思想」とは、物事をより包括的に説明できるよう既存の図式を修正したり、既存の見方ややり方の行き詰まりを打破するために従来の発想を転換すること。つまり、そうした図式の修正や発想の転換の競争やゲームのこと(=象徴闘争、ヘゲモニー闘争)。

「理論」とは、社会的に共有された学問的な手続きに従って、首尾一貫して筋の通った理屈として展開されたもののこと。そうした理屈の展開は、自明なことが本当は自明でないことを説明したり、自明なことが自明でなくなった次元を維持するために行われる。あるいは図式の修正や発想の転換が有効であることを人々に説得するために行われる。

「批評」とは色々なものの良し悪し、出来具合を比較すること。それは以下の3つの段階に区別される。
1) 時代や社会の大きな動向を踏まえながら、特定の作品やコンテンツの良し悪し、出来具合を比較すること。
2) 逆に卓越すると見なされた作品やコンテンツの方から(それを時代や社会の診断基準として設定したうえで)、同じ時代や社会の中に複数存在する様々な動向(流行や潮流)の間の良し悪しや、それらの真正性の度合を比較していくこと。
3) さらに、同じ時代や社会の中に複数存在する様々な動向の間の良し悪しや、それらの真正性の度合の比較を通して、複数ある物事の非自明化の仕方(様々な哲学)の間や、複数ある図式の修正と発想の転換(様々な思想)の間の有効性の度合まで比較していくこと(どんな哲学や思想が、同時代のどんな社会の動向に対応し、それを反映しているのかを指摘していきながら)。

*なお、時代や社会の動向(=歴史)のうちに物事の本質、あるいは本質と非本質との間の絡み合いが表れているという(ヘーゲル的な)前提が社会的に共有されなければ、批評という営みは成立しない。
*さらに(単なる意匠やスタイリングとは異なる)「デザイン」とこれらのものとの違いも明らかにしていく必要がある。

李珍景『不穏なるものたちの存在論』について

あかねでの読書会の告知です。

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